02




これが現実ではなくただの悪夢であれば良かったと、何度思ったことだろう。
それは私が友人と遊ぶ為に、一人で家を出ていた間に起きた出来事だった。

学校が休みの日曜日、朝起きるのが苦手だった私は予定よりもだいぶ遅くに母に揺り動かされて目を覚まし、ドタバタと家の中を走り回っては休日を楽しんでいた父に小言を飛ばされて面倒くさそうに空返事をしていた。
まともに2人の顔も見ずに準備を整えた後は玄関に放り出された靴に足を引っ掛けて、リビングにいる2人に向かって叫ぶようにいってきますと言葉を投げて、いってらっしゃいを聞き終わるのも待ちきれずにバタンとその玄関の扉を閉めたのだった。
それが、2人と接することができる最後の日だったなんて知りもせずに。

「おとうさん…?おかあさん…?」

友人と別れていつもと同じように帰ってきた私を出迎えたのは、どの部屋にも明かりの灯らない、真っ暗な家だった。
出掛けているのだろうかと、カチャリとドアに手をかけて引いてみたら鍵が引っかかることもなくスムーズに扉が開いて、更に頭に疑問符を浮かべることになる。
声を掛けても、部屋の奥から返事は返ってこない。いつもと明らかに様子の違う家に戸惑いながらも、足は勝手に住みなれたリビングへと進んでいった。

「おとう、さん?」

いつも座っているソファの横で、倒れている父の姿を発見した。
急に頭が真っ白になって、ぼそりと父を呼んでも何も返答がない様子を見て、慌てて傍に駆け寄ろうとした。

ずるり

父の元へ行き着く前に、何かに足を取られた私はその場にすっ転んだ。
何が起きたかも理解できず、殆ど乾きかけたその物体がざりっと音を立てて、手のひらを赤黒く染めた。

「なに、これ…」

倒れた父のお腹は、切り裂かれていた。
そして私の手についたものが、その父から流れ出した血なのだということが頭の中で結びついた時には、何処から出てくるかも分からないような叫び声をあげていた。

「っいやああああああああああああああ!!!」

手についた血が、倒れた父の最期の表情が、その先に倒れていた母の体が、私の中の何かを壊していくかのようだった。
喉から血が出てくる程に叫び声をあげて、体の中の水分が全て涙に変わったんじゃないかってくらいに泣いて、気付いた時には私の体は病院のベッドの上に横たえられていた。





宗教団体による夫婦惨殺事件。
世間の新聞ニュースには当時、このような見出しで取り沙汰されていたらしい。
らしいというのは、その時の私は両親の死という事実と、その光景を目の当たりにしてしまったことによるショックで殆どの記憶が曖昧になってしまったせいだ。
憶えているのは父と母の最期の姿、赤黒く変色した夥しい量の血の痕、パトカーのサイレンの音、パトランプの毒々しい光。
さまざまなショックでそのまま気を失ってしまった私は事件を嗅ぎつけた警察から保護を受け、まともに食事をとることもできなくなり強制的に点滴を打たれる日々となった。
病室へ寝かされたまま形式的な事情聴取が淡々と行われ、時折哀れみを帯びた目が向けられていたのだろうことにも気付かず、自分一人だけが取り残されてしまった現実を受け入れられないまま、あれは神様が見せた悪い夢だったんじゃないかと思い続けていた。
いつになったら両親が迎えにくるのか、と病室に人が訪れる度に問えばそれぞれ顔を険しくさせたり、涙を流していたり。そういった人ばかりを何度も見送った。
しかしいざ形式的に黒の喪服を着せられ、葬儀場に連れて行かれてしまうと、あれはただの悪夢なんかじゃなかったということを嫌でも理解しなければならなかった。
棺に入っていたのは間違いなく両親であり、その両親の穏やかに閉じられた目に、血の通っていない顔に、これは現実なんだと突きつけられたような気分だった。

最早私の目からは、涙すら零れなくなっていた。
気がふれたとでも思われたのだろう私に声を掛ける人間はおらず、しめやかに葬儀が執り行われていくのを虚ろげに眺めて、そうして、何もかもがどうでもよくなっていくのが分かった。

「わたしも…そっちに」

小さく小さく呟いた声を拾う人なんて、きっと誰もいなかっただろう。まるで感情を失った人形のように表情を変えないまま、葬儀は終わっていった。
そうして再び病室へと戻された私は病院の人間や警察関係者が部屋から出ていたタイミングを見計らって屋上へと足を運んだ。
冷えた風が頬を撫でて肌寒さを憶えたけれど、両親がこの世から消えてしまったってまるで関係ないのだと付きつけられる程に穏やかで、月の綺麗な夜だった。

変わらない。そうきっと、父と母が消えたところでこの世界には何の関係もなかったように、私が消えたところで明日も変わらない夜がやってくる。
だったら私がこの世界にいようといまいと、もう誰にも関係ない。

怖さはなかった。あと一歩足を踏み出せば屋上から真っ逆さまというところまできても何の躊躇もなかったのだから、間違いなく私の気はふれていたのだろう。
そっと目を閉じると、小言を飛ばした父の顔、優しく揺り動かして起こしてくれた母の顔が思い浮かんだ。

「いま、いくから」

今度こそ、最後までいってらっしゃいを聞くから。
ただいまって、言わせて欲しい。

たん、と足が宙をきった。
確かな浮遊感を感じて、これから自分の身に何が起こるかを予感した私の中にはほんの少しの恐怖が生まれたけれど、重力に逆らった体はもう止められず、そのまま地球の法則に従って落ちていくだけだった。
閉じた瞼にぎゅっと力を込めて、できれば痛いのも苦しいのも一瞬で終わりますようにと願って、その瞬間が訪れるのを待った。
しかしいつまで経ってもその時がやってくることはなかった。まるで私の願いなんて裂く程の強い力で、腕が引かれたからだ。
くん、と腕一本で宙吊りになった私の体はその強い力によってそのまま繋ぎとめられて、不本意ながらもこの何の未練も感じられない世界に留まっていた。

「何を、している…!」

地の底から搾り出したような掠れた声が耳に入ってきた。それも束の間、痕が残る程の強さで腕が引っ張られたかと思うと、空をきっていた足はいつの間にかコンクリートの平面の上についていて、あれよあれよという間に屋上の淵から引きずられて、遠ざかっていった。

「っはなして、はなしてえ…!」

いやいやと何度も頭を振っても聞き入れてもらえず、屋上の中心まで連れてこられるまでの間ひたすらに放してくれと懇願することしかできなかった。
まともな食事を取っていなかった体はどれだけ捩っても自由なんて利かなくて、為す術はなかった。

「馬鹿なことはやめろ!落ち着け!」

がんっと両足が縫い付けられるような程の強さで両肩に手が置かれ、意志の強さが宿る声に動きを制された。
その声の主を煩わしくも見上げる。月の光と逆光になって顔はよく見えなかったけれど、その人物が男性であること、そしてこの人から、私の最後の願いを邪魔されたのだということが分かった。

「なんで…邪魔するの」

ぽつんと零すように落とした一言に目の前の体が身じろいだのが伝わって、私の声が彼に届いたのだということがわかった。
ふるりと、体が自分の感情とは関係ないところで何故だか一度震えて、ゆっくりと自分の手が、目の前のスーツへと伸びていく。
力任せに握ったジャケットにはたくさんの皺が刻まれたけれど、彼がそれを咎めることはなかった。

「どうして、死なせてくれないの」
「ここにはもう、いないのに」
「いってきますを言う相手も、おかえりって帰りを待ってくれている人も…もう、いない、のに」

一言一句、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。
そしてそれを声に出して紡ぐ度に、自分の放った言葉から無遠慮に殴りつけられていく。

もう、いない。
そう、葬儀に出てから気付いたんじゃない。あの日家に帰った時から、父と母の亡骸を見た瞬間から、きっともう分かっていた。
ただそれを最後の最後まで、認めたくなかっただけだった。

何故あの日私一人だけで出掛けたりしたんだろう。一緒に家にいなかったんだろう。
どうしてあの時お父さんの言うことに適当に返事を返したりしたんだろう。お母さんの顔も見ずに玄関までいってしまったんだろう。

最期のいってらっしゃいも満足に聞かないまま、扉を閉めてしまったんだろう。

「一人取り残されるくらいなら…一緒に、死にたかった」

ジャケットを握り締める手の震えが止まらない。立つこともできなくなってずるずるとその場に力なく膝をつく私に合わせて、彼もその場に膝をつく。
私の言葉を一言一句口を挟まずに最後まで聞いていた彼は、無言で私の肩に力を込めたままだった。
しかしその肩に置かれた力がほんの少しだけ緩んだかと思ったら。ゆっくりと真一文字に引かれていた唇が開いて、静かな声が響いた。


「それでも、生きろ」


その声を何かに例えるとするなら きっと、雨だ。


「両親との思い出までもが、死んでしまわないように」


その雨はすっかり乾いてしまった大地に一粒、じんわりと微かな水分を含ませたあと、次から次へと優しく落ちてくる。

「自分一人だけが生き残った、その意味を考えながら生きていくんだ」
「犯人は警察が捕まえる。家族の無念は、俺達が必ず晴らす」
「だから、両親が生きたかった分まで生きろ」
「今がどれだけ辛くても、苦しくても、生きろ」

この世界に留めるように、しっかり立てと鼓舞するように再び握られた肩にぐっと力が込められた。


「これから先いってらっしゃいやおかえりを言える誰かと出会う為に、生きろ」


目の前にある絶望の中真っ直ぐ飛んできた言葉が、干からびた心に止め処なく降り注いでくるかのようで。一瞬煌いた青の瞳が、霞がかった世界の中で唯一の光のように思えた。

「――っ」

思わず見開いた目には、変わらずその場から動かないその人がうつってて。はっ、と何かを言いたくて口を開いても塞き止められたようにその先の言葉は出なくて、じわじわと体の中を駆け巡る血がようやく息を吹き返したかのように巡りはじめた感覚がした。
何も言えないで言葉を失っている私を余所に、まるでこの世界に縫い付けるかのように力の込められていた手のひらがそっと肩から離れたなら。一瞬の間を置いた後、頭を優しく撫ぜたのが分かった。何も発することのできなかった口からようやく、嗚咽が漏れた。

おかしいな。今日は腹が立つ程月の綺麗な夜だったはずなのに。何故だろう、頬が濡れてる。
ああ、私にはまだ――流す涙が、残ってた。

「うっ、ふっう…うっああああ…!」

皺くちゃになったスーツから手を離して見っとも無く泣き叫びながら目の前の胸に飛び込んでも、両の手を背に回してきつくきつく抱きついても、振り払われることはなく。
たどたどしく触れたもう片方の手が不器用に背を支えたのが分かって、余計に涙が止まらない。

「うっ…あっああああああああああ!!」

抱え込んでたものを全て投げ出して一心に泣き続けるその様は、まるで赤子のようだっただろう。
そんな弱っちい私を最後まで放り出すことなくあやし続けてくれた彼を。この世界から消えたがった私を引き止めてくれた彼を。

私はずっと、探し続けている。