03




「…とまあ、こんな感じなんです」

ランチタイムを若干過ぎたとはいえ、休日の飲食店の中はどこもかしこもガヤガヤと賑わっていた。
だというのに私達のついたテーブルだけ、まるでこれからお通夜でも始まるかのようにしんと緊迫した沈黙が広がっている。
なんとかこの空気を変えようと高めのトーンで声を掛けたものの、目の前に座る梓さんは今にも泣きそうなのを堪えるように、体を縮込ませて空になった珈琲カップをじっと見つめたまま動かなくなってしまっていた。

「…話して聞かせるようなことではなかったですよね。ごめんなさい、重たい話をして」
「っ、そんなこと!」

私の言葉にようやく顔を上げた梓さんは、少しだけ水分の多くなった瞳を携えて私を見つめた。「聞いたのは私だから」「寧ろ辛い過去を思い出させてしまってごめんなさい」と言葉を続ける梓さんに、思わず頬を綻ばせる。
自分の過去を自ら人に話して聞かせたのは、初めてだ。勿論起こった出来事全てを話したわけではないけれど、掻い摘んで起こった事をこうして誰かに話すことができるようになっただけ、私の心は成長したのだろう。
未だ泣きそうな顔で此方を伺ってくる梓さんに困ったように笑いながらも、私の記憶はつい昨日ポアロに行った時へと巻き戻っていった。





「あ…よろしく、おねがいします」

にこやかに自己紹介をしてくれた彼、安室透さんの顔を食い入るように見つめたまま気付けば随分と時間が経過していたようだ。不思議そうに青の瞳を丸めてきょとんとした顔をしていた安室さんにとって付けたように言葉を返すと、ようやく彼の顔にも再び笑みが浮かんだ。
その間も私の心臓はドッドッドッドッ、と逸るように急速に動き続けていた。甘くて聞き取り易い声はかたさを感じることなくどこまでも此方を懐柔してくるかのようだけれど、あの凛と通った声が何故だがその声と重なってしまう。褐色の肌も、今思えばあの時の彼もそうだったように感じて。何より光を宿すその瞳の青は、知っている色のような気がした。

「名前さん、どーしたの?安室のにーちゃんと知り合いなの?」

は、と高い少年の声から現実に引き戻されて、屈託のない顔をしたコナンくんが首を傾げて此方を見ていた。一瞬動きを止めた後、ううん違うよ、と何とか笑って返して視線を外したのだけれど、その隙に小さな男の子が何かを考えるように訝しげに私を見ていたことなんて、他のことで頭がいっぱいだった私は気付きもしなかった。
それでは仕事に戻りますので、と一声掛けてカウンターの奥へと引っ込んでいった安室さんを見送る間も、頭の中では過去の記憶が擦れたビデオテープを巻き戻すように何度も再生されている。
私の身投げを止めてくれた彼については、あの日の夜に起こった出来事以外のことは何も知らなかった。犯人を必ず捕まえると約束してくれたくらいだから恐らく警察の人だということ。それ以外のことについてはさっぱり分からない。
ちなみに私の両親を手に掛けた犯人は彼の宣言通り、暫く経った頃に警察のお縄にかかった。犯人は新聞でも取り沙汰されていた通り、宗教団体の幹部による犯行だったとのことだ。
普通の生活を送っていた両親が何故そんな人たちに、と憎悪でどうにかなりそうだった私の疑問に警察の人は淡々と答えてくれた。その幹部のうちの一人が、父の昔の友人だったとのことだ。
身勝手なまでに父をその団体へ引き込もうとしたその友人は入団を拒んだ父を殺害し、共にいた母にも手を掛けたとのことだった。

ああ、何年経ったところで怒りで頭がおかしくなりそう。そんな馬鹿げた理由で私は両親を、大切な家族を奪われた。その事実はどれだけ時間が過ぎたって変わらないし、犯人を許そうとも思わない。でもそんな憎悪の感情に蝕まれそうになるたびに、やはり決まってあの時の彼の言葉が頭を過ぎるのだ。

「カフェオレ、ミルク多めで入れてみました。良ければどうです?」

彼の言葉が頭の中で繰り返されそうになった瞬間、その言葉に重なるように声が掛けられてしまえば意識はあっという間に現実へと引き戻されてしまった。
びくっと大きく反応を示した私に青の目を丸々と見開いた安室透さんはすぐに眉を下げた後、申しわけ無さそうにしゅんとした顔をしてみせた。

「驚かせてしまってすみません。お気分が優れないように見えたので温かい飲み物でもと思ったのですが」
「あ、ああ…!すみません此方こそ、気を使ってもらって。それにあの、随分長居してたみたいで」

慌てて時計を見たらここにきてから軽く針が一周する頃合だった。目の前に座っていた筈の蘭ちゃんとコナンくんもいつの間にかいなくなっていて、恐らく私に声を掛けて席を立ったであろう2人に申し訳なくなってしまう。考え事の最中に話しかけられて空返事を返すのは、自分の悪い癖のひとつだった。
はあと一気に肩の力が抜けたように感じて、無意識に力が入っていた体の緊張をといた。そして未だ私の席の隣にじっと立っている安室さんと顔を合わせると、有り難くカップを受け取ることにした。

「迷惑な客ですみません。ちゃんとお支払いするので、伝票につけてくださいね」
「いえいえ、これは僕の勝手なお節介なので。お近づきの印に」

そう言ってこそっと片目を瞑って見せた彼に、思わずふふっと声に出して笑ってしまった。今時そんな仕草をして許されるのは芸能界で活躍するアイドルか、彼くらいなものだろう。にこりと笑う彼の顔はどこか貼り付けたようにも見えるけれど柔らかくも感じて、それどころか物腰までもが柔らかで、声も顔も甘くって。これは確かにそこらの女の子が放っておかないなと妙に感心してしまう。

「わ、おいしいです。実は私カフェオレが一番好きなんですよ」
「おや、そうなんですね?甘いものも頼まれていたのでお嫌いではないだろうと思ったんですけど、良かった。覚えておきます」
「…安室さんも中々お客さんの心を惹きつけるのがお上手ですね?そんなこと言われたら通っちゃいますよ」
「もう通われているんでしょうけど、是非そうしてください」

にこにことどこまでも笑顔を絶やさない人だ。そして梓さんと一緒で、商売上手。
件の梓さんはと言えば他にやってきたお客さんのオーダーを取っているところで、一瞬視線を交わらせてにこりと微笑んできた梓さんに、こちらもカップを持ちながら笑顔で返してみせた。

「梓さんとは随分仲が宜しいんですよね。学生からのお知り合いとか?」

そのまま仕事に戻っていくのだろうと思ったけれど、彼は私との会話を選択したようだった。徐に掛けられた言葉に「いえ、違いますよ」と反射で返してしまうと、梓さんとの出会いを思い出しながらゆっくりと口を開いていく。

「外を歩いていた時にすれ違いで落し物をした梓さんを追いかけたのが最初ですね。その後たまたま入った喫茶店で再会した時は流石にびっくりしました」

思わず顔を見合わせて「あー!」と叫んだ時のことは忘れられない。その時にたまたま居合わせた蘭ちゃん、園子ちゃんとも仲良くなって、コナンくんとも顔見知りになった。
過去の事件以来なんとなく周囲の人と疎遠になっていた私にとっては今一番身近で大切な人たちだ。
私と梓さんとの出会いにほぉ…と感心したように頷く安室さんはその後も当たり障りのない話を楽しく引き出してくれた。他のお客さんは、そもそも仕事はいいのか?という疑問に包まれながらも相変わらず客足はそれほどなく落ち着いていて梓さんも何も言ってこないので、まあ問題はないのだろう。
話し上手な安室さんとの会話を楽しんでいるうちに、彼があの時の警察官ではないか?という疑問は少しずつ薄れていった。あれだけ忙しなく動き続けていた心臓も、今は落ち着いたようにトクントクンと脈打っている。
思えば警察に入るような人がその後職を離れたとしてこんな穏やかな喫茶店で働いているとは考えにくいだろうし、あの当時の緊迫した状況を差し引いたとしても、目の前の穏やかな紳士があの時の彼と同じだとは今となってはどうしても思えなかった。

それでもやはり、自分の中に残る少しの違和感や疑問は晴らしておきたい。

「あの、安室さんは今探偵をされてるんですよね?その前は何か別のお仕事をされてたり…?」

軽いノリで聞いたつもりだった。安室さんが私にしてくれたように、軽い世間話でもするような感覚で。今日会っただけでもお話上手だと分かる安室さんは何の当たり障りもなく、楽しく返答してくれるものだとばかり思った。

「――何故、そんなことを聞くんです?」

周囲の人達から見たら、特に何の変哲もない返事だとも思えただろう。
しかしそれを直接受けた私には、今までよりもどこかかたく返ってきたその声と冷たさに疑問が生じて、何よりもがらっと変わった空気に、驚いた。
目を見開くと安室さんはもうなんでもないような顔をして微笑んでいた。

「っ、ごめんなさい。不躾でしたよね。」
「ただ、安室さんが昔会ったことのある人と似てたんです」
「その人たぶん警察の人だったんですけど、私ずっとその人のこと、」

取り繕うように言葉を捲くし立てた。自分の中で思っていたことをしどろもどろになりながら、不快にさせたかったわけではないと何故だか分かって欲しくて。更に慌てて言葉を紡ごうとする私に安室さんはそっと肩に手を置いて、言葉を静止させた。

「落ち着いてください、名前さん」

その動作や言葉に、先ほどのかたさも冷たさも感じられなかった。少しの苦笑いを滲ませながら此方を落ち着かせるように、穏やかに言葉が紡がれていく。

「残念ながら僕は警察官だったことはないし、今後もなる予定はありません」
「名前さんの探し人…――見つかると、いいですね」





「そんなに似てたの?安室さんと…その、名前ちゃんを助けてくれた彼は」

昨日のことを振り返ってぼうっとしていた間に、梓さんのメンタルは少し回復したようだった。思いのほか私が穏やかな様子でいたこともあってかやんわりと、自分の中の疑問を呟くように問うてきた。それにんー…と首を擡げながら、安室さんの顔を思い浮かべてみる。

「実際のところ、その人の顔は殆ど覚えていないんです。だからどれだけ似てたかと言われるとあまり分からなくて」

私の返事にそっか、と言葉を続けた梓さんはそれ以上のことは聞かなかった。
私と安室さんの昨日のやり取りを見て気にして声を掛けてくれた梓さんには暗い話を聞かせて申し訳ないことをしてしまったけれど、誰かに自分の過去を共有して貰えるのは有り難いことだとも思った。自分だけじゃない他の誰かが知ってくれているということが、しかもその相手が心許せる相手であるということが、嬉しかった。そう思える相手に出会えたことも。

死んでしまった人間が生き返ることはない。もう触れることも、言葉を交わすこともできない。
でも、思い出は残っているってこと。その思い出を語って聞かせる誰かにこの先出会えるかもしれないってこと。
それを示してくれた彼には、やっぱりいつかきちんと目を見て、お礼を言いたいな。

今生きてこうしていろんな人と出会える日々が、とても尊いものだと思えるから。