口づけに託された恋心




 切島くんの顔が、とてもとても近くにある。

 ここは、教室だ。夕日の赤色がとっても綺麗な、放課後の。
 だけど、ううん、これは、どういう状況だろう。

 なんで、ほっぺたを両手で挟んでるの?
 なんで、熱っぽい視線を私に向けるの?
 なんで、そんな苦しそうな顔をするの?

 何かを言いたそうに、切なそうに息を漏らす切島くん。離して欲しいのにそんな顔をされたら、抵抗なんてできないよ。私はただただ、されるがままに棒立ちになっていた。
 こんなことをされて、嫌なはずなのに。ドキドキするだけで、どうして何も言葉を発せないんだろう。わからないことだらけで、どうしていいか、わからない。

「泣かないで、」

 漸く漏れた音に、だけど、何を馬鹿なことを、と、口にした後に思った。泣いてなんかないよ、切島くんは。ほら、涙なんて流れてない。

 切島くんは少しだけ、動揺を表情に滲ませた。だけどやっぱり何も言ってはくれない。相変わらず、何かを言いたそうにはしているのに。

 そうして、ぽろっと。白目がちの瞳から、雫がこぼれ落ちた。男の人に使う言葉じゃないかもしれない。けれど、カーテンの隙間から差し込む夕日に照らされてキラキラと光るそれは、とてもとても、綺麗だった。

 ごめんな、

 か細く謝罪をされて、息を呑む。だんだん近付く顔に、それでも私は抵抗できない。



*****



「………っは、」

 目が覚めた瞬間、息のしかたを忘れてしまったみたいになった。息苦しい。そして、切ない、感じ。
 どくどくと脈打つ音が、はっきりと脳に響く。
 目が覚めて一番にこんなにもわけのわからない不安な気持ちに脅えることになるなんて。こんなの、生まれてこの方初めてだ。

 今日で三日目。夢の概要は変わらない。切島くんと、放課後の教室で、き、キスするってことだもん。
 ……ただ、細かい部分がいくらか変わっていた。今までは、私から声を掛けることはしなかった。切島くんも、見ているこっちが辛くなるような表情は見せなかった。
 それに、あの、涙。
 そして今この瞬間もどくどくと鼓動する、不穏なまでに働く心臓。荒い呼吸。これは、羞恥心どころではなかった。なに、これ。私は一体、どうしちゃったんだろう。

 私の夢は、覚醒とほぼ同時にその内容が頭に直接流れ込んでくる。些細なことまで、だいたいは。

 ぽろりと、雫が溢れた。
 涙。これが涙だと理解した瞬間に、夢で見た綺麗に輝く涙を思い出す。ああ、これは多分、切島くんの感情だ。こんなに苦しいのが、彼の感情なんだ。

 夢の中で描写がされなかったことが、だけどなんとなく理解できることがある。それでも私以外の誰かの感情まで流れ込んでくるのは初めてで、こわい。
 自分の中に確かに存在するこの苦しみが、だけど、自分のものではないとはっきりわかる。口を開いても、出てくるのは言葉ではなく、意味を持たない母音や荒い呼吸だけ。わけもわからないまま、喘ぐ、喘ぐ。

 どうして切島くんは、苦しんでいるんだろう。
 あんなに明るい笑顔の裏で、こんなにも苦しい思いをしていたの?

 一体、どうして、

 胸をぎゅうっと握り込んでも、苦しいのは全然良くならない。寧ろ悪化していく一方で、胸を押さえたままくの字に身体を折り曲げた。頭を低くして、首を縮こませて、肺が締めつけられるような感覚にひたすら耐える。
 スマホがアラーム音を喧しく鳴らし始めて、のろりのろりと片手を動かし、側面のボタンを押して止めた。これだと数分後にはまた鳴り出してしまうんだろうけど、ちょっと。ちょっとだけ、待って。

 もう起き上がって準備を始めないといけない時間なのに、身体は全然言う事を聞いてくれない。頼りない、細く長い呼吸を繰り返して、落ち着けようとするのに、激しくポンプする心臓はそんなことはお構いなしだ。くるしい。息が、できない。

「く、るし……苦しいよ、切島くん……!」

 普段涙腺を締めている何かが壊れてしまったのか、ぼろぼろと流れ落ちる涙が止められない。ついにはひきつけを起こしたみたいに、ひくひくと手足が勝手に暴れる。

 他人の感情に身体を好き勝手にされている感覚が、なんとも言えないくらいに気持ち悪い。拒絶したいのに、拒絶できない。
 やめて、もうやめて。
 苦しいの。そんな顔をしないで。私の中に、入ってこないで。

「……すき。好きなの。あなたのことが好きで、好きすぎて、こんなにも苦しい……!」

 誰に向けて言っているのかはわからない。わからないけれど、心は苦しいままに言葉を垂れ流す。私の喉を震わせて、切島くんの心が溢れ出ているんだ。

 こんなにも切なくて、痛いくらいの淡い恋心は、だけど誰の耳にも届かずに溶けて消えていった。

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