一歩下がって三歩進む




 ああ、緊張する。
 時刻は日付の変わる三時間ほど前。電話をするなら早くしてしまわないといけない頃、だよね。とはいえ、そう言い聞かせてもう何時間経つのだろう。だって、本当に緊張するんだもの。スマホを持つ指先はガチガチに固まっていて、なかなか動いてくれそうになかった。

 別れる直前、上鳴くんは切島くんの連絡先を私に教えてくれた。もちろん許可は取った上で、なので、もしかしたら切島くんは私からの連絡を今も待っているかもしれない。そう思うのは、思い上がりだろうか。
 自分のスマホに表示される新しい名前を見て、あったかい、熱の篭った息を吐く。私の物の一部に、切島くんが存在している。これで、切島くんといつでも繋がることが出来るんだ。上鳴くんを通さなくても、私と、切島くんだけの話ができる。
 そんな風に考えると、顔がばかみたいに熱くなる。頭は煮えているようだし、心臓はばくばくとうるさい。呼吸すらちゃんと出来ない。息が詰まっちゃいそう。私、ほんと、どうしちゃったんだろう。
 上鳴くんや尾白くんと電話する時はこんなに緊張しないのに、切島くんと、だったらこんな風になっちゃうんだね。これは本当に、夢を見たことによる羞恥心だけが原因なんだろうか。……ううん、今こんなことを考えるのはやめよう。余計に電話、できなくなっちゃう。

「今、出てくれるかな……あんまり遅い時間だと迷惑掛けちゃうよね……」

 ああ、恥ずかしいなぁ。ちゃんとお話、できるだろうか。
 まずは、こんな時間に掛けてしまったことを謝ろう。そして、明日の訓練よろしくね、ということを伝えて、とりあえずそれで切っちゃおう。初めての電話で長話をする気概なんて私にはなかった。しかも相手が切島くんとなれば、なおさら。

 さぁ、そろそろ通話ボタンと向き合わなければ。大丈夫。上鳴くんも応援してくれてるんだし、大丈夫。

「い、いくよ……いくよ……!いっちゃうよ……!?」

 画面からあと数ミリ、というところまで近付いた親指は、だけど中途半端な位置で小刻みに震え始めた。触れたところで、ぽち、なんて音はならない。画面にボタンがあるわけでもないから、押した感触も特にない。緑色の丸を、ただタッチするだけ。ただそれだけで繋がってしまうんだ。
 ごくりと溜まった唾を呑み込む。大丈夫。落ち着いて。少しだけ。時間にしておそらく五分足らず。五分足らずを頑張ればいいだけだ。大丈夫、大丈夫。

 時間を掛けて意を決し、漸くその緑色を押した。電話の発信音が鳴るのを、耳に当てて聞く。
 どきどき、どきどき。
 部屋の中の緊張感は最高潮に達していて、心臓が動く音は信じられないくらいに早くなっていた。頭の中で脈が巡る音が大きく響く。ああ、やだ、出て欲しいような、出て欲しくないような。なんだか気分が悪くなってきちゃう。

 コールは三回ほどだっただろうか。突然ぷつんと止まって、「あ、は、はい、」なんて上擦った声が聞こえてきた。普段の電話では全く気にもとめないくせに、慣れない相手の声にぞわりと背筋が泡立つ。耳元がすごく擽ったい。電話でこの声を聞くのは、二度目なんだ。たった二回で、慣れるはずもない。
 「こ、こ、こんばんは」緊張のあまり吃って、私からも上擦った、震える声が出てきてしまう。やだ、うわ、恥ずかしい。どうしよう、切島くんとお電話しちゃってるんだ、と今更なことを思って、少しだけ後悔した。なんて大胆なことをしているんだろう、私は。

「あ、えーっと、こ、こんばんは……。みょうじ、だよな?」
「そ、そうです……。えっと、えーと、こ、こんな時間にごめんなさい……!」

 互いに緊張してしまっているのはよくわかった。そりゃそうだ。切島くんは私のことを好きでいてくれていて、私も切島くんのことが気になっている。日曜日のこんな時間、自分の部屋という場所で、普段その声を聞くことなんてないのだから。
 私の謝罪に、切島くんは「全然!」と慌てたように声を上げた。なんていうか、その、と、ぶつ切りの言葉は何かを言いあぐねているよう。

「あの、こんなこと言うのあれだけど、嬉しくて。みょうじから電話くれるなんて、思ってなかったというか。なんか、うん、すげー嬉しい。夢見てるみたい。ありがとな!」

 ふわああ、なんて、変な声が出そうになったのを、急いで口を塞いで耐える。それはもちろん、嬉しさと恥ずかしさからくるものだ。なんだかいろんな感情が押し寄せてきて、思わずクッションの頭をひっ掴んで抱き寄せた。ああ、切島くんはやっぱり純粋だよ……!上鳴くんは切島くんのこと変態っぽく言ってたけど、やっぱり絶対そんなことないと思う!

「あ、あの、えっと、そうだ!えっとね、明日の訓練、どうぞよろしくお願いします」
「あ、お、おう!こちらこそよろしく!……みょうじって真面目だな」
「え!そ、そうかな……」
「うん、真面目だと思う。みょうじのそういうとこ、なんか、すげぇいいなって」

 照れ臭そうに笑いを交えてそんなことを言う切島くんに、完全に不意を突かれてしまった。
 うわ、ああ、やだ。今ちょっと、っていうかかなりきゅんとした。そんなところを褒められると思ってなかったから、ああ、心臓が痛い。ちょっとだけ収まったと思ったのに、また、脈が、動悸が、激しくなっちゃった。

「き、切島くんって、恥ずかしいこと結構さらっと言っちゃうんだね……な、なんか恥ずかしい……。はぁ……」
「え!ご、ごめん!そんなつもりじゃなかったんだけど!だ、だ、大丈夫か!?」
「あ、う、うん!ごめんね、なんか、すごくどきどきしちゃって、」

 少し大きめの深呼吸を繰り返して、落ち着け、落ち着けとクッションが大きく変形するくらいの力で自分の胸に押し付ける。身体が熱くて、思考回路がまともじゃないことはなんとなく察した。あー、もう、なんかほんと心臓が持たない……。恥ずかしい、死んじゃいそう。
 一方切島くんは、えっと、その、と何かを言いたそうにしていた。どうしたの?と言葉を促すと、いや、その、なんて。

「みょうじさぁ、その、」
「ん?」
「……よ、よかったら、今度、どっか行かねぇ?」

 ふたりだけで。
 付け足された言葉に、身体は今日一番の熱を発した。そ、そ、それって。ま、まさか、もしかして。
 あまりのことにフリーズをしてしまって、言葉は全然出てこない。ここは、了承するべきなのか、拒否をするべきなのか。私はいったい、どうすればいいんだろう。ねぇ上鳴くん。恋愛相談のプロの上鳴くん、教えてよ。
 ……とかなんとか言ったって、ここにはいない男の子に助けを求めても無意味である事は本当はわかっている。現実逃避だ、ただの。どうしてかこの場をはぐらかす、という選択肢は完全に私の頭にはなくて、行くか、行かないかの二択からの決断を早急に迫られている。ああ、やだ。今、頭の中ぐちゃぐちゃだ。どうしよう、どうしよう。

「……あの、やっぱり無理?尾白とか、上鳴とかに比べたら、俺、やっぱ……」
「え!?い、いや、あの二人は別に……ほかの人よりちょっと話しやすいってだけで、ほんと、何でも……」
「そ、そうなん?いや、べ、別にいいんだけどさ……」

 明らかに落胆を含んだ声色に、なんだか罪悪感を感じてしまう。悲しそうな声出さないでよ。嫌とかじゃないの、恥ずかしいだけ。恥ずかしいだけなの。ああいやとにかく、あれだ。一旦落ち着こう。冷静にならなきゃ。こんな状況だし、上鳴くんにばかり頼っていられない。頭回すの。とっ散らかった思考回路をまとめて、整理するの。
 ふと思う。そういえば、私は切島くんのことをもっと知らないといけない、なんて決意をしたんだった。二人で会えるなら、それはそれで都合がいいかもしれない。切島くんのことが本当に好きなのか、はっきりするかも。
 それに断ってしまったら、この関係は中途半端なまま、進展するわけでも後退するわけでもなく、ここで止まってしまうんじゃないだろうか。時間が経つことで切島くんの気持ちが精算できればそれでいいけど、じゃあ、個性で見る夢はどうなってしまうんだろう。それこそ何年もあの夢と付き合うことになってしまう可能性もあるんじゃないの?それに何の解決もしないまま問題を放置してしまうのは気持ちが悪い。そんなのは私の本意ではない。先の通り、二人で出掛けるのが嫌なわけではないのだから。
 なら、ここでの私の返答なんて、一つしかない。

「……き、切島くん、どっか、行こうか」
「……え、」
「ふ、ふ、ふたりだけで、どこか」

 ふたりだけで。
 その言葉をわざわざ口にして、その言葉の重みを感じる。今度は切島くんが絶句した。聞いてみたものの信じられないのか、暫く時間を置いた後、疑うみたいに、「あの、それ、意味、わかってるよな?」なんて確認をしてきた。それに私は「うん、」と返す。

「で、で、デート、しましょう。ふ、ふたりだけで」

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