Oh, sleepy. I want to see a good dream.


 ──奇跡だ。それも神から直々に与えられた大いなる奇跡だ。
 心の中で神への祈りを捧げるチョロ松は今回の出来事をそう思っていた。現実では惚けたように口と目を開けているしかなかったが、心の中では感激の嵐で泣き狂っていた。
 風に揺れる髪の毛、長い睫毛にいろどられた優しげな瞳、ふんわりと舞うクリーム色のワンピース。そして髪が揺れる度、側で彼女が笑う度、鼻腔をくすぐる甘くて清涼感のある香りは頭をくらくらとさせた。
 目の前にいる女の子が自分に優しく笑いかけてくれている現実が夢のようで、ショートした脳内は何を間違えたのかチョロ松に鼻血を出せと指示したらしい。
 鼻から一筋、赤いものがたれた。
「きゃ、チョロ松くん大変!鼻血が出てる。大丈夫?ティッシュ、ティッシュ……」
 彼女が一生懸命鞄の中を探ってくれている。それが自分のことを心配して、自分のためだけにしてくれているという事実が更にチョロ松の鼻から血を流させた。
 それでも鼻にティッシュが添えられると、はっと我に返り、慌てたように首を振った。
「だだだだ大丈夫だから!うん、ほんと大丈夫!あああああれぇ!?おっかしーなー!なんで鼻血なんか……あ、け、決して!断じて!君で変なこと考えてたとかそんなことはほんとないから!信じて!僕は他のクソ兄弟と違って誠実だし、もっときちんと君と向き合っていきたいっていうか、ピュアな関係から始まってゆっくりと距離を縮めていきたいっていうか」
 怒涛の勢いでそこまで言ってから、また我に返った。鼻血を流した男が食い気味に詰め寄ってそんなことを挽回しているなんて、そういうことを考えてましたと言っているようなものだった。
 ああ、違うのに。本当に考えていないのに。涙が出そうになるが、彼女は小さく吹き出すと鈴のような声で笑い出した。
「大丈夫だから落ち着いて。ほら、鼻拭いちゃおう?」
 血がつくのも構わずに綺麗に折りたたんだティッシュでそっと鼻血を拭ってくれる彼女に、もう目がハートマークになる他ないチョロ松は熱に浮かされたように彼女の名前を呟いた。
「ななしちゃん……!こんなの……こんなの、もう普通に惚れちゃうーー!!!」
 チョロ松の叫びが澄み渡った春空にこだまする。
 ななしはそんなチョロ松の様子にぱちくりと目を丸くするのだった。
 そう、チョロ松の目の前にいるのはまごうことなくななしだった。
 六つ子とトト子の幼馴染で、普段から口が悪くて素直じゃなく、六つ子に対してつっけんどんな態度をとっていたななしが、今やお淑やかで女性らしく、どこか守ってあげたくなるような、そしてどこか品の良ささえたたえた男の理想のような女の子だった。そんな良いこと尽くしの中、最もチョロ松を驚かせたのは自分に対してつっけんどんな態度ではないということなのだけれど。
 せっかく拭いてもまた鼻血がたれてくる。それでも嬉しそうな様子のチョロ松を見ていたら、自分まで嬉しくなってきて、ななしはにこりと微笑んだ。
 ななしがこんな風に変貌してしまったのには訳があった。時が遡ること一時間前──。

 私は公園に来ていた。
 偶然にも桜が満開の時期に私の休みがきたものだから、これはお花見に行くしかないと思って普段なら滅多にしない外出をした。風もなく、ぽかぽかとした陽気だった。
 せっかくだからと作ったお弁当も鞄の中に入っている。
 赤塚団地でも小さくてちびっこ公園と呼ばれている公園のベンチに腰掛けた。大きな公園で一人で桜を見る勇気なんてない。小さな公園に植えられた、まだ若い桜の木でも十分美しかった。
 鞄の中には本も入っている。
 お弁当を食べる前に読書をしようと本を取り出した時だった。会いたくもない男の声が聞こえて顔を上げた。
「ななしちゃんじゃん。こんなとこでどったの?」
「もうやだ。今日は不幸なことがたくさん起きる」
「なにごと!?ええ、俺まだ何にもしてなくない!?」
 赤いパーカーを着た男、もとい松野おそ松の手には今日も今日とて缶ビールが握られていた。既に封は開けられている。
 頬はほんのりと赤くて、すでに出来上がっている様子なのがまた憎らしい。「座るなよ」と牽制しても「どっこいしょ〜」と言いながら隣に座る。おそ松という男はどこまでも人の話を聞かず、自分のやりたいようにしていくのだった。
「ななしちゃん一人なの?じゃあ俺と一緒にお花見でもしない?」
「潰すぞ」
「なにを!?こういうときってイエスかノーかしかないよね普通!」
 だあっはっはっ。
 腹を抱えながら大口を開けて笑うおそ松を横目で見てからすぐに本を開いた。こうなればもう無視する他ない。私はここで本が読みたいのだ。おそ松が来たからといって席を立つのは癪だった。
 こめかみに青筋を浮かべながら無視を決め込んだ私の視界の端で何かが差し出される。見てみると、私の視界が缶ビールで埋まっていた。怪訝に思って眉間に皺が寄る。
 おそ松は何が楽しいのかへらへらと笑った。
「はい、ななしちゃんにもビールをお裾分け〜!最近さぁ、すんげー勝っちゃったの。お馬さん絶好調。だから俺の奢り!つってもこのビールはチョロ松が買ってきたやつだけど〜」
 そういってビールを飲むおそ松を見て、奢りという言葉をきちんと理解しているのか疑問に思う。おそ松が持っている缶ビールがチョロ松が買ってきたものならば、それはチョロ松が私に奢ったということになるのではないだろうか。
 呆れたようにため息をついた。
「何言ってんの、おそ松。お前からもらったものに口つけるわけない」
「毒しかない!ななしちゃんの言葉には毒しかない!でもこれが癖になんだから本当に毒だよね〜。なんつーか、俺たち六つ子を掴んで離さない毒沼っていうの?ね、ななしちゃんもそう思わない?」
「褒めてるのかけなしてんのかどっちなんだあほ。失せろ」
 ウィンクを決めるおそ松を少しも見ないで言う。
「まあまあそんな風に言わないでさぁ。一緒に飲もうよ〜」
「いやだってば」
「ほんとに?」
「うん」
「ほんとのほんと?」
「うん」
「ほんとにほんとのほんと?」
「だあああっ、もう!わかったから!それ飲んだら帰れよ絶対に!」
「うんうん、帰る帰る。じゃあ一緒に飲もう、ななしちゃん」
 鼻の下を得意げに擦るおそ松を恨めしげに見ながら缶ビールを奪い取ると、プルタブをあけた。いい音がする。
「いやぁ、隣にななしちゃん、目の前には桜!こういうのってなんていうんだっけ?ええっと花に真珠……じゃなくて、豚より団子とかなんとかいうやつ!」
「花より団子だし、貶してるの?なんなの?」
 おそ松の脛を蹴る。「いってぇ!」という声を無視して一気にビールを飲み干すと、かあっと身体が熱くなった。酒は弱い方ではないが、ビールは酔いやすい。
 ほろろと酔うくらいならばちょうどいい酒だと唇の端を持ち上げた。だが、頬が熱を持ち始めていい気持ちだったのもほんの一瞬だった。
 ──身体が異常なまでに熱い。
 普段からビールを一缶飲んだくらいではこんなにも熱くなることなんてないのに、 今はとんでもなく熱くなっている。ふつふつと脳みそが沸騰しているかのような錯覚を起こしそうなほどだった。
「──っ」
 涙が滲んで桜の木が薄桃にぼやける。遠くでおそ松が何かを言っていて、肩を揺すぶられているような感覚があるが、どこか他人事のような感じだった。自分の身体なのに、私はそこからふわふわと浮き出ていっているような感覚だ。きっと幽体離脱とはこういう感覚なのだろう。
 私の手から本と缶が落ちた。瞼が落ちていく。視界の端でチョロ松に思いっきり殴られるおそ松が見えて、心の中でよくやったと呟いたのを最後に、私の意識はすうっと闇に飲み込まれたのだった。


「てめーは三歩歩くと記憶がなくなるサッカーが得意なネコ型ロボットなのか!?それは昨日俺が説明したやつだろうが!」
「はあ!?んだよ、いきなり殴るとか俺に喧嘩売ってんのか!?俺に勝とうなんざ一億光年はえーわ!!」
「ばあああっか!どうでもいいわぼけ!つーかいつまでも自分が上だと思ってんじゃねーぞクソ長男!」
 鼻と鼻が擦り合うほどの近さで火花を散らしながら、ぐるぐると獰猛な動物さながらに唸り声をあげる二人は互いに襟元を掴みあっていた。
「んんっ」
 ベンチに横たわるななしから小さく声があがると二人の動きがぴたりととまり、掴み合いもやめてななしの顔を二人揃って覗き込んだ。
 チョロ松の眉と口がいつも以上にへの字になっていた。
「ななしちゃん、大丈夫かな」
「この酒、そんなにやばいの?」
 そろそろとおそ松が問いかけるとチョロ松は険悪な目つきで兄を睨んだ。
「だから昨日も言っただろ。これ、十四松がデカパンのところで貰ってきたやつなんだよ。十四松も中に何が入ってるかわかんないって言うし、変な薬だったらやばいからって朝一で捨てようと思って玄関に置いといたらなんか数本なくなってるし」
 チョロ松が溜息をついた。
「で、どうせおそ松兄さんが持ってったんだろうなと思って追いかけてきた。道端で松野家の一人が死んでたってなったら騒ぎになるし、葬儀代もかさんで家計は火の車になるしで良いことないから仕方なく探しにきたんだよ」
「はい出た辛辣チョロ松!なんで?なんで素直にお兄ちゃんを心配したって言えないの?なんでなの?もうちょい優しくてくれても良くない?」
「無理」
「このクソチョロシコスキー!ばーか!」
「チョロシコスキーやめろっつってんだろ!馬鹿なてめーのせいで今ななしちゃんがこんなことに──」
 はっと我にかえると、チョロ松はななしを見た。
「ななしちゃんもこのままにしておけないよね。デカパンのところに連れてかなくちゃ」
 ななしに手を伸ばしたところで、何かに気付いたように動きをとめた。
 ──どうやって運ぶというのだ。
 苦しそうに眉間に皺を寄せて、頬を赤らめてうんうんうなされているななしを起こしたとして、はたして歩けるのだろうか。そもそも起きるのか。
「ななしちゃん……?」
 そろそろと伸ばした手でななしの肩を揺らす。少し睫毛を震わせただけで起きる様子はなかった。
「……どうしよう」
 チョロ松は困ったような声を出しつつ、目は血走っていた。ごくりと、喉が大きく上下する。今、この時、チョロ松はななしに触れる正当な理由を持っていた。
 デカパンのところに連れて行くためには、眠っているななしを背中に背負うしかないのだ。
 きっと柔らかいだろうし、良い匂いがするだろうし、背中越しに胸の柔らかさを感じることだろう。とにかく柔らかさを堪能できるに違いないのだ。
「うん、仕方ない!これは決して僕がななしちゃんにただただ触りたいとかそういうことじゃなくてデカパンのところに連れてかなくちゃならないからこうすることは当然のことだもんね……!!」
「え、なにお前。怖いよチョロ松」
 チョロ松の怒濤の言い訳、血走った目、荒い鼻息、それら全てにおそ松は心の底から引いていた。
 おそ松がぶーたれたように唇を尖らせる。
「つーか、お前にそんなん許すわけねーじゃん!いいとこどりかっつーの!最初一緒に飲んでたのは俺なんだし、こうなったのも俺のせいだし、責任持って俺が連れてく!」
「お前に任せたらななしちゃんの貞操がやばいだろ!」
「いやそれについてはどっこいどっこいだからな!?どの口が言ってんだよマジで!ちょっと鏡見てきたら!?」
 ぎゃいぎゃいと騒ぐ二人をよそに、ふるりと睫毛を震わせたななしはゆっくりと目を開けた。寝惚け眼のまま、身体を起こす。焦点の定まらない目が清々しい空を眺めた。
 そんなななしに気付いた二人は殴り合いをやめてベンチの側で正座する。
「ななしちゃん、大丈夫?ごめんね、うちのクソ長男が迷惑をかけちゃって……。今度お詫びも兼ねて何かご馳走するね。今はとりあえず家まで送ろうか?」
「……」
 ぼんやりとした目がチョロ松に向けられる。
 おそ松とチョロ松は顔を見合わせた。というのも、こんな無防備なななしには久しく会っていなかったからだ。昔はお向かいさんということもあって、六つ子たちによる愛のモーニングコールによってななしを起こしていたから、窓から顔を出した寝起きのななしの姿を毎日のように見ていた。大人になるにつれ次第に減った今ではすっかりななしの寝惚け眼なんて見る機会は減ってしまっていたのだが。
 さて、問題はそんなことではない。ななしの反応がいまいち薄いことがあの酒を飲んだ効果なのか、そうでないのか。効果がわからないということが一番怖い。もし、もぬけの殻になるといった効果だとしたら、元凶のおそ松は込み上げてくる罪悪感にたえられそうになかった。
 ──なあ、これやばいんじゃね?
 ──おそ松兄さん、なんとかしてよ。
 六つ子だからこそできるテレパシーによって会話する。テレパシーというよりは目で会話をしているといった方が正しいのかもしれないが。
 ぼんやりとしていた瞳に光がさしこんでいくのと同時にその瞳が丸く大きく開かれていく。まるで何かに驚いたかのようだった。
「──大変!あなたたち、怪我してるわ!」
 ぽかんと、二人は口を開けて慌ててポケットやカバンを探り出したななしを見た。
 そうしてまたゆっくりと二人は顔を見合わせたのだった。
 ──チョロ松、今の聞いた?
 ──え、僕良い夢でも見てる?
 二人は同時に頷くと、おそ松はチョロ松の頬を、チョロ松はおそ松の頬を掴み、そして強く抓る。
 痛い。とても痛い。つまり夢じゃない。
 ななしは、あっ、という声を上げると嬉しそうに笑って二人を見た。
「見つけた、絆創膏──ってやだ!何してるの、二人とも!?だめじゃない、喧嘩なんてしちゃ。痛いでしょう?」
 心配そうに眉を下げて二人を見るななしの目は本当に身を案じているようだった。
「はい、絆創膏。あなたたち、よくわからないけど大怪我してるから」
 チョロ松の頬にぺたんと絆創膏を貼ってから、笑う。おそ松もチョロ松もくだらないことで殴り合っていたせいか、ぼろぼろだった。
「チョロ松くん、大丈夫?」
 小首を傾げるななしはそう、言うなれば女神だった。優しくて穏やかでいて可愛い、文句のつけどころのない女の子だった。
 チョロ松の挙動がみるみるうちに変わっていく。ぶわっと汗が噴き出した。動機が激しい。
「だだだだだ大丈夫!うん、ほんと大丈夫だから!」
「チョロ松ばっかずっりーぞ!ななしちゃん俺も俺も!」
 目を閉じてなぜかよくわからないがキスをせがむおそ松に、普段ならげんこつがとんでくるに違いなかったが、今のななしは違った。困ったように眉を下げて優しく笑うとおそ松の頬に絆創膏を貼ってあげるだけだった。
「はい、これで大丈夫。ね?」
 うふふ、と笑うななしの愛らしさといったらもう、言葉にできない。おそ松もぽやんとななしを見つめることしかできなかった。
 ななしは地面に落ちた本を拾って砂を払うと、椅子から立ち上がる。
 そしてふわりと笑ったななしは更に爆弾のような発言を落とすのだった。
「チョロ松くん、天気もいいからデートでもしない?」
「……え?」
「え?」
「ええええええええええ!?」
 二人は顎が外れんばかりに口を開けると顔を見合わせた。一体全体どうなっているというのだ。
「ちょちょちょ、ななしちゃん!?それどういうこと!?なんでチョロ松!?そこは俺でよくない!?」
「ぼぼぼぼ僕なんかでよかったら……!」
「なにどさくさにまぎれてデートしようとしてんだよシコ松!っざけんな!」
「その名前で呼ぶなっつってんだろーがクソ長男!死ね!」
 脛を蹴り合う二人の様子が不思議でならないのか、ななしはゆるりと小首を傾げた。小首を傾げたいのはきっとおそ松とチョロ松の方だろうが。
「だってチョロ松くん、わたしの彼氏でしょ?」
 チョロ松は殆ど反射的におそ松の顎に拳をめり込ませた。そう、頭で考える前に邪魔者を排除すべきだと身体が判断したのだ。六つ子とは五人の敵がいることである。それは彼ら六つ子全員の身体に染み付いている。
 おそ松の身体が浮き、放射線を描いて頭から地に落ちた。
 目を回すおそ松を案じるななしの手をとって歩き出し、そして冒頭に至るというわけであった。
 るんるん気分で歩くチョロ松の顔は晴れやかだが、その後ろには着実に不穏な空気が流れ込んできていたのだった。

to be continued...


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