Oh, sleepy. I want to see a good dream.


 カーオーディオから流れるお気に入りの曲を聴きながら、小さく息をついた。
 新しい仕事についてから、はや一週間が過ぎた。
 店長業務は緊張するし、オープンしたてだからお客の入りとか、数字をつい気にしてしまう私にはとても重荷だったけれど、楽しみを覚えているのもまた事実だった。
 他店舗の店長も気にかけてくれるし、数字を気にしたって仕方がないから気楽に頑張ってと優しくしてくれる。わからないことがあったら何でも聞いてねとも言ってくれるのだ。世の中のブラック事情からいくと、ホワイトな方だと思う。
 まあ、店長だというのに研修がほとんどなかったのには驚いたけれど。
 見て覚えるのは得意だったから助かったようなものだった。他店舗の店長のやり方を見て真似て、わからないところがあれば直ぐに質問をした。柔軟性に乏しい私は、臨機応変というやつがひどく苦手で、対応できないことがないようにわからないことは何でも聞くし、それで臨機応変のなさを補おうとしている。
 今日もそんな風に仕事をして帰ってきた。
 いつも通り車を車庫におさめ、玄関の扉を開けようとキーケースから鍵を取り出したところでふと気付く。
 今日の松野家、やたら静かだなと。
 いつもなら喧嘩の一つや二つしているか、酒盛りをしていてもおかしくないのに。
 お向かいに振り返ったところでまた一つ、違和感が胸をかすめた。自宅から何かの臭いがする。
 すん、と鼻を動かすと焦げついた臭いがした。冷や汗が頬を伝って、心臓が縮み上がる。
(え、やだ、嘘でしょ。火事?なんもつけてないのに!?)
 慌てて鍵を開けて扉を開くと、焦げた臭いが充満していることよりも先に、廊下の先にあるリビングの扉の磨りガラスから明かりが漏れていることに息を呑んだ。
 ──誰かがいる。
 しかも、何やら騒がしい。
 その声に聞き覚えがある気がしたが、そんなことより警察に通報した方がいいのかどうかでその場に立ち尽くす。だが、サイレンの音で犯人が逃げてしまうかもしれない。家のものをとられっぱなしは嫌だ。この家のものは誰にも渡したくない。
 だって私には、この家しかないから。
 傘を手にとって、そっと靴を脱ぐ。薄暗い廊下を抜き足差し足で歩くと、ストッキング越しで触れるフローリングの冷たさに、直ぐに指先が痛くなった。
 扉の向こうのリビングは相変わらず騒がしくて、どうやら複数人いるようだ。
 がしゃんと陶器が割れる音がして更に喧騒が激しくなる。やはり、家の中を荒らしているのだ。
 ぐっと下唇を噛み締めて傘を握り締める手に力を込めると震える手でドアノブの取っ手に手を伸ばした。あと少しで掴むというところで、ドアノブがぐりんと回って勢いよく扉が開く。
 呼吸が止まった。
 ──終わった。
 このまま犯人たちに殺されてしまうんだ。いやその前に犯されるかもしれない。こんな風に処女が散ってしまうなんて、本当に嫌だ。
 走馬燈のように嫌な考えが次々とよぎる中、私の腰は抜けていてへなりと尻餅をついた。
 下から見上げる相手の顔には影が深くさしていて──。
「ななしちゃん!?あれっ、いつの間に帰ってきたの!?ぜんぜん音がしなかったから気がつかなかった!おかえりー!!」
 ──ん?んんん?んんんんんん!?
 声の主が誰なのかはっきりとわかると、途端に影が深くさした状態からでも顔がわかった。
 袖口がだるだるに伸びた黄色のパーカーと短パンと黄色のスリッパ。焦点のあってない目と大きく開いた口。
 ──じ、十四松!?
 声が出なくて、指を差しながらぱくぱくと口を動かす。なんだかうまく息が吸えない。
 十四松はひょいと傘を手にとった。まじまじと傘を見つめてから、ぐりんと視線が私に向けられる。
「もしかして、ななしちゃん家って家ん中でも雨降るの!?」
 ──いやそんなわけないだろ!!
 その言葉も出なくて、勢いよく首を振った。「じゃあ玄関に戻してくるね!」とどたばたと十四松が玄関に走っていく。
 頭の中の混乱がおさまることはなく、とりあえず立ち上がろうと足に力を入れるが思うように入らない。一度腰が抜けるとなかなか立てないらしい。
 四つん這いになると、鞄の紐を腕に巻きつけて引きずりながら這ってリビングに入る。オープンキッチンだったから、扉の近くからでもキッチンの様子が見えた。
 もうもうと煙が立ち込めていて、白い煙たちは換気扇に吸い込まれていく。焦げ臭かったのはどうやらキッチンからのようだった。
 青と黄緑のパーカーが見える。焦ったような声が聞こえてきた。
「おいチョロ松、大丈夫か!?なぜこんな事態に……!」
「わかんないって!油の温度上げようと思ってたら煙が出たんだよ!」
「チョロ松、それは加熱のし過ぎだ。火を消してくれ!」
「もうとっくに消してる!でもおさまらないんだよ!換気扇まわせよ!」
「換気扇はまわしてるぜ。俺は用意周到な男、だからな」
「こんな時まで痛いこと言えるってなんなのお前!怖いよ!!」
「一番怖いのはお前らだからあああああああ!!!」
 ──だんっ!
 拳にした両手をフローリングに叩きつける。額もフローリングに擦り付けた。
 ようやく腹の底から声が出たことをきっかけに、フローリングを叩きながらこの数分間の間に溜まった言葉たちが出てくる。
「なんなのお前ら!なんなんだお前ら!なんでいるわけ?なんで普通に家の中にいるわけ?鍵渡したことなんかないよね一度も!!!!傘立ての下に置いてあるとかポストの中に入れてあるとかそんなこともしてないんだけど!!なのになんでいるの!?意味わかんないから!おかしいから!怖いから!異常だからあああああああ!!」
 肩で息をする私に視線が突き刺さる。そばにやってきたカラ松が私の肩を叩いた。視線を向けることはしなかったが、きっと格好つけた顔をしているのだろう。そういうきらきらしたオーラが伝わってくる。
「ななしちゃん、疲れてるんだな。そろそろ帰ってくるかと思って、風呂を沸かしておいたぜ。この俺が磨き上げた浴槽で身も心も休めるといい」
 カラ松の手を振り払うと、まなじりを吊り上げながら顔を上げた。噛みつかんばかりの勢いで、パーカーの襟元を掴む。「えっ」というカラ松の怯えた顔はこの際気にしない。
「いや風呂とかどうでもいいわ!なんであんたらがいるのか説明しろ!」
「そのことなんだけど、説明すると長くなりそうだから先にお風呂入ったほうがいいと思う」
 気まずそうに口をへの字にして頭をかくチョロ松から、夕飯の準備がもう直ぐ整おうから食べながら話をさせて欲しいという提案があった。
 煙がもうもうと出ているのにもう直ぐ整うって絶対無理なんじゃないかと思ったが、確かにカラ松の言う通り仕事終わりで疲れていた。
 ゆっくりと立ち上がる。
「納得いく説明じゃなかったら殺す」
 ぎろりと睨みつけてからカバンを適当にソファに投げた。「ななしちゃん口悪すぎじゃない!?」というチョロ松の声を聞きながら、バスルームへと向かった。
 途中、十四松が「俺も一緒に入りたい!」とうねうねと動きながら言うものだから頭に拳骨を叩き込む。「いってええええ!」と廊下を転がる十四松に鼻を鳴らすと、今度こそ本当にバスルームへと向かった。


 服を脱いでバスルームに入ると、本当にぴかぴかだった。カラ松が一生懸命掃除してくれたことがわかる。
(いいとこ、あるんだよな)
 化粧落としで一日の仮面を剥がしながら思う。
 クソカスみたいな六つ子だが、カラ松は比較的マシな方だった。痛いところはあるが、まあ、一生懸命なところもあるし、案外気弱だったりするからほっとけない存在ではある。
 それでもトト子のことを可愛い可愛いと言っておきながら、私に好きだと言ってくるような男であることには変わりないのだけれど。
 お湯につかると、一日の疲れが溶けていく気がした。綺麗になった浴槽だと本当に気持ちがいい。
 三十分ほどでお風呂を終えると、洗面台で髪の毛も簡単に乾かす。
 コンタクトを外して眼鏡にし、適当なジャージに着替えるとリビングへと向かった。女っ気ゼロだが、六つ子相手に女っ気を出す必要もない。むしろ、これで私に対して幻滅してくれないだろうか。
 トト子ならネグリジェとか着てそうだな、なんて思う。
 リビングの扉を開けるといい匂いがした。
 オープンキッチンの直ぐ目の前にテーブルがあって、そこでご飯を食べるようになっていた。テーブルの中央にはこんもりと唐揚げが盛られたお皿がどんと居座っていて、あとはそれぞれの椅子の前にご飯とお味噌汁が並べられている。ポテトサラダにはミニトマトで彩りがされていた。
 先日も唐揚げを食べたが、今日の唐揚げは端が焦げていたり、形も不揃いでなんだか不格好だった。
 十四松はもう席に座っていて、私を見るなり隣の椅子の背もたれを掴んで揺らした。
「ななしちゃんはこっち!俺のとなりね!」
「わかったから。うるさいからやめな」
「うぃーっす!」
 素直な返事とともに椅子が揺らされることはなくなった。
 浅いため息をつきながら椅子に座る。適当なシュシュで髪を一つに結ぶと、チョロ松もカラ松も座った。
 なんなんだ、この変な空間は。
「美味しくできたか不安だけど……」
「いっただきまーす!」
「ななしちゃんのことを思って作ったんだ。遠慮せず食べてくれ。カラ松ディナーはななしちゃんに素敵な夜を運んできてくれるんだ、ぜ」
 ぱちんと指を慣らしてからサングラスをずらしてウィンクしてくるカラ松を無視していただきますと手を合わせた。
 チョロ松も十四松もカラ松に対して特に何も言うことなく箸を取っていた。それでもカラ松はご満悦なのだから、暴力をふるわれなければ何でもいいのかもしれない。
 ポテトサラダを食べると、塩胡椒が少し効きすぎていたが美味しい。十四松の視線がじいっと注がれていることから、これはきっと、彼が作ったのだろう。
「どう!?それ、僕がまぜたんだよ!!美味しい!?」
「うん」
「よっしゃー!」
 嬉しそうに笑いながら十四松も慌ただしく食べ始める。もう少し落ち着いて食べた方がいいと思うが、十四松の好きにさせておくことにした。
 味噌汁の具を箸でつまむと、上手に切れていないのか端が繋がった状態のまま出てきた。チョロ松が焦ったように身を乗り出す。
「あっ、それ僕が作ったんだけど上手く切れてなかったみたい。ご、ごめん……」
「別に。胃の中に入れば全部一緒」
 ずずっ、と味噌汁をすする。見た目が悪いからといって不味いわけではない。熱い味噌汁はなんだかほっとする味だった。
 椀を置くと、痛いほど突き刺さるのはきらきらとしたカラ松の視線だった。
 そういう目を向けられると素直に感想を言いたくないと思ってしまうくらいには、私は天邪鬼である。
 視線をそらしながら唐揚げを箸でつまむと、マヨネーズをつけて食べる。下味もしっかりついているし、少し焦げていることに目をつぶれば充分食べられるものだった。
「……うん。美味しいんじゃない?」
 ぱあっとカラ松の顔が輝く。
「そ、そうか!ななしちゃんに、いつ養われてもいいようにとマミーに教わったのさ」
 何を言ってるのかわかるが、わからないふりをして口を動かし続けた。反応したら負けだ。
 気まずそうに口をへの字にしているチョロ松を見た。
 いよいよ本題だった。
「で、何で勝手にうちにあがりこんでたわけ?」
「話すと長くなるんだけど……」
 チョロ松の話を遮るように十四松が手を挙げて、「ハイハイ!ハイハーイ!言ってもいっすか!?いっすか!?」なんて言い出した。そのせいで十四松の大きな口から沢山の米粒が飛んでいき、カラ松の顔にくっつく。汚い。
「えっとねー、あのねー、父さんと母さんが離婚するって言い出して、扶養家族会議っていうの開いたんだー。そしたら俺たち、不合格って言われた!!」
「家を追い出されたというわけさ。今の俺はさしずめあてもなく彷徨う哀れなロンリーガイ、といったところか……」
「で、ここにいるのは何で?」
 じとりと見つめる眼差しはそれはもう冷えきっていることだろう。カラ松が涙目で黙り込んだのがいい証拠だった。
 私としては嫌な確信しかしなくて、テーブルを指先で叩いた。
「私に養えっていうの?ばっかじゃないの。クズなの?アホなの?」
「違う!女の子に養えって言うほどクズじゃないよ!ただ住むところもなくて、就職したくても出来ない状態なんだ……。僕たち、ななしちゃん以外に頼れる人がいなくて」
 頭を垂れるチョロ松を見て、ふぅん、という声が漏れる。働く気はあるんだと思えば話もまた違ってくるというものだ。
「だから今日から少しの間お世話になりたいんだ。その間の炊事洗濯は僕とカラ松と十四松でやるつもりだから」
「もちろん、俺もやれるだけのことはやるつもりだ!養ってもらうための努力は惜しまないぜ」
「くるぁ!カラ松、てめーは黙っとけ!」
「ハイハーイ!僕もカラ松兄さんと同じ!」
「十四松てめーもだ!余計なこと言うんじゃねぇ!!」
 ぎゃーぎゃーと騒ぎ出す三人を横目に、考え事をするようにテーブルを指先で叩く。カラ松も十四松も養ってもらうと言ってはいるが、本当に危機的な状況になったら働くだろうし、チョロ松が日々ハローワークを見ていたことも知っていた。
(少しだけなら、いいかな)
 家に帰ってきたら明かりが点いていて誰かがいて、ご飯ができていてお風呂も沸いている。そんな生活もいいかもしれない。彼らがきちんとした職に就くまでの間だけならば、面倒をみるのも昔馴染みの縁で致し方ないと済ますことができそうだ。彼らは六つ子の中でも比較的人畜無害なのだから。
 唐揚げをひとつ、口に放り込む。ずっと思っていた二つめの疑問を投げかけた。
「そもそも、なんで家の中に入れてんの?」
 これが一番重要なことだった。どこかに抜け穴があったのかもしれない。
 それなら塞いでおかねばならなかった。泥棒対策としてもそうだが、六つ子対策としてきちっとやっておかなければならない問題だ。いつでも自由に出入りできるとなったら彼らはここに入り浸ろうとするに違いない。
 チョロ松がパーカーのポケットからなんてことはないように鍵を取り出した。
「鍵で入ったよ」
「チョロ松、あんた常識人ぶってたけどやっぱり六つ子なんだね。勝手に合鍵つくるのは犯罪だぞコラ。十四松、卍固め」
「うぃーっす!」
「あああああ話の流れええええ!!」
 十四松ががっちり押さえ込んでいるのは半泣きのカラ松だった。そういえば十四松は指示通り動けない子だったと、今更ながら思い出す。
 卍固めを回避したチョロ松がほっとしたように息をついた。
「ななしちゃん、昔僕たちにくれたんだよ。いつでも来ていいよって」
「覚えてないんだけど」
「そう、だよね。うん、そりゃそうだ」
 少しだけ憂いを帯びた目をしたかと思えば、直ぐに何でもなかったように一人頷くチョロ松に違和感を覚えるけれど、特に何も言わなかった。とりあえず鍵は嘘じゃないとしよう。
 小さくため息をつくと、三人の視線が突き刺さる。頬杖をつきながら、とんとんと指先でテーブルを叩いた。
「……私の家ってさ、見ての通り広いわけ。だから、三人くらい増えたって別にどうってことないと思うんだよね」
 三人の顔──特にカラ松と十四松──が、みるみるうちに輝き出す。十四松はばんざいをしながら「やりましたぜおっかさーん!」とか訳のわからないことを言っているし、カラ松はにやけてるし、チョロ松も普段のへの字をVの字にしてにやけていた。
 それが気恥ずかしくて、箸で唐揚げをつまんだ。
「早く食べてよ。冷めるじゃん」
「カラ松チキンは冷めても美味しいんだ」
「僕が作ったポテトサラダも冷えた方がおいしいよー!」
「うっさい!食べろ!」
 さっさと食べて、これからの生活についてきちんと説明しよう。私のクローゼットに触れたら許さないこと、お風呂のこと、部屋のこと。そこまで考えてから、そういえば合格組の兄弟が向かい側にいて気まずくないのだろうかと疑問に思った。
 ああでも彼ら六つ子はそこまでデリケートな生き物じゃないかと、味噌汁をすすったところでインターホンが鳴る。
 チョロ松が立ち上がりかけたが、「私出るよ」と言って玄関へと向かった。夜に人が来るなんて、滅多にないことだった。
 ドアノブに手をかけたところで、嫌な予感がした。ひんやりと冷たいドアノブから伝わってくる予感。
 この胸のざわつきはきっと──。
 そう思いながら、扉のドアを開けた。開けなければいいのに開けてしまうのは、幼い頃に染み付いた忌むべき習慣なのかもしれない。
「こんばんはー。ね、俺の弟たち来てない?」
「さようならおやすみなさい帰ってください」
 赤いパーカーが目に入るなり、扉を閉める。だが、扉の隙間に足を挟まれて閉められない。おそ松の手が扉をこじ開けようとするものだから、思わず険悪な舌打ちが出た。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ!急に閉めなくてもよくない?ななしちゃんってば俺に冷たすぎでしょー」
「おそ松兄さん嫌われてるもんね」
「はあああああ!?んなことないもんねー!!お前の方が嫌われてるっつーの!バーカ!」
「……幼稚すぎ」
 声から察するに三人とも勢揃いしているようだ。この三人は一癖も二癖もあって、一緒にいると百害あって一利なしとはまさにこのことだと思わされるくらい、大変なことに巻き込まれる。
「帰れよ」
「やだ!だってチョロ松たちいるじゃん。なんで俺らは駄目なの?俺だってななしちゃんの家に入りてーし、一緒にご飯とか食べてーし、お風呂一緒に入っちゃったりとかしてーもん!」
「誰がするかバーカ!消えろ!帰れ!」
 おそ松の駄々っ子を受け入れたが最後、そのまま主導権を握られて終わる。おそ松とはそういう奴なのだ。
 腕の筋肉がぷるぷると震え出す。こっちが本気なら向こうも本気なのだ。
「ねー、おそ松兄さん。もうやめたら?ななしちゃんに嫌われるよ?あ、そういえばもう嫌われてたね。ウケるー」
「だーっ!なんでお前はそういうこと二回も言うの!?傷付くよ!?お兄ちゃんだって傷付くんだよ!?ななしちゃんも違うって言ってよ!」
「殺す」
「どういうこと!?死ねとかじゃないの!?いや別に死ねって言われたいわけじゃないんだけども!」
「ほんっと帰れ」
 一進一退の攻防を繰り広げているとリビングから三人が顔を出したようだ。「おそ松!」「おそ松兄さん!」「兄さん!」と声をあげた。
 おそ松はへらへらと下衆い笑みを浮かべた。
「いやー駄目でしょ。長男出し抜いてななしちゃん家に居候するのは駄目だわ〜。俺だってななしちゃんに養われてーもん」
「養うわけねーだろゴミクズ」
 ぺっ、とおそ松に唾を吐くと「あっ、ご褒美……」と一松が呟く声が聞こえた。聞こえなかったことにした。
 チョロ松が勢いよく中指を立てて、ひどい顔を晒している。
「てめーは母さんの扶養に入ったじゃねーか!こっち来んな、ブァーカ!クソ長男!」
「悪いな、おそ松。俺たちはななしちゃんに養われることになったんだ。今の俺たちは女神の抱擁を受けし──」
「いーでしょー!俺、ななしちゃんと暮らせんだよー!」
 十四松の隣で言葉を遮られたカラ松が「えっ」と言っていたが、十四松は気にしていないようだった。私はカラ松を養うなんて一言も言っていない。
 おそ松の後ろからひょいと一松が顔をのぞかせる。マスクがずらされて出てきた口元はにやにやと笑っていた。
「十四松はん、ええでんなー。わいもおこぼれにあずかりたいですわー」
「むり。本当に無理。一松だけは身の危険を感じる」
「一松兄さんかわいそう!!!」
 チッ、という舌打ちが聞こえてきて、私の方こそ舌打ちがしたいと思っていたら、身体は素直なようで、気付いたら私も舌打ちをしていた。
 この会話の間もおそ松との攻防はやんでいない。いい加減手が痺れてきた。誰か手伝う気はないのか。
 悪態つきながら引っ込んだ一松の代わりに、今度はトド松が顔を出して、きゅるんと目をくりくりさせている。
「ななしちゃん、ごめんね?こんな夜遅くに。僕はとめたんだよ。迷惑になるからやめなよって」
「おそ松をとめられなかった時点でお前に意味はない」
「ひどい!!!ななしちゃん、僕のこと嫌いなの……?」
「そういう問題じゃない。おそ松をとめられるかとめられないか、ただそれだけ」
「俺は諦めない!ななしちゃんとセックスするまで!」
 そう叫ぶおそ松を殴りたい衝動に駆られるが、腕はドアノブを握っているので塞がっている。
 そうだ、足を使おう。
 おそ松の足を思いっきり踏んだ。あだー!というおそ松の声が夜空にこだまする。
「ひっでー!そこまでする!?」
「お前が帰らないからだ!!──あっ!」
 とうとうつるりとドアノブから手が離れてしまった。これでおそ松の侵入を許すことになってしまう。
 そうだ、傘で刺そうという考えが一瞬心によぎる頃、私のお尻は地面に打ち付けられていた。尾骨に響いて痛い。
 おそ松はといえば、彼もまた勢いあまって尻餅をついていた。その後ろでトド松がぷっと吹き出しながら、スマートフォンで写真を撮っている。「おそ松兄さん、だっさ」とにやにやと笑っていた。趣味の悪い末弟である。
 しめたと思って慌てて立ち上がるやいなや、おそ松も立ち上がってドアノブに手を伸ばしていたものだから、私も負けじとドアノブを掴む。
 ほんの少しばかり私が早かったようで、扉を閉めると鍵をかけた。扉が叩かれて、おそ松の喚き声が聞こえていたが、無視するしかない。先ほども言ったが、彼は一つ許すとあれもこれもと止まらなくなるタイプの人種なのだ。
 額の汗を拭ってからふるふると腕を振る。力み過ぎて疲れた。
「やっぱり私、あんたたちを匿う自信ない……」
 扉の向こうの喚き声を聞きながらため息をつく。この三人がいる限り毎日おそ松がやってきてこの調子ではたまったもんじゃなかった。
「えっ」
「ええ!?」
「えええー!そんなー!ちょーショックー!!」
 ぎょっと猫目になった十四松がわーわーと叫ぶが、私は疲れきっているので溜め息しかでなかった。
「毎日おそ松が来るなんて無理。私には絶対無理。おそ松クソだから明日も来るよ絶対」
 六つ子の中で誰が一番厄介かと言われたら即おそ松と答えるくらい私はおそ松を敵視している。
 無邪気で馬鹿でクズでパチンカスで、駄々の通し方が最低なほど上手なあの男と関わると、大抵あの男のいいように話が進んでしまっているのだ。振り回されるのはもうごめんだった。
 不意に扉の音が静まる。だが、私はわかっていた。
 これでおそ松がいなくなったわけではないと。
 多分扉の近くでぶつくさ文句を言いながら座り込んでいるのだ。その証拠に、トド松が「ほら、帰るよおそ松兄さん」と言っているのが聞こえる。
 それでも動かないのはきっと、ここに三人の弟たちがいるからなのだろう。
「ほら、もう早く帰んな。あいつが迎えに来たってことはうまいこと話がまとまったってことなんだろうし」
 チョロ松が唇をへの字にして小さく頷くと、あとの二人もそうしようとなった様子でリビングに戻っていく。
 鞄を手にぶら下げて玄関にきた彼らを見送る──と言っても、彼らの家は直ぐ目の前なのだけれど──ために、玄関の扉を開けた。
「じゃあね。もう来るなよ」
「また明日くるね!」
「だから来んなって言ってんの!」
 ぽこんと十四松の頭を叩く。「いってー!」と笑う十四松のあとにカラ松がきて、サングラスをかけ始めた。
「礼を言うぜ、カラ松ガール。本当はもっとヴィーナスの慈愛に満ちた抱擁をこの身に受けていたかったが……どうやら、運命の歯車は残酷らしい。だが、俺は再びこの聖なる地へ戻ってくると約束しよう」
「だーかーらー、来るな!」
 カラ松の肩を思いきり小突くと、「ひどい……」と頭を垂れて帰宅していく。自宅の扉を開ける一歩手前で一松にバズーカーを撃ち込まれていたが、きっと今さっき長々と痛い台詞を吐いていたのが原因に違いない。
「迷惑かけちゃってごめんね。バカ長男にはあとで言っとくから」
「はいはい、ありがとう。どうせ直んないけどね」
 すっかり眉毛が下りきったチョロ松の背に手を振った。
 その横を口笛を吹きながらさり気なく横切って、我が家に入り込もうとするおそ松の腹にはトト子直伝の重い一発を入れ、私も扉を閉めた。
 変にしんとした家の中の寂しさは胸の中にもったりとした重みを感じさせた。
 リビングに戻ると三つの食器があって、一人では到底食べきれない量の唐揚げとポテトサラダがあって、三つの味噌汁が湯気を立てていて、なんだか無性に寂しくなってぎゅっと下唇を噛み締めた。
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