Oh, sleepy. I want to see a good dream.


 穏やかな晴天日和の昼下がり。休日にはもってこいのお日柄だった。
 ついさきほどようやく布団から抜け出すと、顔を洗って歯を磨いてトイレを済ませた。それから、冷蔵庫の前で少しの間立ち尽くす。確か何にも食べるものがなかった気がしたが、一応冷蔵庫を開けた。やっぱりろくなものがなかった。味噌やマヨネーズ、ソースなど調味料だけしかない。
 買いに行くのも面倒だし、大して腹も減っていないからと、結局リビングのソファーで寝そべりながら本を読み始めた。
 布団とソファ。場所が違うだけで寝っ転がっていることに変わりはないのだけれど、休日くらいずっとごろごろしたって構わないだろう。六つ子じゃあるまいし、私はきちんと平日は苦労して働いているのだから、休日に惰眠をむさぼる権利があるのだ。こんな風だからぶくぶくと肥えていくのかもしれない。
 部屋に射し込む陽射しのおかげで、室内もさほど寒くはない。ブランケットをお腹にかけて、しばらくすると少しお腹が温まってきた。
(あ、やばい。また眠くなってきた)
 この赤塚団地は基本的には静かだ。あの六つ子たちが何かしなければ鳥の声しか聞こえないような平和な団地なのである。
 重たくなってきた瞼がゆっくりと閉じていく中、お向かいの松野家から「1207!1208!1209!」という声が聞こえてくる。十四松が素振りしているのだ。いよいよ穏やかな日和だなぁなんて思って、意識が深く沈み込んでいく。
 ──……すかー、すかー、すかー。
 女の子にしては少し大きく開いた口から寝息がもれだす。ゆるゆると胸が上下していて、眠りについたようだった。
 その間にも十四松の「1236!1237!1238!」という声は続いている。このまま平和に終わるかと思えた日だったが、不穏な気配は音もなく忍び寄り、それをあらわすかのように太陽が翳り出した。
 松野家の玄関の扉が開いて、それに気付いた十四松が素振りをやめる。
「おそ松兄さん!どこ行くの!?」
「んー?これだよこれ」
 いつも通り赤いパーカーのおそ松が、片手でくいくいと何かを回す仕草をする。ハンドルを回せば小さな鉄球が飛び出る遊び場──パチンコだった。
「十四松も行く?」
「最近負けたばっかだからいいや!いってらっしゃい!」
 おそ松は片手をひらひらと振りながら、パチンコ屋へと消えていく。長男が勝ったら何か買ってもらおうだなんて現金なことを考えながら素振りを再開しようとしてすぐにまた、松野家の扉が開いた。
「チョロ松兄さん!どこ行くの!?」
「ハロワだよ。十四松も素振りばっかしてないで行ったら?なんなら今から一緒に行く?」
 口元がいつもよりへの字になっているスーツ姿のチョロ松の言葉に、思わずぎくっと猫目になるあたり、十四松にもニートの血が色濃く流れているのだろう。
「い、いいっす……。まだやきゅうしてたいから!」
「いやもう充分すぎるほどしてきただろ!あんまり口うるさくは言わないけど、十四松もちゃんと将来のこと考えろよ。一松の次にお前のことが心配だよ」
「あいあい!今日も元気にいってらっしゃインコース!」
 ぶうんっと威勢良くバットを振ると、チョロ松もやれやれというように小さく息をついて「いってきます」と笑った。一生懸命頑張っている兄、チョロ松の就職活動が実を結ぶことを祈って、その背中に大きく手を振っているとまた松野家の玄関の扉が開いた。今日はよく人が出て行く日である。
「カラ松兄さん!どこ行くの?」
「ふっ……カラ松ガールを探しに、な。今日はいつもよりサンシャインも輝──」
「曇ってるよ!!!!」
「……ふっ。カラ松ガールの呼ぶ声が聞こえてくるぜ。俺にはわかる」
「えー!!兄さんすっげー!!」
 サングラスをかけてキザなポーズをつけているカラ松は、「十四松も素振り頑張れよ」と言って颯爽と去っていった。
 今度こそ素振りを再開し始めた十四松だったが、十分ほどすると太陽の翳り方がいよいよ本格的に雨を予感させた。松野家の洗濯干し場からは松代の「こんな時六つ子って困るのよねぇ。部屋の中が狭くなるわぁ」という文句と洗濯物をしまう音が聞こえてきた。
 ぶうんっとバットを振る。
「1239!1240!1241!」
 十四松の今日の目標は二千回だった。それが終わったら勝手にイヤミが住み着いている河原でキャッチボールをして、それからその隣の川を泳いで、きっと臭くなってしまって、帰ってきたらみんなもいるだろうし、銭湯に行こうと思った。
 どんよりとした雲はいつの間にやら空を覆い尽くし、重たい湿っぽさを含んでいた。やがて、ひとしずく、空から落ちてきてアスファルトに染みをつくる。
 それを皮切りにぽつりぽつりと小雨程度に降り始めた。
「1762!1763!1764!」
 十四松は雨の中でもへっちゃらだった。雨の日も雪の日も──流石に台風の日には兄弟に強く止められてできなかったけれど──ずっと続けてきたことだった。
 無心でバットを振る十四松のことに構うことなく、雨脚は強くなった。雨粒も大きくなり、十四松のユニフォームを一瞬にして重く濡らす。
「1775!1776!1777!」
 ほんの一瞬、十四松の手が滑った。バットを振って、振りかぶるポーズに持っていく瞬間の出来事だった。雨に濡れたバットは十四松の手からすぽんと抜け出ていき、コンクリートの塀を越えてお向かいの方に消えた。
 ──がっしゃあああん!!
 そんな激しい音が聞こえた。
「あ……窓割れた!!!」
 ぎょっと猫目になると、あたふたと慌てふためきだす。十四松はお向かいの音がした方へと走り出していた。

 ──がっしゃあああん!!
 はっ、と意識が覚醒する。目覚めには相応しくないけたたましい音が、意識をがつんと叩き起こしたのだ。
(な、何事……!?)
 寝起きで、しかも叩き起こされたものだからいまいち覚醒しきっていない脳味噌のままとりあえず窓を見ると無残にも割れていて、すっかり雨が入り込んでいた。濡れたフローリングにはガラスとバットが転がっていて、太文字の黒インキで十四松とでかでかと書かれていたから誰が犯人かはすぐに分かった。
(そんなことより洗濯物いれなくちゃ……!)
 よりによって明日の仕事から着ていく服を洗濯してしまっていた。ソファから立ち上がると、ガラスが散らばっている。
 ガラスを踏まぬように、そうっと慎重に窓の外に出た。サンダルをつっかけようと思ったが、ガラスの破片があったら嫌だったからあえて履かなかった。裸足のまま、物干し竿から洗濯物をおろしていく。ぽつぽつとしみができているどころか、ほとんど濡れてしまっていた。
(最悪……!)
 全部腕にのせると、水分を含んだ衣服がずっしりと重かった。ガラスの破片を踏まぬようにそうっとフローリングの上に足を置く。濡れて滑りそうになるのを踏ん張りながら中に入って、とりあえずお風呂場の洗濯機の中に突っ込んだ。乾燥を押して洗濯機を回すと、ようやく一息つけた。
 おかしい。今日は一日穏やかに過ごせるはずだったのに。窓ガラスは割れるわ、雨は降るわでついていない。
 ──……そう、窓ガラス!
 はっとしたように顔を上げると、雨に濡れた髪から雫がとんだ。
 どたどたと音を立てながらリビングにむかえば、やはりそこには無残な姿をした窓ガラスと──十四松がいた。
「窓ガラス割れてるね!!」
「いやなんていうかお前のせいだよね。え?なんで自分のせいじゃないみたいな顔してんの?え?」
 はてなマークを浮かべながら小首を傾げる十四松の手にはすでにバットが握られている。間違いなく、この窓ガラスを木っ端微塵にした犯人だ。ぶうんっとバットが振られた。
「でも僕ん家の窓ガラス、しょっちゅう割れてるよ!!だから割れても大丈夫じゃないの?」
「大丈夫なわけあるかぼけええええ!!お前ん家と私の家を一緒にすんなくそぼけ!」
「ななしちゃんすこぶる口が悪いね!!」
「誰がそうさせてんのかわかってる?ねぇ、わかってる!?」
「もちろんわかってマッスルマッスル!ハッスルハッスル!」
 むんむんっと両腕を筋肉こぶをつくるようにしている十四松はあいも変わらず大きく口を開けて笑っていて、私は思わず額を覆った。十四松とはこういう奴だった。
 いつも大口を開けて笑っている姿や、基本的に下品な話も他の六つ子が言っているからなんとなく言っている様子が見受けられることから、比較的人畜無害である。
 だが、やはりあの悪ガキ、クソガキで悪名高い六つ子なのだ。どこかネジが一本とんでいて、何を考えているのかは六つ子一分からないと言ってもいい。大きく溜息をついた。
「窓ガラス弁償してもらうからね。親の金で返したら承知しないから」
「え!?窓のカラスに便としょんべんもらった!?親の金玉返さないとしょんべんしないから!?ななしちゃんどういうことっすか!?」
「ばあああああっか!!!どういうことですかって私が聞きたいわああああ!!」
 十四松が猫目でじいっとこちらを見ながら心なしか冷や汗がだらだら出していて、焦りが伝わってくる。だが、そんなことより十四松のおかしな聞き間違いの方が気になったし、頭がおかしいんじゃないかと思った。腹が立ちすぎて地団駄を踏んでしまいそうになるのをぐっとこらえる。
「もう帰れ!!今すぐ帰れあほ!!」
「僕も片付けマッスルマッスル!」
 ぶうんっと十四松がバットを振ると、勢い余ったバットがまた濡れた手からすっぽ抜けて窓ガラスが割れる音がした。割れた窓ガラスの割れていない部分が割れて、更に穴が広がる。割れるという単語がこれでもかというくらい出てくる。
「ああああお前もう何もすんなよばかああああ!!!」
 涙が出そうになったが、なぜか十四松を殴りつけることができない。これがおそ松やカラ松の仕業なら問答無用で憎たらしい顔に拳をぶつけていたただろうが、相手は十四松だ。なぜか殴ることができない。
「ななしちゃん、怒るとしわ増えるよ!母さんが言ってた!!」
 やっぱり殴ろうかな。怒りに手が震えてそんなことが脳裏をよぎるが、十四松がせっせとガラスを拾い出したのを見ると拳の力がすっと抜けた。やっぱり根は優しくていいやつだから、いまいち怒りきれない。
 溜息をつくと、手招いた。
「十四松、とりあえず家入んな。雨に濡れてるから。靴は絶対脱いで」
「あいあい!」
 ユニフォームはすっかり水を含んでいる。寒くないのだろうか。それとも寒さすらも感じないのだろうか。
 靴を脱いだ十四松がフローリングを歩くと水の足跡がつく。拭くのは後にして、とりあえず靴下を脱ぐように言いつけ、私はバスタオルを取りに行った。
 バスタオルを持ってくると、散乱していたガラスが綺麗さっぱりなくなっていた。早業すぎて思わずバスタオルを落とす。十四松のそばにはこんもりともられたガラスの山があった。箒を使ったとしてもこんなに綺麗に破片を山積みにすることはできないのではないだろうか。
「……え?どういうことなの?」
「片付けた!」
「いやでも早くない?私、いなくなったの数分だけだよね」
「うーん……でも片付けたよ?」
「そう、か。まあ別にそんなこと気にしなくていいか。片付いたんだし」
 気にするだけ負けだと思った私は適当に頷くと落としたバスタオルを十四松に放り投げる。「ナイスピッチャー!アーンド!ナイスキャッチー!」とはしゃぎながらバスタオルを掴むと頭をばっさばっさと拭きだした。
 その間に十四松がせっせと集めてくれたのだろうガラスの山をビニール袋に入れていき、最後に簡単に掃除機をかけた。
 よし、と額をぬぐって振り返ると十四松がソファに座っていた。焦点が合わない目は天井を見つめている。口は笑っていた。
「いやいやいやいや!ソファ湿っちゃうじゃん!やめてよどけよあほ!」
「……え?」
「ばっかなんで聞こえてねーんだよお前の耳はくそなのか!?ああ!?」
「僕?十四松だよ!」
「そんなこと聞いてねーわぼけ!かす!」
「僕、野球が好きなんだー」
「お前の格好見ればわかるわ!はよソファからどけ!くそったれ!」
「え?僕かっこいい?」
「ああああもうなんなのお前ええええ!!」
「おやすみー」
 ソファにばたんと横になる十四松はもうすやすやと安らかな寝顔をしていた。あら可愛いだなんて思えるはずもなく、六つ子一恐ろしいのは十四松なのかもしれないと、心の底から思えたそんな日だった。

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