Oh, sleepy. I want to see a good dream.


 人が落ちるのは本当に一瞬の出来事なのだと、おそ松は冷静に思った。
 落ちていく大切な幼馴染の女の子と、その子を助けようと力強く手を伸ばす十四松はまるで映画のワンシーンを思わせた。
 人一人を食らった穴はげっぷをするかのように、ぱたんと小さく鳴いて床を閉じる。そんな音があちらこちらから聞こえてきた。
 十四松が「どっ、どーしよー兄さんたち!ななしちゃん落ちてっちゃったよー!」と慌てていた。慌てすぎて目の焦点もあっていないし、耳からは水が出ている。
 女に殴られたチョロ松もカラ松も一松も、幼馴染が落ちていったのを見ていたらしい。
 トド松も一緒に踊っていた女が穴に落ちてしまったらしく、慌てて駆け寄ってきた。
 どうやら腹を殴られた様子のチョロ松は、そこをずっとさすっている。
「わけわかんないけど、とりあえずななしちゃんを助けに行こう!」
「だが、ハタ坊が言うには受付で渡された番号札と同じ番号札を持つレディを探せということらしいが……。誰かななしちゃんの番号札を見たやつはいるのか?」
 顎の赤いカラ松が兄弟を見渡すと、すぐに十四松が手を挙げる。
「はいはい!はいはーい!俺、見たよ!124だった!」
 円陣組むように丸く集まった六つ子たちが番号札を握って手を出した。六つの手の中にあるのは「124」と書かれた番号札だった。
 トド松が目を丸くして驚く。
「一緒じゃん!えっ、ちょっと待ってよ。これおかしくない?つまり僕たち、ななしちゃんと一緒のテーブルだったってことだよね?でも僕たちが別々のテーブルに座ってたのって、おそ松兄さんが違うって言ったからじゃ……」
 ざわり、と空気が不穏なものに変わった。五人の目がゆらりと光る。
 おそ松が抜き足差し足でそろそろと輪から抜け出そうとしているのを見逃すチョロ松ではなかったし、また他の兄弟もそれは同じだった。
 洗練された無駄のない動きで、おそ松の周囲をさっと囲む。
 チョロ松ががっしりとおそ松の頭をわし掴んだ。手の血管の筋が浮かぶくらいの力が込められている。チョロ松の歯の隙間から吐き出された息は不穏な空気に満ちあふれていて、指がおそ松の頭に思いきり食い込んだ。
 ぎりぎりと音が鳴っているような気さえした。
「あいだだだだだだ!!」
「おいコラクソ長男。てめーが言ったんだぞ。俺たちはななしちゃんと違うテーブルだから、どうせなら別々の席に座っていい女ゲットしようぜってな。てめー何こっそり抜け駆けしようとしてたんだゴルァ!!!」
「……そういえばおそ松兄さん、ななしちゃんと同じ席に座ってた気がする」
「おい、おそ松。一体どういうことなんだ?もし本当なら、俺はお前に愛の裁きを与えなければならない。お前に痛みを与えるのは心が痛むが、抜け駆けは許されないぞ。そうだろう、マイブラザー?」
「あっははー!おそ松兄さん悪いことしたんだー!なら成敗しなくっちゃいけないね!」
 じりじりと迫り来る兄弟たちに気押されたように、「えっ、えっ?ちょ、なに?そんなのいつもの冗談じゃん〜」と引き攣った笑みを浮かべたおそ松もじりじりと後退する。
 だが、相手は五人。あっという間に周囲を囲まれた。囲むのとほとんど同時で振り上げられた五つの拳はおそ松の顎を、両頬を、頭を、腹を殴っていた。
「げふぉあ!!!」
「ゲスが。そのままそこで死んでろ!!」
 ぺっとチョロ松が唾を吐く。
 おそ松が床に伏すと、他の五人は早速幼馴染を助けるために動き出した。
 トド松が思い出したように声をあげる。
「あっ!そういえばトト子ちゃんも落ちてったよね。助けに行かなきゃいけないけど、どうしよう?」
 二人とも大切な幼馴染で惚れた相手だ。どちらも助けたい。その思いはみんなの中にあった。
 少しだけ悩むように唸ったチョロ松だったが、すぐに提案するように人差し指を立てた。
「トト子ちゃんもななしちゃんも落ちていった先がわかんないし、とりあえず二人を探しながら歩こう。見つけ次第救出ってことで」
「そうだな。ましてやななしちゃんの番号札を持っているのは悪戯好きの運命のお陰で俺たちだけだ。きっと俺たちの助けを待ってるに違いない。全く、困ったお姫様だぜ」
「次喋ったら口縫うぞクソ松」
「えっ」
「一松兄さん裁縫下手なのにね!カラ松兄さん勇気ありやすねー!」
 ぱたんとホールの扉が閉じた。
 すでに他の男たちも番号札を手に、外に出て行っていたようだ。
 空虚なホールで死んだように動かなかったおそ松の手がぴくりと震える。
 むくりと起きると、赤く腫れた頬をさすった。
「あいたたたたた……。あいつら容赦なさすぎでしょーよ」
 はーあ、と大きな溜息をつきながら立ち上がると後頭部をがしがしと乱暴にかいた。
 綺麗な女とダンスだなんて、セックスの一つや二つ、流れでできるかもしれない。これで晴れて童貞とおさらばできる。
 そんな安易な考えで、せっかく独り占めできた大好きな幼馴染の側を離れたことを少しだけ後悔していた。
 でも、その綺麗な女とセックスがしたかったのは本当だったし、きっとその後の展開が見えていたとしても幼馴染の側を離れてダンスを踊りに行ったと思う。
 ──いや、やはりそれはどうだろう。
 気分屋なおそ松は幼馴染といたいと思えば綺麗な女を放ってでも一緒にいるだろうし、綺麗な女のところに行きたかったら幼馴染を放ってでも行くのだ。
 それが、松野おそ松という男だった。
 十四松に手を伸ばす幼馴染の顔がふと蘇る。
 とても必死だった。可愛いとは程遠いのかもしれなかったがおそ松にとって、いや六つ子にとって幼馴染二人の女の子はいつ何時でも可愛い存在なのだ。
(いやでもさー、あんな風に誘われたら断れないでしょー。男ってそういうもんだしさぁ)
 スタイル抜群の女がそれはもう艶かしい視線を向けて、細腰をくねらせてダンスを踊ろうと誘ってきたのだから、それを受けるのは男として至極当然のことといえた。
 ちぇー、と唇を尖らせて幼馴染が落ちていった床を蹴った。何も反応は返ってこない。
(つっまんねーの。せっかくバカな弟たち騙くらかして隣の席に座ったっつーのに、ぜーんぜん相手してくんねーんだもん。しかも結局あいつらにバレて殴られるし。大損でしょ。俺だって拗ねること、あるんだかんな)
 ──行けばいいでしょ。
 そう言った幼馴染は自分を見ていなかった。昔とは違う目だった。
 それがむかっとしたから、さっさと次の女にいった。
 でも気づいたら十四松とダンスを踊ろうとしていて、普段笑わないのにずっと笑っていたのを見て、自分の顔から笑顔が消えた感覚もまだ残っている。
 ヤらせてくれるかと思った女にひどく罵られながら頬を叩かれてたとき、脳裏に浮かんだのはやっぱり幼馴染二人の顔だった。
 都合が良いと言われてしまえばそれで終わりだが、小学生の頃の恋は次の日には好きな人がころりと変わるくらい移ろいやすいものだ。心が小学生のまま大人になったおそ松の恋心もそんな風に移ろっていく。
 それでも結局行き着くのは幼馴染のもとなのだから、心底惚れていることは確かなことなのだろう。
 幼い頃おそ松の後ろをついてまわって、どれだけ他の六つ子の真似をしようと一度も名前を間違えたことのないななしの花が咲くような笑顔が、今は頭から離れなかった。
「冷たくされても好きなんだよな〜。これが惚れた弱みなのかね」
 鼻の下を人差し指でこするおそ松は、にっと笑う。
「あんなクソ弟たちに負けるお兄ちゃんじゃないんだよね〜」
 今度こそ、昔みたいに幼馴染の花が咲いたような笑みを見てやろうと、おそ松は駆け出した。


 落ちる時間は思ったより早く終わりを告げた。しかも、痛みと衝撃もさほどなく、むしろ柔らかな感覚と共に終わることとなった。
 ──ぼふっ。
 拍子抜けするくらい間抜けな音が耳元でした。頬に羊毛のような柔らかな感触がある。
 恐る恐る目を開けてみると、私は真綿のようにも感じる柔らかい何かでできた大きくて真っ白なクッションの上に手足を投げ出して埋もれていた。見渡す限り真っ白だから、クッションはとても大きいことがわかる。
 深く沈み込む感覚はとても気持ちが良いが、起き上がろうにも沈み込むほど柔らかなクッションだからかなかなか起き上がれなくて足と手をばたつかせた。
「ちょ、なに、これ!起きれないんですけど!お尻が沈む……!」
 何度か寝返りをうって起き上がった頃には髪の毛はくしゃくしゃに崩れてしまっていた。
 クッションが柔らかすぎて立ち上がってもすぐに足をとられて歩くことも叶わないから、四つん這いになって這う。
 それでももたついた手をとられてしまって身体が滑ると、ちょうどよくクッションも下り坂の形になっていた。
 でんぐり返しの要領でごろんごろんとクッションの上を転がり落ちる。まるで、どんぐりころころのように。
 背中と後頭部を思いっきり強打してようやくとまった。「ほげえ!」なんて間抜けな声が出た。クッションの端らしい。痛む背中をさすりながらぶつくさと文句を言う。
「あーもう、痛いし髪の毛整えた意味ないし、なんなの一体。美味しいご飯も食べてないし、わけわかんない」
 立ち上がって振り返ると、ぎょっと目を丸くした。
「な、にこれ……!」
 ぺたりとガラスに両手を添えた。
 眼下に広がるのは大きなガラスの球体が、沢山天井からぶら下がっている異様な光景だった。
 部屋自体は言葉では言い表せないほど広い。真っ白な壁と天井、そこから風鈴のようにぶら下がる大きなガラスの球体たち。
 球体の中の半分は真っ白で、それはきっと穴から落ちてきた人がどこに落ちてもいいように敷き詰められた大きなクッションに違いなかった。
 地上までの高さ自体はそんなに高くない。二メートルほどだろうか。
 扉は沢山ある。あそこから誰かが入ってきて助けてくれるということなのだろうか。
 ガラスの球体の中には一人一人女性が入っていて、戸惑いを覚えている人もいれば余裕そうにたばこを吸っている人もいる。
「あ!トト子!」
 見知った顔を見つけて、私は額をめり込ませるくらい顔をガラスにひっつけながら、手のひらで思いっきりガラスを叩いた。
「トト子!わたし!気付いて!」
 きょろきょろと不安そうに周囲を見渡している親友の目がふとどこかに釘づけになる。口元を咄嗟におさえた彼女の視界の先を追ってみると、この部屋に誰か一人、入ってきた。
 東欧を感じさせる褐色の肌、神秘的なグレーがかった瞳、なだらかにウェーブした黒髪は一つにくくられていた。まるで絵に描いたような美男子は白いガンドゥーラを身にまとっていて、これまた絵に描いたような石油王らしき服装だった。
 音は聞こえないが、しゃらしゃらと涼やかな音が聞こえてきそうなほど、手首や足首に金色の腕輪やらをしている。
 もうトト子だけではなく、ほとんどの女性の目が釘付けだ。誰もが目で訴えている。
 ──あの人に助けられたいと。
 トト子の中で何かスイッチが入ってしまったらしい。目がハートになっている。そういえば最近何かと会う度に石油王がなんだかんだとごちゃごちゃ言っていたような気がした。
 ああなったら、もう私の存在が彼女の中に入ることはないだろうが、このまま見逃すのも癪だからガラスを叩き続けた。
「トト子!気づけばか!あほ!魚頭!」
 その甲斐もあったのか、たまたまトト子がこちらを見た。うるうると目を潤ませたトト子が口パクで何かを言っている。
 じいっと注意深く見ながら私の口もトト子の言葉をなぞらえていく。
「私、幸せに、なる、からね?いやそんなこと誰も聞いてない!」
 だんっと力強くガラスを叩いた。
 美男子がそろそろと球体に近寄っていく。その先にはトト子の球体があった。
 トト子はこれでもかというくらい愛らしい顔で嬉しさを表現している。今が釣り時だと釣竿を力いっぱい引き上げる漁師姿のトト子が浮かんだ。
 目をきらきらと輝かせながらも恐怖で目が濡れているようにも見せ、桜色の唇は安堵に微笑んでいるようにも恐怖にひきつっているようにも見えるかすかな微笑みを浮かべていた。
 売れない地下アイドルとはいえ、アイドルをやっているだけあってやはり顔は可愛い。中身は素直に可愛いなんて口が裂けても言えないほど悪どいけれど。
(くっそう。どうにかして阻止したい!……でも、今回は本当に夢叶いそうなんだよな、トト子)
 確かに性格は悪い。「ななしちゃんって私の引き立て役にぴったりなのよね!」と輝く笑顔で言ったトト子への殺意は忘れられない。
 それでも一緒にいるのは、「それにななしちゃんって醜くないもん。トト子、庶民と醜い豚はきらーい。ななしちゃんはトト子の次の次の次くらいに可愛いわよ!自信持っていいんだから!」となんだかんだ煽てられて彼女の手の中で転がされているからに他ならない。
 ──がたん。
 機械仕掛けの音でハッと我にかえる。見てみると、トト子のガラス玉が下に降りていく。天井とガラス玉を繋ぐ太い鉄の鎖がじゃらじゃらと音を立てていた。
 ゆっくりと球体が床に着くと、今まで継ぎ目もなかったところに切れ目が入り、扉になって開いた。ハタ坊の会社が持つ未知なる技術には震えるしかない。
 トト子が嬉しそうに美男子に寄り添った。周囲からのやっかみの視線がすごい。
 そのまま外に出て行こうとするトト子が思い出したようなやくるりと振り返ると、にやりと小悪魔な笑みを浮かべて口を動かした。
「六 つ 子 と お 幸 せ に」
 トト子のお尻からするりと見えた悪魔の尻尾はきっと見間違えではない。トト子と石油王の二人は扉の向こうへと消えていく。
 私の顔がさあっと青ざめた。
 幼馴染の一人であるトト子が抜けたということは、普段なら私に三人、トト子に三人と別れるはずの彼らが私に対して一点集中するということだ。
 すなわちそれは私の精神的な死を意味する。
 もう誰にも見つけられなくていいから、とにかく隠れよう。
 幸いにも埋もれることができる大きな大きなクッションがあるのだから、隠れ場所には困らない。


「なにここ。どこここ。なんでこんなところがあるの?わけわかんないんだけど」
「ちょっとトッティ。袖、伸びる」
 かつん、かつんと靴の音が響く。
 少し湿り気のある地下道は松明無くして歩けないほど暗い。少し先は何も見えぬ暗闇が続いていた。
 一松の顔が松明の柔らかな灯りに照らされている。トド松はその一松に寄り添うようにして歩いていた。
 びくびくと周囲を見渡しながら、時折聞こえるねずみの声に怯えながらここまできたのだった。
 一松の前を歩く十四松はあっけらかんとしている。時折「あっ!」と大きな声をあげては「なに十四松兄さん!?どうしたの何があったの!?」とトド松が半泣きで一松の首を締め上げる。「じ、ぬぅ……」という一松の声はどうやら届かないようだ。
 先頭を歩くチョロ松が呆れたように振り返った。
「十四松もトド松をからかうのやめろよ。トド松、本当にびびりなんだから。夜中のトイレも一人で行けないんだよ?」
「びびりとかじゃなくない!?こんな真っ暗なところで怖くない方がおかしいから!チョロシコスキー兄さんは人でなしだからいいかもしんないけどさ!」
「誰がチョロシコスキーじゃぼけえ!もうてめーのトイレついていってやんねーからな!」
「俺という光が照らす道があれば平気だろう、トド松」
「え?何か言った?」
 すん、と真顔になるトド松にそれ以上何も言えないカラ松はべそをかきながら松明で道を照らす。
 この一行はおそ松を殴り倒した後、様々な困難を乗り越えて一枚の地図を手にしていた。
 様々な困難とは、時にカラ松がピラニアの入った池に落とされそうになったり、その上カラ松が底なし沼に落とされそうになったり、更にはカラ松が炎が吹き荒れる床を歩かされそうになったりと、それは大変なものだった。
 その証拠にカラ松はぼろぼろだ。
 ──怪我をする時のカラ松の背後には必ず一松がいる。
 その言葉が六つ子の仲で暗黙の了解であるように、今回もカラ松の背後には必ず一松がいた。さり気なくカラ松の背中にぶつかって罠に落としていくのだから、なかなかのやり手である。
 そうした苦労を経て獲得した地図はチョロ松の手の中にあった。
 どうやら赤いばつ印が入った部屋が彼らの目的地のようだった。
「あっ!なんかあそこにあるよ!」
 唐突に十四松が反対側の壁を指差した。反対側の壁と言っても、松明の光が届かないそこにはただ暗闇が続くのみだ。
 今までも反対側すら見えないほど広い地下道で迷わないために、一松とカラ松がずっと壁を伝いながら歩いてきたのだ。
 ゆるりと視線を向けた一松の目にも暗闇しか見えないようで、怪訝そうにする。
「はあ?なんもないけど。ていうか、あんなところ見えないでしょ」
「えー?でもあるよ?」
 そう主張してやまない十四松の目は嘘を言っているようには見えなかった。
 チョロ松が溜息をつく。
「で、何が見えんの?必要そうなら取りに行かないと」
「んーとねー……」
 じいいっと暗闇を見つめてほどなくすると、ぴんっと閃きの電球が頭上に浮かんだ。
「通路の真ん中にちっさい箱がすっげーたくさん置いてある!」
「それってすっごく罠っぽくない?もう無視して行こうよ。こんな暗かったら何か起きても直ぐには逃げらんないし」
 嫌だ嫌だと駄々をこねるようにトド松は一松の背を押した。チョロ松も腕を組んで考えながら唸る。
「確かに必要そうなものじゃなさそうだし、気にはなるけど放っといても良さそうかな」
「えー!?俺、すっげー気になる!だってななしちゃんを助ける鍵とか入ってたらどうすんの!?」
「確かにそれは一理あるな」
「ならクソ松が行けば」
 一松がげしげしとカラ松の尻を蹴ると、「お、おい、それが人にものを頼む態度か!?」と珍しく抗議の声をあげた。
「だ、大体今までの罠だって全部俺がやったんだぞ!?もう俺は行かない!い、行き過ぎた愛は人を駄目にするんだ。俺はお前たちブラザーが好きだからこそ、今回は絶対に行かない!」
 ちっ、と一松の小さな舌打ちをした。トド松もこんな時に使えない兄に対して、むうっと唇を尖らせる。
 ばっと黄色い袖がはためいた。十四松が手を挙げたのだ。
「んじゃ、僕が行くよ!だって気になるって言ったの僕だし」
 元気よく歩き出して、「いってきまーす」と言いながらあははと笑う十四松は、場違いなくらいどこまでも陽気だった。
「ちょ、十四松!お前松明も持たずに行ったら……!」
 焦ったようなチョロ松をよそに、十四松の背中はすうっと闇に消えていき、ぺたぺたというスリッパの間抜けな音だけが遠ざかっていく。
 しばらくすると暗闇の向こう側から何かを漁るようながさがさという音がして、次の瞬間には「あっ!やっば!」という声と共に何かが水の中に飛び込んだような音が聞こえた。
 次に、「よいしょー!」という声と共に水しぶきの音が派手に聞こえてくる。
 トド松の肩がびくりと跳ねた。一松の袖を一層ぎゅうっと握り締めると、一松もごくりとつばを飲み込んだ。
 カラ松は走り出そうとするチョロ松を片手で制して、闇を見据えて声を張る。
「じゅうしまーつ、大丈夫そうなのか?」
「あいあい!大丈夫でっせー」
 カラ松の呼びかけに応える十四松の声は相変わらず明るい。
 べったらべったらと水っぽいスリッパの音が近付いてきたかと思うと、ぬうっと十四松の顔が現れた。
「持ってきたよー」
 へらへらと笑う十四松が戻ってきたというのに、誰一人声をかけようとはしなかった。
 ──なぜなら松明に照らされた笑顔は、真っ暗闇の中、宙に浮いているように現れたのだ。
 声にならない悲鳴をあげて、トド松がとうとう白目をむきながら泡を吹いて気絶した。倒れこんだ拍子に後頭部を壁に思いきりぶつけていた。
 他の三人も言葉が出ないのか一歩後退りしたまま、十四松をただ見つめる。
 十四松も何も喋らないから、ただただ見つめあうこと数分。
 一松がふと気付いた。
「十四松、お前……濡れてんの?」
「うん、そう!なんかねー箱拾って戻ろうとしたら池みたいなのに落ちた!あははー真っ黒ー!」
 更に近付いてきた十四松をよくよく見てみると、松明にぬらりと光る体が見えた。ただ、十四松の身体がなぜか真っ黒に濡れていて闇に紛れ込んでしまっていたのだ。
「これ、多分墨汁じゃない?嫌がらせにしてはガキくさいっていうかなんか、しょーもないな」
 すんと鼻を動かしたチョロ松の言葉に反応して三人もすんと臭いを嗅いだ。確かに墨汁のようなにおいがするし、しょぼくれた悪戯だった。
 自分たちが子供のころにやってきたことと比べれば随分手緩い。
「それで、何があったんだ?」
「ちっさい箱拾って戻ろうと思ったらなんへんな池があって落ちた!あはは、すぐに出たんだけど汚れちゃったねー」
 十四松の手の中には手のひらにおさまりそうな小箱が六つあった。墨汁には濡れていないようだが、墨汁だらけの十四松に抱えられていることによって少し箱が黒く滲んでいるようだ。
 チョロ松が一つ手に取った。それはなんだか高級そうな手触りをしている。
「確かに鍵とか入ってそうないかにもな箱だね」
 チョロ松が箱を開けると、ぎょっと目を見開いて固まった。
 カラ松も覗くと、「おお……!」と呟いて固まる。
 カラ松の持つ松明に照らされてきらきらと輝くのは一粒のダイヤモンドと側に小さく嵌められたエメラルドだった。
 箱の中身は指輪だった。高そうな指輪である。
「あはは、めちゃめちゃ綺麗だね!」
「こ、こんなのどうすればいいんだよ!僕たちの手の中にあっても完全にもてあますじゃん!」
「……ななしちゃん」
「はあ?ななしちゃんがどうしたんだよ」
「ななしちゃんかトト子ちゃんにあげればいいんじゃないの、これ。だって俺たちが今やってるのってパートナー探しのゲームなんでしょ。だからハタ坊が置いたんだと思ったんだけど」
 一松の言葉で、ふわっとその場の空気が納得したようなものになる。確かにこの指輪をプレゼントして株を上げるのも悪くはない。
 既にあげた後の想像をしているのか、にやけた顔をさらす四人だったが本来の目的を思い出すと一松が気絶しているトド松の頬を叩いて起こす。容赦ない平手打ちだった。
「いったぁ!!はっ、十四松兄さんは!?十四松兄さん大丈夫──じゃないね!何それ、すごい汚れてる!」
「トッティ!俺、大丈夫だよ!でね、すっげーの見つけちゃったんだ!」
 かくかくしかじか。
 これまでのことを説明してから、十四松は箱をトド松に渡す。「へー、すごいね。十四松兄さんの目の構造も不思議だけど」と箱の中にある指輪を眺めた。
「それじゃななしちゃんとトト子ちゃん探しに行こう。もう少しで着くから」
 チョロ松のその一言でまた五人はぞろぞろと歩き出すのだった。

to be continued...

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