むりみたい。
外は叩きつけるように雨が降り、風が窓を乱暴に叩く。
お湯の沸騰した音が静かに聞こえる。
名字は敷布団の上でタオルケットに包まっていた。
「おばちゃん…。」
この風雨だ、そろそろ店終いでもしようかと甘味屋の女亭主が表に出ると、すぶ濡れになった名字が呼んだ。
驚いた女亭主は急いで風呂を沸かし放り込んだ。風呂から出て萌葱色の浴衣を着た名字は、以前とは別人のように窶れていた。
春先に初の見廻りだと言って、派手な見た目の男と来てくれた時の、子供のような無邪気に輝く瞳は、絶望を映し何にも興味を無くし虚ろに揺らめいているだけだった。
タオルケット掛けてやると今のように閉じこもってしまった。
もぞもぞと動き名字は壁に持たれて座った。依然タオルケットに身を包む名字は口元だけを出した。
「ごめん、私、むりみたい。」
痛々しく笑う名字を、女亭主は必死に抱きしめた。
「私、隊長の役に立ててなかったよ……、新しく入った人の方がよっぽど支えになってる。」
私、副官なのにね。
そう言うと名字は、女亭主にしがみつき震え出した。
「隊長に何も言わずに出てきちゃった、初めて。携帯も置いてきた。」
名字は女亭主の胸元に顔を埋めた。
「たすけて。」
小さく弱々しい声は、窓辺に掛けた隊服には似合わなかった。
思えば名字が初めてかぶき町にやって来た時も、こんな雨の日だった。
今よりも小汚らしい格好をした少女は「たすけて。」と言って甘味処の前で倒れた。
足は泥まみれ、体は貧相で、至る所に痣や切り傷があり、戦いの末逃げてきたのだと容易にわかった。
二週間ほど経った日に目を覚ました。
目を覚ますや否や、自分の背丈ほどの刀を持って出ていこうとしていた。
「悪かったな急に。礼はできねェが恩に着る。」
野犬のような鋭い目をした少女は口汚く言った。しかし、足が震えて中々進めない。
ふらつく少女を女亭主は支えた。
「勝手に出て行くんじゃないよ、このバカ娘が。アンタには働いて礼をしてもらわないと、困るからねェ。」
肩に腕を回し少女を布団に戻した。
「お粥作るから待ってな。アンタ名前は。」
「…。」
「名前。」
「……名前。」
名字は小さ過ぎて音にならなくて聞えなかった。余程の事情があるんだろう。
「アンタは今日から名字名前だ。私の娘、名字家の子だ。」
名字からの返事はなかったが、女亭主は台所へ向かった。
「ほら、食べな。」
暖かそうに湯気を立てる卵粥が目の前に差し出された。
名字は奪い取る様にがっついてたべた。
「おいひい。」
舌を火傷したのか舌っ足らずに言う名字は、まだまだ、子供だった。
熱そうにするも食べる手は止まらなかった。焼ける舌に涙は止まらなかった。
あれから数日後名字は体が動かせるようになっており、朝早く起きて女亭主に声をかけた。
「おはようございます!おばちゃん!私何したらいい?」
「アンタ…。」
「ん?」
「いい顔できるじゃないか。」
嬉しそうに皺だらけの顔をくちゃくちゃにして女亭主は涙ながらに微笑んだ。
「おばちゃんのおかげだよ、ありがと。」
眩しいくらいに笑う名字。
あの愛おしい笑顔はどこへ行ったのか。
今の名字は、あの日の少女のようだった。
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