共犯者
 怒りはどこへ行ってしまったのだろう。セックスのあいだ俺は抵抗よりも口を塞ぎ声を殺すことに徹している。ホントは暴れ狂いたい。二重の意味で暴れ狂いたいのを精神力を総動員して耐え、ヨダレを垂れ流す口を両手でおさえつけ声を殺している。音を立てようものなら呼吸すら。セルフ窒息する勢いで。だからセックスのあいだはもう何もできない。甘んじて犯されることしか。怒りはどこへ行ってしまったのだろう。14歳の頃の怒り、15歳までの怒り。あの怒りが燃え続けていたら、俺は今、本能のまま暴れ狂って絶叫しているのだろうか。17歳の俺は両手で必死に絶叫とヨダレと呼吸を押し込めている。否応無しに窒息するのにともない限りなく無に近づいていく。朦朧として、ホントに生きているのかさえ自分であやしくなってくる。本当に自我が消え失せてしまわないようになんでもいい、頭の中で単語を繰り返す、アナルセックスの律動に合わせて。チンコが自分の身体を出入りするのに合わせて。クソ、クソ、クソ、クソったれ。クソが、きもちいけど、クソったれ。



 その人に初めて会った日のことはもう覚えていない。彼は姉ちゃんの幼なじみだった。俺と姉ちゃんは10歳近く離れている。初めて会った時はまだ俺は精子だった可能性すらある。その人との思い出せる限り最初の思い出は、7歳の夏、近くの神社の宵宮に連れて行ってもらった思い出。串焼きも焼きそばもどちらも買ってくれて、食べきれないぶんは食べてくれた。テキ屋のオッさんにどう言ったのか、シロップを全種類かけたかき氷を買ってきてくれた。絵筆を洗った水みたいな色の溶けた氷。噎せ返るような人混みの汗と煙と夏の匂い。優しげな銀縁のメガネが提灯の光を反射する。実際優しかったんだろう、彼のことが好きで好きで仕方無かった記憶がある。疲れ切った7歳の俺を背負う背中は広いのに男臭くなくて清潔な感じがした。彼とは10歳は離れているから、その頃彼は17歳くらい。よくできた17歳だ。今、17歳の俺の周りにはいない。ヤンキーとヤンキー・プレミアムとサイコパス衛しかいない俺の周りと比べるべきではないかもしれないが。

 結婚するのだと聞いたのは15歳の時だ。俺が理由なき思春期の怒りから急速に醒めつつあった頃。姉ちゃんと俺は向き合って夕食を取っていて、俺は焼き魚の小骨を完全に取り除くのとバラエティー番組を観るのとで忙しかった。姉ちゃんは姉ちゃんでその頃流行っていた芸人のトークに笑いながら「そうそう、結婚するから」と言った。そんなものかも知れない。親ではなく、弟に、それも10歳近く離れた弟に自分の結婚について話すのは、そんなものなのかもしれない。姉ちゃんが自分の親に結婚のことを話すなんてことはこれからも絶対に起こり得ないのだからわかりっこないが。両親の話はしない。姉弟が住むには広すぎるにもほどがある古びた一軒家と、俺みたいなヤツでも高校くらいは出ておく気になれるくらいの財産を遺してくれたのは両親ではなく、孤独な金持ちだったらしいじいちゃんだ。
 「結婚するから」。正直なところ、その告白を聞いて最初に抱いた感情は、よくわからない安堵だった。純粋な祝福ではない。『よかった、これで姉ちゃんが幸せになれば、俺も幸せになれることが証明される』、無理矢理言葉にすればこんな感じの。これは今でもよくわからない感情だ。もっとうまく説明できる気もするし、これ以上うまくは言えない気もする。俺は姉ちゃんの大人になるまでが普通より幸せではなかったのを知っている。か弱い保護者の健気で不幸な姿がチラついたまま、子供は幸せになることはできない。自分よりよく苦労しよく健気であるか弱い人を差し置いて幸せになることに、引け目と後ろめたさが芽生える。順番を守らなければ。より苦労した者から報われなければ。順番どおりに幸せになっていかないと、真の意味で幸せを得ることはできない。だから姉ちゃんが幸せになれれば、俺もいつか幸せになれるはず。いつかまともな大人になれて、まともに幸せになれるはず。ざっくり言うとこんな感じの安堵だ。完全に自分本位の安堵だけど、腹の中でくらい自分本位だっていいだろう。
 相手は俺もよく知ってる人、そう言われて彼だとわかった。実のところ彼のことを良くは知らないんだけど、彼以外のことなどもっと知らない。結婚相手は彼、そう聞いてますます安堵した。彼のことはよく知らないけど、宵宮の記憶がインプットされている。彼のことが好きで好きで仕方なかった記憶が。彼と結婚したら、姉ちゃんは幸せになる。そうに決まっている。そして俺にもまともな大人になって幸せになる順番が回ってくる。姉ちゃんが幸せになれれば。彼が幸せにしてくれる。

 彼に初めてレイプされたのは16歳のとき、だからまだ一年は経っていない。もうずっと昔からのことのように思えるけど、まだ一年も経っていない。姉ちゃんと結婚した彼が、この無駄に広すぎる家に一緒に住み始めて一年が経った頃。その夜、姉ちゃんは何故だか家にいなかった。理由は忘れた、でも姉ちゃんは仕事以外じゃ外泊なんてしないから、きっとそうだろう。ともかくその夜は家に彼と二人きりだった。彼は寝ていた俺を縛り上げて畳に転がした。目が覚めたらまだ夜で、手も足も満足に動かせないほどきつく縛り上げられていて、猿轡までかまされている状況で抱く気持ちがわかるだろうか。死ぬほど驚く。本当に死ぬほど。心当たりなどなくても殺されるのではないかと思う。彼は畳の上でまったく身動きが取れない俺に覆いかぶさって、俺のチンコをネチネチしごいた。死ぬほど驚く。なんで?心当たりなどない。もっとも人生で起こることの七割方は心当たりあたりなどないと思うけど。長い指にバラバラとチンコをなぞられてゾッとした。気持ちいいかもしれないと思ったから。なぞった指が這い、強弱をつけてしごく。耳元で、俺がいかに悪い子かを囁きながら。どうして悪い友達とばかり付き合うのか、どうして夜遅くまで帰らないのか、どうしてタバコをやめられないのか、どうして地元でも評判の悪い学校へ入ってしまったのか、どうして、どうして入学式で怒りを制御できなかったのか??悪い子だからだ。すべて、俺が、悪い子だから。弟がそんな悪い子で姉ちゃんがどう思うか、想像できない悪い子だから。耳に直接吹き込むように、わざと温めた熱い吐息とともに吹き込むように囁かれ続けて、正直感服すらすらした。どこか遠くで。あの日以来誰も俺に期待も強要もしなかった、すでに感触を忘れかけている怒りを初めて糾弾され、俺はすっかり驚いて萎縮するしかなかった。姉ちゃんを引き合いに出され悪い子だと言われたら、俺はもう認めざるを得ない。優しげな声、銀縁のメガネ、清潔な感じのする彼の匂い、筋張って白い冷たい手、男にしては柔らかな髪の毛。責めるような褒めるような、慈しむような口調で囁かれ続けて、そのあいだじゅうチンコをエゲツなくねっとりとしごかれ続けて、俺は自由がきかない身体で精一杯暴れ悶えた。イキたくない。猿轡から漏れる声は自分でもわかるくらい感じ入っていて、それに戸惑って泣きそうな哀れな俺。悶える俺をあざ笑う彼の右手。俺のチンコをめちゃくちゃにこねくり回し、尿道に爪を立て、亀頭を撫で回す。ぴったりと覆いかぶさられて、耳に冷たい唇を押し付けながら囁かれる。イキそう?厭だ、イキたくない。もちろん俺の返事は言葉になんかならない。せいぜいよがり狂った喘ぎ声だ。イキそうだろ?やだ、イキたくない、やめて、やめて、ゆるして、義兄さん。

「悪い子だな」

 甘く囁かれながら耳に舌をねじ込まれて、俺はイク。盛大に痙攣し、仰け反って喉を晒し、引きつった脚で畳を掻きながら。ビクビクと痙攣する腹筋に精液を塗り広げられ、俺は完全に彼の支配下に落ちる。事実のみが俺を責める。彼の言うとおりに俺が悪い子である事実。悪い友達と夜遅くまで付き合ってタバコを吸い、怒りを制御できず、姉の旦那に手コキされてイク。彼の言うとおりに、俺が姉ちゃんにとって悪い子である事実のみが俺を責める。そして俺は完全に彼に支配される。これは不貞行為に数えられるのか?たった今彼の共犯者になった証を塗り広げられながら、俺はビクビク痙攣する。これは不貞行為に数えられるのか?支配される。もう許してもらえない。支配される。少なくともセックスの最中は。

 最初の夜は徹底的に快楽の底に落とされた。恐らく俺を完全に共犯者にするために。姉の旦那に身体中ぐちゃぐちゃにされてイキまくった事実が俺の中に存在さえしていれば、俺に言い訳を思いつかせないだろう。今後どんなに無体を働いたって。どんなにひどいことをしたって。俺は自分のされたことと、彼のしたことを隠し通すことを第一とするだろう。彼とともに。実際そうみたいだ。
 二回目の夜からは縛られなかった。最初の夜はそんな隙もなかったが、二回目は驚いた身体が勝手に抵抗しかけた。姉ちゃんがいるのだ。今夜は家に姉ちゃんがいる。朝が早いからもう眠ってはいるけど、この家に姉ちゃんがいるのだ。反射で跳ね避けようとする手。そして殴られた。俺は犯されたことよりも、よほどそちらのほうに驚いたのだった。彼が人を殴るとは思わなかった。義弟をレイプするような男にどんな希望的観測をしているんだと思われるかもしれないが、彼が殴るとは思わなかった、信じられなかった、本当に。世の中には暴力と触れ合う機会のある人間とない人間、きっちり二種類の人間にわけられていると勝手に思い込んでいて、俺は前者、姉と義兄は後者だとこれまた勝手に思い込んでいた。似合わなかった。単純に顔に合ってなかった。優しげな女顔。合致していなかった、俺の中の義兄のイメージに。
 そう、そんなふうに驚いてばかりで、実際に今起こっていることを俺は疑ってばかりいた。殴られているのは今なのに、義兄が人を殴るなんて信じ難いと疑う。敵わないような男の力でおさえつけられて犯されているのは今なのに、義兄とそんな乱暴な男の欲はイメージが合致しない、何かの間違いでは?と疑う。優しく優しく俺をなじる、傷つける、悪い子だと囁くその甘い声音だけが宵宮のイメージと合致して、疑ってばかりの思考回路がわずかにショートする。修繕、至急修繕、あるいは。声が漏れる。ショートしたところから火花と一緒に、火花のように俺を消し炭にする可能性を秘めた声が。

「アイツに知れたらどうする」

 そう言って殴られる。最初の頃はまだうまく口を塞げなかった。アナルセックスの律動の、身体を穿つような衝撃にまだ慣れていなかった。今は違う。姉ちゃんのこと『アイツ』って呼ぶのも、最初は違和感があった。今はどうでもいい。静かにねと優しく諭され殴られたところが青タンになる。アザくらいなら何も言われない。多少のアザを作って帰っても、姉ちゃんは今更何も言わない。最近はもう少ないけど、15歳までは怒りにまかせて息を呑むような問題を起こしたり巻き込まれたりしてたから、もう慣れてしまって何も言われない。たまに笑い混じりで揶揄されるくらい。あ、もしかしてこれが悪い子ってこと?姉ちゃんに諦められてる悪い子だって?と軽くアハ体験。数少ない友達の中じゃそうでもないから、自分が悪い子だなんて気付かなかった。事実、アザくらいでは何も言われない。数少ない友達にも、ヤンキー・プレミアム溝口にも、衛にも。
 三回目の夜以降はエスカレートする。セックスのときに腰を動かすよりも殴ったり剰え鞭なんか使うほうに夢中になるヤツってどういう神経してんだ?何が楽しいのか全くわからない。うつぶせで馬乗りになられて、晒した背中を打たれるたびに切り裂くような痛みに身体が跳ねる。実際に皮膚が裂けていたことはまだ無いけど、多分。思い出したように奥の奥まで腰を使う彼を肩越しに盗み見るとすごく幸せそうな顔をしている。うわあ、全然わかんねえよその気持ち。鞭が背中を打つ音は思ったより小さく、べちん、というような爽快感の欠片も無い音で、それで俺は声を殺すことに徹する。全身に脂汗が滲むような痛みも、涙が溢れるような快感も、両手で口と鼻まで塞げばなんとかなる。呼吸をしなければどんなに叫んでも声は出ない。衛が教えてくれたことだ。息を吐ききったときに殴られると声が出ない、口と鼻を塞ぐのときっと一緒。

「アイツに知れたらどうする?」

 今度は疑問系。アイツってぼかして言うもんだから、ちょうど衛のことを思い出していた俺は衛のことかと思ってしまった。さあ、アイツはきっと興味ないから平気だよ、心配すんな。逆鱗に触れないかぎりアイツは基本的になんにも興味がない、だからこの世で一人だけ手放しに信頼できる。興味がないから、きっと今この俺のことも軽蔑しない。
違うか、この人が言うアイツって姉ちゃんか。アイツに知れたら。さあ。それこそ『さあ』だ。脅されているのか、ヤバいのはお互い様じゃないのか、それともその部分で脅されているのか、被害者じゃない、共犯者だぞって。でもこうも思う。今起こっていることに疑問を抱く時期がようやく過ぎて、俺はこうも思う。『別に耐えられないことじゃない』。大したことない。これに限らず、すべてのことは別に耐えられないことじゃない。いつかは終わる。これに至っては慣れてきたし、そんなに苦痛でもない。冷静になればきっとヤンキー・プレミアム溝口の鼻パンチのほうがずっと痛い。気持ちいいときだってある。耐えられないほどじゃない。重ねた殴打が青と茶色と黄色のシミになっても、次第に黙らせることじゃなく完璧に黙っていられるか痛みを与えること自体が目的になっても、手ではなく叩いて苦痛と傷を与えるためだけの道具を使われるようになっても、それでも完璧に口を塞いでいられる程度だ。黙っていられる。声を我慢できる程度のことだ。『耐えられないほどじゃない』。自然に過ぎ去るのを待つだけ。まったく14歳の俺が聞いたら憤死しそうなセリフではないか。怒りはどこへ行ってしまったのだろう。14歳の頃の怒り、15歳までの怒りは、どこへ。世界を見渡せば取るに足らない怒りなど存在しないに等しい。怒りを殺せば俺という存在は限りなく無に近づく。ではどこへ。どこへ行くのか。消えた怒りはどこへ。
 俺は、どこへ?



 素敵な空模様、秋色の空気、収穫直前の田んぼが藁色に輝いてざわめく。廃教室のベランダ。衛はマイセンのメンソールを吸いながら、コロコロコミックを読んでいる、手すりの柵に寄りかかって。鉄製の手すりが今この瞬間錆び腐り果てたら衛は落下して死ぬ。コロコロコミックは弟のらしい。

「とりあげてやんなよ、鬼畜か」
「とりあげてないよ、読み終わったからってマコちゃんが恵んでくれたんだよ」
「情け深い弟だな」
「アッハッハ。誰に似たのか」

 自分が情け深くない自覚はあるのか、情け深いってどういうことだ?マイセンの副流煙の紙っぽい香りが鼻をくすぐってくしゃみをした。それが頬骨から眼窩にかけての青タンに響いて痒いような痛みが駆け巡った。

「そのアザ、維持してんの?あ、もしかしてタトゥー?」
「維持してんの、維持してんの、触んな痛えから」
「アザ押したら治り早いって言うじゃん」

 誰が押させるか、そんないい笑顔のヤツに誰が触らせるか。なおも伸ばされる手を跳ね除けながら衛から距離をとって座る。最初の頃は恥ずかしながら尻に響いてうんこ座りなんかできなかったけど、今は違う。今はどうということもない。全ては慣れ。慣れてしまえばすべてのことは取るに足らない。人生さえ。空気と同化した怒り、空気と同化した驚き、空気と同化した苦痛、空気と同化した快楽、暴れ狂いたくなるほどの。

 ごおぉおおん!!!

 ベランダの、古びた鉄製の手すりに頭を打ち付けると、そんな大晦日っぽい音がした。煩悩を打ち消す鐘の声。言い得て妙だ。俺の頭の中に蔓延る煩悩の数だけ除夜の鐘に頭突きしたら楽になれるのか。痛みも感じない。死にたさだけがある。死にたさだけが。

「ハルくん発狂した?」
「してないしてない」
「めっちゃ背中ビリビリする」

 柵まで響いたらしい。背中を軽くさすって衛が笑う。俺の背中は自分じゃよく見えないが少なくとも無地ではない。エンボス加工くらいされてるかも。

「ハルくん頭大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、なんかさ、自分の行動後から思い出してウアアア!ってなるみたいなのあるじゃん、ソレ」
「何ソレこわ、ねーよ」
「自分を顧みない系男子?お前とは一生わかりあえねえ」

 ぎゃははって、衛の笑い声だけが現実だ。そう思うことにした。痛いのも気持ちいいのもその瞬間は耐えられる、耐えるってほど気張らなくても受け流せる。問題は今だ。ふいに思い出して、純粋な死にたさが襲ってくるこの今だ。
prev top next
GFD