『歯があるのがいけないと思ったから』
 素敵な空模様。秋色の空気にも寂しさが混ざり始める。田んぼは先々週収穫されてしまって、今は暗い色の土を晒している。そんなセンチメンタルな景色は差し置いて廃教室の中。足りない机の数。転がって埃の積もった床。かつてここでキングが女を掛けて果たし合いをしたって噂だよ。そしてそこから飛び降りたって。知らなかった、ここはサザンクロスだったのかって、そんなわけあるかよ、確かに世紀末じみた学校だけど。

「脱げ」
「は?」
「服を脱げ」

 相変わらずの笑顔、よくわからない笑顔の衛さんから俺へ、ちょっと耳を疑いたくなるようなお言葉。しかも命令形。何言ってんだコイツ。何言ってんだコイツとしか言いようがない。バカなの?まあそれは知ってるけどさ。

「脱いでって」
「いや、え?なに?」
「はーる、はやくしろ」

 埃の積もった机のひとつに座る衛の目が若干据わる。いや駄洒落じゃないけど。笑顔のまま。ヤバい、ちょっとキレてる、でも何故に。何故に脱がなきゃならない。俺がデリヘル嬢でヤツが客なら早く脱げってキレ気味になるのも理解できるが、残念ながら俺はデリヘルデビューする予定はない。もうキズモノにされちゃったし。くすん。そう、キズモノだ、自分じゃイマイチ確認できないが、俺の背中は普通の感性で見たら十分引く感じの状態になっている。そんな軽々しくは脱げない。ていうかそもそもなんで衛に命令されて脱いでやらなきゃなんないんだよ気持ち悪いな!なにする気よ!衛さんとそんな関係になるのはマジ勘弁だわ!

「ハル」

 今度は声が低くなる。衛以外に誰も呼ばない俺の呼び名。クッソこええな。衛がキレたら俺なんか文字通りけちょんけちょんだ。俺弱いし。俺がターバンのガキだとしたら衛は山のフドウくらい。そのくらいの差。まあでも俺にだってターバンのガキくらいのガッツはあると認めて欲しい。誰か。



 衛は例えるなら超人ハルクだ。超人ハルク、心優しきバナー博士が怒りで緑色の怪物に変化し破壊の限りを尽くす、手のつけようがない。衛とバナー博士の違うところは、衛は普段特に心優しくないところと、衛は特に思い悩んだり怒りを抑制する気がないところと、衛は特に緑色になったりはしないところ等。ここまでくるとハルクに例えたのはバナー博士に失礼だったかもしれない。いやだったかもっていうか普通に失礼だ。
 俺が入学式でヤンキー・プレミアム溝口と鼻を折り合い自宅謹慎してたあいだに、衛は学食で後ろに座った先輩のクチャラー具合にプッツンして身も凍るような乱闘騒ぎを起こした。周りの良識あるヤンキー諸君に即座に引き離され、実際もみ合ってたのはほんの数秒足らずだったのに、衛は羽交い締めにされるまでの間にクチャラー先輩の歯を二本折った。

「歯があるのがいけないと思ったから」

 謹慎明けで出頭させられた生徒指導室で、これから謹慎するので出頭させられた衛とめでたくファーストコンタクトを果たした。つるりとした傷一つない顔でおとなしく椅子に座っている衛は、その頃からあのよくわからない笑顔を浮かべていて、いいヤツそうにもいかにもヤバげなヤツにも見えた。ヤバそうなヤツに見えたのは十中八九前情報のせいだろうけど。衛のそのよくわからない笑顔は無表情みたいなものだ。理由のわからない笑顔は見る者に都合よく解釈される。“好意的に”じゃない、“都合よく”解釈される。

「歯が無くてもクチャラーはクチャラーだろ」
「アッハッハ、確かに。鼻へーきか?」

 口がデカいから声を上げて笑うのも嫌味じゃない。人が怪我してるところに触ろうとするのはその頃からだ。暴力的で人の痛みに無頓着、暴君とも言える。顔が良いのに彼女たちに次々ヤリ捨てられるのはそのへんに原因があるのかもしれない。

「入学式のとき、見てた」

 衛は俺の鼻を覆い正しい形に固定するガーゼに指先で触れながら囁く。衛が少しでも力を入れれば俺はまた鼻骨整復手術を受けるハメになる。けど俺は衛の手をふりはらわなかった。衛が慎重な手つきでガーゼとテープの境目を引っ掻くのをそのままにしておいた。入学式で俺はヤンキー・プレミアムの鼻を折った、挑発されたからだ。衛はその数日後に学食で先輩の前歯を折った、クチャラーだったからだ。衆人環視の環境で自分の怒りを発散させた経験は俺を急速に醒めさせている。もともとそれは期限付きの怒りだったのだ。永遠に支配されるものではない。永遠に鬱屈とした万能感をあたえてくれるものではない。永遠に寄り添っていてくれるものではない。期限付きの怒り。でも、完全に消え去るわけがない。

「俺は、お前が学食で先輩の歯を折るとこ、見てないけど」
「見たいの?」

 そのうち嫌でも見ることになる、このとき漠然と予感した。そのとおりで、俺と衛はそれから連むようになり、衛はそれからも順調に爆発した。何度か巻き込まれてとばっちりを食ったが不満はなかった。俺が爆発することは入学式以来無い。衛といれば俺が怒りを爆発させる必要はない。衛こそが怒りの権化だ。衛だけが怒りをありのままに、形を歪めることなく発散させる。被害や後腐れを回避するために抑制され歪曲した怒りではない、もっとも正しい形でこの世に生み落とす。正しき怒りの権化だ。衛といれば俺は怒りを感じる必要もない。まともになれる。幸せになれる。姉ちゃんが幸せになったその次に。怒りを忘れれば。そう思ってた。



「脱げ」

 衛は埃の積もった机の上で脚を組み、顎を傾けて俺を見下ろす。焦らされて苛々し始めた衛は次第に表情を失い、無表情に近づく。衛の無表情は無表情ではない。衛の無表情は笑顔なのだから。俺はいつしか背中を守るように壁に押し付けて立ち、エンボス加工された皮膚が冷えた壁の温度にまだらに触れるのを感じる。

「意味わかんねえ、そんなん言われて脱ぐと思う?二重の意味で身の危険感じるわ」
「わかったわかった」

 あはは、って。大口を開けて笑った衛は机の上で胡座をかく。埃がぶわっと舞う。衛、今お前のケツ真っ白なんじゃねえの。エンボス加工された背中の皮膚が冷え切って、存在を主張するように不意に痛む。

「脱がずに話すか、話さずに脱いで見せるか、選べよ早く」
「…」
「逃げんなよ」

 頭の中で複数の声が囁く『バレてるぞ』『どうして?』『どこまで?』『どうする?』。鍵などとうに壊れているドアに視線を走らせると「逃げるな」と釘を刺される。『バレてるぞ』『逃げるか?』『いや怖すぎる』。衛との距離はギリギリ十分離れている。全力で逃げれば逃げ切れるかも。よしんば今は逃げ延びたとして、近日中に死ぬだろうけど。
どこで知った?というか何を知ってる。脱がずに話すか、話さずに脱いで見せるか。話すならどこまで話さなきゃなんないのか。夜な夜な姉の旦那に抵抗らしい抵抗もせずレイプされていて最近じゃかなりSMじみてきていて性癖が歪みそうで怖い、とかそういうことまで話すのか。レイプされながら悪い子だと刷り込まれ続けて恥ずかしながら発狂しそうだとか。でもそのときさえ乗り切ってしまえば、なかったことになるんじゃないか。姉ちゃんの幸福にも俺の幸福にも不穏分子でしかないこの出来事が。なかったことになるんじゃないか、レイプされている俺さえ存在しなければ。怒りを殺せば俺という存在は限りなく無に近づく。なかったことになるんじゃないか。幸せになれる。いつか。

「ハル」
「…わかった、わかった」

 でも俺は結局、カッターシャツのボタンに指をかけた。衛に眺められながらボタンをひとつひとつ自分で外していくのはなんだか限りなく不愉快だったが仕方ない。話したら、夜な夜な惨めな俺の存在が確定してしまう。だからダメだ。でも見せるのだって同じじゃないのか。くるしい。同じじゃないのか?いいのか本当に?くるしい。すべてが台無しになってしまうかも。衛との友情も含めて。でもでも、既にキレ気味の衛をどちらもせずに宥める方法なんて、この世に存在しないし。

「ハルくん乳首綺麗だね」
「言うに事欠いてそれ?それ言うために脱がせた?さすがに殺すぞ」
「後ろ向け、背中見せろ」

 なんかすごいセクハラで汚された気持ちになって、いっそ気負わずに後ろを向いた。ついさっきまで背中を守り冷やしていた壁に、額を押し付ける。両脚と額の三点で身体を支えて目を閉じた。瞼を閉じた先は宇宙の暗闇だ。光の残像が幾何学模様となって散る。あまりにも光の明滅がひどい場合には眼圧が高くなっていないか疑ったほうがいい。上半身裸になって、壁に向かって項垂れる。定期的に身体検査される囚人のような扱い。でも衛がやっているのはそういうことだ。俺が何か隠していないか探してる。俺が隠している危険を孕んだものを提出させようとしている。俺が自分でも把握しきれてない背中の傷に、それらを見出そうとしている。

「もういいよ」

 声がかかってそれこそ従順に振り返った。衛は変わらず埃まみれの机の上に胡座をかいていて、右目を拭いながら鼻をすんっ、と鳴らした。ギョッとした。本当にギョッとした。え、なに、泣いてる?ウソでしょ?え、ウソでしょ?こわい、こわすぎる、これぞ鬼の目にも涙、最近秋晴れ続きだが明日は雷雨のち雹くらいあり得る。

「服も着て」

 衛は目を擦りながら机から降り、舞い続けている埃でも吸ったのか盛大なくしゃみをした。あ、そういうことね、マジでクソビビったわ、この世の七不思議に遭遇してしまったかと思ってしまった。いそいそと服を着る。ビビりすぎて背中の傷をどう思われたか気にするのも忘れていた。もう二、三度くしゃみをした衛が「で?」と言葉を繋げてくるまでは。

「で?なんでそんなえげつないことになってるわけ?」

 おい結局説明させるのかよ。脱ぐか話すかどっちかって話だったよな?この世にはサドしかいねーのかよ。密かに絶望する俺を尻目に衛は尻の埃を丹念に払っている。顔にはいつもの笑顔を取り戻しているので、俺は少し余裕こいてシャツのボタンを留め時間稼ぎをする。

「で?」

 気づくと衛が眼前にいる。制服のスラックスにまだ残っている埃がつぶさに見える距離。埃から衛の顔へ、視線を上げるのと同時に顎を掴まれ固定される。埃っぽい無骨な指が頬にめり込む。痛くはない。あの人には顔に触れられたこともない、唐突にそう思い至って唐突に死にたさが襲ってくる。衛に顎を掴まれてるからすぐ後ろの壁に頭突きして平静を保つこともできない。至近距離にある衛の顔はやはり笑顔だ。埃っぽい指の一本が眼窩の青タンをなぞった、いつか慎重に執拗にガーゼとテープの境目を掻いていたのと同じ手つきで。

「これも背中のと関係あんの?」
「ある。…なかったらそれこそえげつなくねえ?」
「確かに。確かにな。言えてる」

 妙に納得して、衛は手を離した。まだ半分しか留めていなかったボタンを「これはこれは、気づかなくて」だのほざきながら留めてくれる。「できたわよアナタ」ってやかましいわ。こんなデカくて暴君の嫁さんは要らない。大きく伸びをした衛が「タバコ吸いたい」とベランダに歩いていく。世を忍んで吸ってる身だもの、部屋の中じゃ抵抗がある。遅れて出て行くと衛はもう煙を吐き出している。「一本くれ」と言うと、咥えていたタバコを差し出された。一本しかねーのかよ、もらうけど。かすかにしめったフィルターを咥えて吸い込む。メンソールのスースーする感じになんだか強烈に叩き起こされた気分になった。べつに寝てたわけじゃないけど。

「ハルくん聞いてくれ。またヤリ捨てられた」
「そんなんわざわざ話すようなことじゃないだろ、日常茶飯事だろ、オチもなにもねえじゃん」
「フッフッフッ。むかつく、むかつくよお」

 ブキミに笑う衛にタバコを奪われた。あっ、くれるんじゃないんだ、ケチ。二人して鉄製の手すりに寄りかかって、もし今この手すりが錆び腐り果てたら二人揃って落ちて死ぬ。衛が煙で輪っかを作ろうとして、うまく行かずに「あん?」だの首を傾げた。貸せよ、って奪ってやったのにこういうときに限って上手くできない。衛の品のない笑い声。お前だけは手放しに信頼できる、俺を助けも見捨てもしないと。タバコが短くなっていく。これが燃え尽きるまでが現実、そう思うことにした
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GFD