星空を見上げれば
 ボクは七歳、神社の境内にいる。今日は宵宮で、明日には近隣の町内会連中の担ぐ御輿がありったけここに運ばれてくる。汗と酒の匂いがする男たちで境内は埋め尽くされ、誰も彼もが怒り狂っているような声で怒鳴り散らす。そうしないと誰にも聞こえないからだ。その本祭りの空気が嫌いだった。純粋に怖かったからだ。大人の、それなりに年をとった男が見慣れなかった。暴力的な振る舞いと野性的な匂いを放つ男たちがとんでもない怪物のように思えた。同じ生き物だとはまったく思えなかった。自分もいつか成長してああなるなど、もっと信じられなかった。大人の男は架空の怪物みたいだ。あるいは遠い外国の国立公園を駆ける猛獣。一生触れる機会のないもの。妄想と同じもの。その恐ろしさも、頭の中にしかないもの。
 宵宮にはまだそんな男たちは少ない。小中高生のガキどもが、その日だけは夜遊びを許される。香具師がさまざまな出店を出している。粉物と魚介と甘い砂糖の熱され焦げる匂いが入り交じる。強烈な一夜の匂い。買い食いを許されたガキどもが連なって走りすぎる。ボクには一緒に走り回る友達はいない。ボクはすでに剣のたくさん刺さった黒髭危機一髪みたいなもので、突然爆発し一緒にいるお友達を手ひどく叩きのめすおそれがあるからだ。そんなやつでも、学校で遊んでいるぶんには友達はいる。けれど、わざわざ学校から帰ったあと一緒に宵宮に出かけてくれる友達はいない。学校にいるあいだ、ラテックスのボールが誰かの顔面を真っ赤にし、怒り狂って暴れたツケとして学級会をするはめになるのはまだ子供の義務だから我慢できるけど、学校の外までつき合いきれない。いつ爆発するかわからない、けれど爆弾だと分かっているソレとは心から楽しんで一緒に跳ね回ったり林檎飴を舐めたりできない。当時は知らなかったけどボクはそう思われている。
 だから彼と一緒に。
 思えば何故彼と二人きりだったのだろう。姉ちゃんと三人とかでは無しに。姉ちゃんは宵宮に来なかったのか?来たのかも。彼の思い出が強烈すぎて忘れているだけかも。もう10年以上前の記憶なのだし。
 10年前、彼は大人でも子供でもなかった。背中は広いけどまだ骨張っていたし、ボクの恐れていた大人の男の匂いも振る舞いもしなかった。彼は静かに、もしかすると姉ちゃんよりも穏やかな口調で辛抱強く話し、優しげな銀縁のメガネをかけていて、サイズの合わないそれをかけると周りのすべてが歪んで引き延ばされて見えた。宵宮の灯りも、林檎飴も、遠い空の星々も、義兄の笑顔も。義兄が笑って俺の頭を撫でる。優しくメガネを取り上げる。元通りメガネをかけ、俺を見下ろしてやはりにっこりと笑った義兄は宵宮の灯りを背にしている。境内があんなにとおくにある。義兄の顔がかげって見えなくなる。すべてが真っ暗になる。無に近づく。思い出でしかない宵宮の記憶は現在から消え失せる。現実に吸い込まれ、すべてが現在でしかなくなる。脚色も美化も編集も存在しない現実の世界へようこそ。まだ俺たちを幸せにしてくれると信じている。すべてが暗くなる。性懲りもなく。義兄さん。すべてが。義兄さん。根拠もなく。
 義兄さん。



 目を覚ますと湯の沸く清潔な匂いがした。熱消毒された蒸気の匂い。もう何年も使っていない、天板にヤカンを乗せて湯を沸かしたり餅を焼いたりできるタイプの、よちよち歩きをはじめた幼児の紅葉のような手によって絶滅に追いやられたタイプの古き良きストーブを誰かが出したらしい。確かに寒いけど、もうハロゲンヒーターがあるのに。姉ちゃんが迷いに迷って、電気屋をはしごしまくって買ったハロゲンヒーターが。誰が出したんだ。誰が。
 ハッとして飛び起きようとしたが、かなわない。どうして起きあがれないのか、身体のパーツの有無をひとつひとつ確かめるように可能な限り身体を動かさずにもがく。この一年間でそんなセコいマネばかり身に付いている。すると、両手首が腰の上あたりでくっついているのだった。頬には畳の感触がある。いつもの感触だ。俺は胃の底が冷え切り、食道がバキバキとひび割れながら凍り付いていく感覚に襲われる。油断していた。完全に。もう二度となにも起こらないと思っていた。根拠もなく。凍り付いた気管に押し出されてため息ともごく小さな呻きともつかない声を漏らすと、氷のように冷え切った指が額を撫でた。高熱の子供をあやす母親のような手付き、そんなこと母親にされたこともないけど、姉ちゃんにはされたことがある。今、前髪を梳き、かきわけていく冷たい指はなめらかでやせてはいるけど骨張った男の手指だ。室内は不自然な温かさ。年代物のストーブがまだ昔の感覚を思い出しきっていないのに違いない。湯の沸く気配。熱い蒸気の匂い。何に使うつもりだ。室内は不自然に熱いのに、俺は内臓から次第に凍えきっていく。いつもの部屋。最初の夜以来、実に一年以上ぶりに縛られた手首。いつも冷え切った義兄の手指。

「もし声を我慢できなかったら」

 俺が畳に擦り付けていないほうの耳に呼気がかかる。人間めいて温かい息が嘘っぽくて、俺は鳥肌を立てて震えた。狂ったように嘶くヤカン。清潔な熱蒸気の匂い。なにに使うつもりだ。それをなにに使うつもりなんだ。

「アイツに聞こえる」

 最初のころは姉ちゃんのことを“アイツ”と呼ぶ義兄に違和感があった。今はどうでもいい。アイツに聞こえる。今は何時だ。姉ちゃんは家にいるのか。今は何時だ。教えてくれ今は何時だ。姉ちゃんは眠ってるのか。教えてくれ。頼む。教えてくれ。姉ちゃんは起きているのか。それとも眠っていても目が覚めてしまうような声を我慢しなきゃならないようなハメに俺は今から陥るのか。

「静かにね」

 優しく甘やかすように囁く義兄は狂っているのだと、俺はやっと認めた。ずっと気づいてはいたけど、認めることができなかった。やっと根負けして認めたけど、もう遅すぎる。狂ったように嘶くヤカン。認めたとして。熱の塊であることを主張する清潔な湯気の匂い。俺はまだ受け入れるのか。どこまで受け入れるつもりだ。受け入れて、受け流した気になって受け入れて、膿む暇もないほど絶え間無く与えられる傷痕をドロドロに黒ずませて、それを受け入れて、無視して、なかったことにして、そこにあるのに、なかったことにして、無に近づく、怒りを殺せば俺の存在は限りなく無に近づく、惨めな俺が存在しなければそもそもこの義兄の凶行はなかったことになる、姉ちゃんが傷つくことはない、姉ちゃんが幸せから遠ざかることはない、俺が俺であるというだけで罪悪感に苛まれることも将来的にはなくなるかもしれない、姉ちゃんが幸せであれば、義兄が凶行を働いた事実がなければ、すなわち俺が今から起こることを耐えきれば。耐えきれるか?口と鼻を塞げば、身体へ出入りする空気の流れを完全に断てば声は出ない。手首は背中でくっついている。口も鼻も塞ぐ手段はない。姉ちゃんはいるのか、寝てるのか、起きてるのか。狂ったように嘶くヤカン。熱気。水蒸気に触れただけで火傷する。俺は受け入れるのか、耐えきれるのか、なかったことにできるのか、怒りを、怒りを殺せば、

「義兄さん」

 ヤカンが嘶くのをやめる。幼児の手のひらや、好奇心旺盛な猫の肉球に水膨れを作り、絶滅に追いやられた古いタイプのストーブから持ち上げられたからだ。宵宮の記憶。この一年間の記憶。どうして俺なのか。どうして。きっとどんな仕打ちよりもその疑問への答えが俺をズタズタにする。この事態が解決されるとき、きっとその疑問も明らかになる。俺はそれから逃げている。この一年間に及ぶ健気な態度こそ俺の人生を賭けた現実逃避で、この食道を凍てつかせる熱い水蒸気はそのツケだ。

「やめて」

 吐息にも満たない小声で肩越しに囁くと、義兄は幸せそうな顔をした。懇願ですらない。ただの鳴き声だ。次の瞬間にはすべてが崩れる。すべてだ。すべて。積み重ね、逃げ続けてきたもののすべて。次の瞬間。逃れられない次の瞬間。それでも往生際悪く畳を舐め、口を塞ごうとギリギリと歯を立てる俺は哀れだろう、健気だろう、惨めだろう、何も残らない、誰か殺してくれ、俺を傷つけないそこの誰か、殺してくれ、命を奪うことなく。口いっぱいにい草のノスタルジックな薫りを頬張った俺の引きつった頬を、義兄が幸せそうに撫でる。そして俺の、エンボス加工のような傷痕で埋め尽くされた背中の上で煮え立ったヤカンを傾ける。



 気づくとシャワーに打たれている。薄暗い風呂場で、服を着たまま、背中に冷水を浴び続けている。冬なのに冷水に打たれても寒くなかった。熱くも無いけど。背中の皮膚が硬いゴムの板になってしまったかのように感覚がない。自由になった手首の、赤く擦れ切れたところの感覚だけが妙に鮮明だ。痛い。擦り傷というには無理があるほど皮膚が破れ丸ごと剥がれたようなその傷は、むちゃくちゃに暴れて拘束を振りほどこうとしたかのようだった。痛すぎだろこれ。記憶が飛んだのか、覚えがないけど。とうとう俺もラリったか。
そして目の前で、姉ちゃんが泣いている。

「姉ちゃん?」

 姉ちゃんはシャワーの下に座り込んだ俺の膝にすがるように、うずくまって嗚咽していて、俺と同じように服を着たまま冷水を浴びてしまっている。一瞬姉ちゃんもどこか火傷でもしたのかと肝が冷えたが、すぐにそんなことはないとわかってそれきり感情が失せた。すっぽりと。

「姉ちゃん、風邪引くだろ」

 俺の膝にすがって真冬の最中に冷水を浴びながら泣き続ける姉ちゃんは、罰を受けているように見えた。あるいはこの世で最も不幸な女に見える。か細く尖った肩に服がべったり貼り付いている。今この瞬間、姉ちゃんはこの世で最も不幸な女だ。弟は問題児で、旦那はその弟を犯していたぶって喜ぶ変態、そして真冬だというのに冷水のシャワーに打たれている、この世で最も不幸な女だ。そして姉ちゃんが不幸である限り、俺はそれ以下のド畜生だ。

「姉ちゃん」

 あはは笑える。笑える。最高に笑える。すべてが壊れ、壊れて、壊れた。再生のための破壊ではない。いたずらに、一年かけて念入りに、崩すための楔を打ち込み続けた塔が満を持して完璧に壊れた。それだけだ。それだけ。わかってるじゃないか。それだけ。それだけだ。俺はシャワーの水を止め、膝から姉ちゃんの手を引き剥がし、姉ちゃんの身体にタオルを掛けて外へ出た。



 外に出たのに大した理由なんてなくて、有り体に言えば現実逃避の続きだろう。俺はバカで懲りない。懲りてれば一年前の時点でなんとかしている。外は夜の暗さだが、いかんせん真冬だ、時間なんてわかったものじゃない。ふらふら歩くとさすがに寒いような気がする。背中は明確に痛いとか熱いとかは無いけど、何か凄まじい感覚を訴え続けているのは確かで、身体全部が背中になっちゃったみたいな感じがする。ごめんちょっと自分でもなに言ってるか分からないわ。たぶん猛烈に寒いのと猛烈に痛いので感覚が相殺されて、結果猛烈に無、みたいな。ごめんやっぱり自分でもなに言ってるか分かんないわ。ふらふらと歩き続ける俺はこの期に及んで現実逃避を続けていて、その証拠にべったり濡れた尻ポケットから携帯をひっぱり出している。水没してダメになったかと思ったけど、開くとなんとかまだ生きていた。充電は一個しかないけど。ていうか18時て。宵の口か。
 電話帳開いて、名前を探して、あ、着信履歴見たほうが早かったかって思いながらボタン押して、真っ赤な電池アイコン、びしょ濡れの髪を掻き分けながら耳に押し当てて。なんて言って出るだろう。なんて言おうか。なんも言わずに切ったっていい。声を聞きたいだけって、彼女か、キッモい!とか思いながら、呼び出し音を聞いて、ふらふら歩きながら。

「もしもし、びしょ濡れでどこ行くのお嬢さん」

 思いの外リアルな声に振り返ると携帯を耳に当てた衛がいつもの笑顔でニヤニヤ立っていて、なんかすげえ、ドラマみたい、ってなんのひねりも無い感想が浮かんだ。

「びしょ濡れて!幽霊かよハルくん、そろそろ死んだ?」

 うんそろそろ死んだかも。さておき、お前は半纏て。この現代社会で半纏とか着てるヤツ初めて見たわ。携帯を畳むもう片方の手にはデイリーヤマザキの袋を下げている。デイリー20時に閉まるからね、今のうち行っとかないと、てか半纏でコンビニ行っちゃうヤツも初めて見た。ふらふら歩くうちに無意識に衛の家の方へ来ていたらしい。悲しいほど本能。惨めなほど本能。

「なに?用水路にでも落ちた?よく心停止しなかったなハルちゃん鋼の男だな」

 無駄口叩きながら寄ってきた衛が俺の肩を抱く。いつかみたいに、怪我人か子供を連行するみたいに。ていうか痛ってええええ!!背中、衛の腕が当たって、今まで猛烈に感覚が無だったのに突然猛烈に火傷を、痛みを主張しはじめやがった。ヤバい、めっちゃ痛い、めっちゃ痛いですやんこれ!って住んだこともないのに関西弁にもなる。あと猛烈に寒い。死ぬだろ、これ死ぬだろ、ねえ。

「なに、どした?」
「やば、ちょ、すわる」
「え、カタコト?」

 疑問に思うとこそこかよ。そして爆笑する衛。ちょっと、こんなに全力で具合悪そうなんだけど俺、鬼か。あ、鬼か。道端に座り込む俺の背中を追いかけてきて触れた衛の手が、初めてかすかにこわばった。ずるずると大の高校生が二人して道端に座り込んで、なにこれヤンキーじゃん、通報される、クソ田舎だから人通りなんて皆無だけど、コンビニも20時で閉まるし、最早コンビニエンスじゃねえし。

「ハル、」
「ちょっとキモいこと言うけど、」
「なに」

 怒りを殺せば俺という存在は限りなく無に近づく。星空を見上げれば、俺という存在は消え失せる…いや消えない、ここにいる。だって確かに世界にとって俺なんかちっぽけでゼロに等しいかもしれないが、俺の世界では俺という存在が最も生々しく巨大なのだから。逃げられるわけがない。ここにいる。なかったことになんかできない。だって傷モノにされちゃったし。ここにいる。義兄にレイプされる俺も、殴られる俺も、姉ちゃんにすべてがバレた俺も、火傷と凍えで満身創痍な俺も、姉ちゃんが不幸な俺も、すべてここにいる。ここに存在する。決してもう消えない。もう二度と。ごまかせない。逃げられない。笑える。笑えるよ。クソ、クソ、クソ、クソッタレが。

「すげえキモいんだけど、」
「どんだけハードル上げんの、ストイックにも程があるわハルちゃん」
「ちょっと、抱きしめて」

 衛は即座に抱きしめてくれた。フツーに。一瞬の躊躇も挟まず。当然のように抱き寄せて、俺のぐしょ濡れの髪の毛までグシャグシャにしながら力強く。背中の火傷まで力強く。やべえ痛ってえ。マジで意識が朦朧とするほど痛いけど、朦朧としてるからかもしんないけど、涙が出てきた。クソが。涙は衛のモコモコ半纏に吸わせてごまかしておく。ぐしょ濡れの髪の毛に差し込まれた無骨な手が、撫でてくれてんのか単にかき回してんのか微妙な仕草で取り返しがつかないほどグシャグシャにしていく。擦り付けられたこめかみが熱い。笑えるよな、クソが、笑えるよ、笑ってくれ、笑わないんだなお前、こういうときばっか、それならついでに、何も言わないで。頼むから何も言わないでくれ。そんなことわざわざ願わなくても衛だけは叶えてくれると、何故か確信がある。あの日、折れた鼻を覆うガーゼを撫でられたあの日から。

「…クソが」

 たった一言の嗚咽にも、まるで打ち合わせ済みかのように衛はなんの反応も示さなかった。ただ強く強く俺を抱きしめ続けている。こういうことをしてくれる人がいたら、幸せになれるのかもしれない。代償も、オマケも、その先も、副作用も、何も与えはしないとわかっている人がいたら、その人は。
 頭上にはクソ田舎らしく満天の星空が輝いている。これだけ無数の星が、広大な世界が広がっていても、俺は、俺の苦しみ悲しみ惨めさは無にならない。逃げきれない。あまりにもクソッタレ、あまりにも笑える。
 それからいよいよ朦朧とした俺が気絶してしまうまで、衛は一言も漏らさずに俺を掻き抱き続けていた。
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GFD