僕の人生の中でこんなに恵まれた出来事などあっただろうか。
常に劣等の渦の中を、先の見えない闇の中を、必死にもがきながら前だけを進んでいた。
これは……神様からの贈り物なのかな。



『出久くん。かっこいいよ』



夢なら醒めないで―――。





僕は現実を避けながら、それでも架空を見上げて歩いていた。
そんな僕に転機が訪れた。憧憬であり、超えたい壁である僕の英雄。オールマイトから個性を授かるなんて、そんな軌跡みたいな出来事、本当に夢なんだろうか?
いや、これは紛れもない現実だ………。



二日後の早朝―――。
多古場海浜公園に連なる見渡す限りの粗大ゴミの山の中。中央には地面が見える場所がある。そこで冷蔵庫に縄を何重にもくくりつけてそれを自身の身体に巻きつけ、渾身の力で動かそうとするがぴくりとも動く気配すらない。何のためにこんなことをしているかなんて、理由がなければこんなことを提案するような阿呆ではない。
あまりの負荷に地面に前のめりで倒れこむ僕の目線の先には、女性用のブーツのつま先が映った。
こんなゴミの巣窟のような汚い場所に女性が足をわざわざ運ぶのか?
疑いの眼で瞬きを数回する。僕はきっと寝ぼけているんだ。そう自身に言い聞かせていると冷蔵庫の上で体育座りをしていたオールマイトの気安い声が耳に届いた。



「遅かったじゃないか邪神くん」
『私が低血圧なの知ってるじゃないっスか』



少し大きめな欠伸をしながら女性の声が頭上から降り注がれる。でも僕の耳には疑問が生じた。何故か、それは聞き覚えのある声色だったからだ。それも、つい最近だ。
芸能人?はたまた英雄か……僕の私的好奇心が顔を覗かせて視線を上にあげたのは、きっと間違いだったのか。僕はまだ夢の中に居るんだと疑うことしか出来なかった。



『おはようございます、緑谷出久くん』
「でゅ、Diva……?!」



思いがけない人物の登場により、僕は地べたに寝転んでいた身体を跳ねらせその場に正座をした。僕の目の前には優美に微笑を浮かべて手を左右に振るDivaが実在していたのだから……。

――え、えっ?! な、なんでこんなところにッ!!? もしかして知り合い?!! うぇぇええ!!?

混乱する脳内会議をする中、彼女の隣に並ぶオールマイト。
僕の頭上では会話が飛び交っていた。



「その姿で来たのかい? 目立つだろう」
『驚かせようと思って来たんで抜かりないですよ』
「相変わらずトリッキーだね、君は。いいから元の姿に戻りなさい」
『アメリカンジョークのレベル落ちたんじゃないですか?』
「君のはジョークのレベル超えてるから」



やれやれ、と言った様子で呆れている声のオールマイトも珍しいけれど。それよりもっと珍しいのは、Divaが喋っていることだ。彼女は謎のベールに包まれすぎていて、誰もが議論を積み重ねている七不思議のひとつだ。メディアの露出を控えているとはいえ、戦場ライブで顔を出すことや被災地への支援など惜しみなく出席することから、人々からは絶大な支持と好感度を誇っている。けれど、彼女は唄う以外はほとんどと言っていいほど喋らない。彼女がどんな声で話し、どんな話し方をする人物で、どんな性格なのか、誰もが知りたいと思っている事項だろう。

だが……意外に、ユーモアのある底抜け明るい人なのかな?

外見からは想像もつかない聡明で神秘的な美しい女性。それがDivaだ。だけど、僕の目の前でオールマイトを呆れさせ、悪戯っこのように笑っている彼女は、とてもあのDivaには視えなかった。
非番の日だからラフな格好なのはいいはずなのに、僕の勝手な想像の中では白いワンピースを着ているイメージだったけれど。彼女の現在の格好は黒のリブ柄ハイネックに赤いロングカーディガン、黒のパンツスタイルでブーツ着用と、とても動きやすそうな格好をしていた。
ぼふっ、と音がする。煙の靄が立ち込め、彼女のシルエットだけが僕の視界を独占する。次第に煙は晴れDivaの居た場所には、白髪の髪を束ねた碧眼の綺麗な男性が立っていた。



『これでいいですか?』
「相変わらず変貌が激しいね」
『あなたに言われたくないですよ。骨と肉じゃないですか』
「誰が骨と肉だ。中傷的過ぎるだろう」
「え、え……Divaって男性、だったんですか……」



眼が飛び出るんじゃないかと驚きながら僕は震える喉で、綺麗な男性に呼びかけると距離があったはずなのに一瞬の間に詰められ、僕の額からは今まで聴いたこともない鈍い音がこの海浜に響き渡った。



「緑谷少年。彼女は列記とした女性だよ。それは…多少…いや、かなり男性的ではあるが「すっすみませんでしたっっ!!!」



オールマイトが云い終える前に僕は90度のお辞儀をしていた。何故ならDivaが拳を握って振りかざそうとしていたからだ。こんなに暴力的な人だったとは……意外も意外。



「その、あの…とても綺麗だなと思ってしまって…その、すみません……」
『別にいいですよ。よく間違われるんで。中性的な顔立ちの私が悪いもんなので、気にしないでください』
「そうだぞ、緑谷少年。彼女が中性的であり、尚且つ凹凸のなさが根本の原因たる由縁…」



オールマイトを一睨みで騙させたDiva。
ここでの力の差は歴然だったと僕は脳内でメモを書き取る。



「改めて紹介しよう。私の知人であるDiva事邪神禄くんだ。これから彼女も君の特訓に付き添うから仲良くね」
『10ヶ月の間ですが、よろしくお願いします』



手を差し伸ばし彼女は僕に握手を求める。けれど僕には疑念があった。



「え、あ、あのっ…本名を僕に教えていいんですか?」



ヒーローネームが存在する以上。個人的な戸籍を露見してしまう行為である名を明かすことは極めて賢い選択ではない。しかも期限付きということは、それ以降の交友関係は望めないということになり、実質彼女は不利益しか残らない。僕が晒したりなどすることは絶対にないけど、初対面の人間に信頼などいきなり寄せていいものでもない。
様々なことを僕は癖のように口から出てしまっていたのに、彼女は僕の手を掴むなり握手をかわした。



『問題、ありますか?』



このときの僕は彼女の言った言葉の意味を汲み取ることなどできず。
後に明らかとなる現実までの距離はやはり10ヶ月だったのだと、その後知ることになる。



『よろしくです、出久くん』
「あ、はいッ!宜しくお願いします!え、えっと…」
『禄って呼んでください』
「あ、え、あ…禄さんっ」



僕だけが知るDivaの正体。
神秘的で聡明な美しい歌姫は、明朗で謎めいたトリッキーな女性だった。



『じゃあ終わるまで寝てますね』



そして……とてもマイペースな人物だった。



◆◆◆




器を生すための特訓。僕が英雄になるための第一歩の道は険しいなんて言葉じゃ生ぬるいほどだった。
10ヶ月がこんなにも短いだなんて思わなかった。考えもしなかった。僕は人より遅れている分、努力を重ねるしかないのだと言い聞かせながら学校と特訓の往復を繰り返していた。



『出久くん』



そんな中で肝が冷えることは何度も体験した。
確かに女子と会話なんて記憶に数える程度しかしたことのない錆びれた僕の経験値としては、とても、いや、かなり薔薇色の展開が繰り広げられているが、相手は禄さん。年齢的にこれは如何なものなのだろうと、先に頭をよぎった。



「あ、えっと…禄さん。その制服どうしたんですか」
『近所の人から拝借しました』
「ご近所の人に今すぐ返して来てくださいっ!というかご近所って何処ですか!」
『まあまあ。落ち着いてください。ほら、今日のお昼は頑張りましたよ……インコさんが』
「あ、どうもすみません」



僕が忘れていたお弁当を態々届けに来てくれたようだ。今日は。
お弁当を受け取り机の上に広げる傍ら、椅子を何処からか持ってきて彼女は当たり前のように僕の傍に居座った。



「あの、禄さん。ひとつ訊ねてもいいですか?」
『内容によりますが、どうぞ』
「おいくつなんですか……?」



このとき、僕は激しく後悔したことを憶えていた。



『女性に年齢を聴くのはマナー違反ですよ』
「……しゅ、しゅみませんッ」



教室中に響き渡った頭蓋骨にまで到達するほどの拳が、僕の頭上に炸裂した。
団欒をしていたクラスメイトたちが一斉に僕たちへ視線を注ぐが、常に注目の的である彼女にとってどうでもいい事のようで。普段どおり振舞っていた。



『確かに中学生の制服を着る年齢は超えていますが、制服は着たいときに着るものです』
「いえ、学生の指定衣類です」
『細かいことは気にしないでください。大人になればお姉さまたちが世のおじさまたちを喜ばせるために着用する代物に変貌を遂げますから』



わああああああ―――。

中学生の思春期たる僕の脳内では処理が不可能な単語の羅列に、危険信号を発する僕を余所に。
禄さんは楽しそうに口角を上げて歯を覗かせていた。僕が彼女と過ごすうちに知り得たことは、彼女の悪戯を臭わせる笑い方が意外に子供っぽいのだと解ったことだ。これはきっと僕がこの世の誰よりもDivaの近くに居るのだと立証できる記憶だ。倖なことだと思う。
箸を持ったまま停止している僕を『食べないの?』と首を傾げて顔を覗いてくる少し年上の女性である禄さんに心臓を一跳ねさせながら、慌ててお弁当のおかずをかきこんでは喉をつまらせて咳込んだ。遠慮なく背中に触れて撫でてくれる彼女の所作に顔中に熱が集中してくるのがわかる。僕は、器を成すために人一倍努力をしなければならない。そのために憧憬たるオールマイトもプロのヒーローであるDivaも協力してくれている。ならば、僕が今できることは……応えることだ。今より、もっと先の未来の切符を掴むために。只管努力あるのみだ。僕は……天才(ナチュラルボーン)じゃないのだから―――!



『出久くん。かっこいいよ』
「ぶふッッ―――!!」



口の中に含めたご飯が不意打ち発言により綺麗に飛び出していった。



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