ソファーに座りながららくがき帳にボールペンが滑り、ヘッドフォンの先からアップテンポの激しい音楽が奏でられている。
そんな彼女の背中を対面式台所に立ち、割烹着を着たブロンドの髪、碧眼の王子容姿をした男性が挙動だけで推測した。



「ご機嫌だね、禄ちゃん」
「ああ、例の坊主にご執心だぜ」



当人からの回答は得られず、替わりにフローリングに寝そべる子犬の姿をした艶やかな黒の毛並みを誇る狼が答えた。
あまり面白くないのか鼻を鳴らして余所を向く。そんな動物らしい動作をするフェンリルに彼、融はくすくすと喉を震わせた。
周囲が賑やかになっていることに気がつき、ヘッドフォンを肩にかけた禄。



『どうした?』



彼女の訊ねにフェンリルは足元に纏わりつくだけ。替わりに答えたのは鍋を持って食卓に置いた融だった。



「緑谷君のことだよ」



責めるというより終始穏やかな口調で融は彼女に訊ねる。何を言わんとしているのか理解すると彼女は悪戯をする神様のように口元をつりあげた。



『おん。かっこいいやろ』



そんな彼女の表情を見て、フェンリルは小声で呟いた。



「ご愁傷サマ」



◆◆◆




『出久くん、帰りましょ――ん?』



禄は当たり前のように不法侵入をし、緑谷の在籍している教室へ顔を出す。
これはここ最近の日常の一コマに過ぎない。周囲も始はあの緑谷出久を訪ねてくる献身的な女子に興味津々といった面持ちで観察をしていたが、人の慣れは恐ろしい。
彼女を見つけるなり同じクラスの女生徒が「緑谷ならもう帰っちゃったよ」と教えるほどだ。
行き違いになってしまったことを知り、御礼を言ってから彼女は教室から背を向けた途端。彼女を引き止めたのはまだ教室に残っていた緑谷と同じクラスの男女生徒だった。



「あの…とても素朴な質問なんだけど……何処で出会ったん?!」
「あなたのお名前は?!」
「緑谷とは付き合ってるん?!」
「ご趣味は?!」
「愛妻弁当って本当なの?!」
「得意な料理はなんですか?!」
「誰だよ!個人情報訊いてる奴!!!」



若さの勢いと群がる圧力に、飄々としている禄も両手を突き出して、対応に困り果てた。常に取材陣を撒いて来た実績がある彼女だが、流石に押し問答のような体験はしたことがない。答えようにも次から次へと溢れ出る質疑に応答など秒速で出来るものかと内心では激しいツッコミをしていた。
やや返答をしようと口を開けたが、耳に届いた言葉に口を結んだ。



「あの無個性の緑谷の彼女な訳ねえーだろ!こーんな美人がよ」
「だよな〜精々従姉妹ってオチだよな」



周囲のざわめきが重なる度に、緑谷出久に対する誹謗中傷も拡大していく。
薄く開けた唇で彼女は要約した。彼らが質疑してきた応答のそれだ。



『出久くんはかっこいいです』



周囲には静けさを齎された。それほどまで衝撃的な言葉だったのだ。
ふざけて言ってる様子もない、彼女の瞳は真っ直ぐに澄み切っている。その瞳が口がはっきりと告げた。
彼女の瞳に映る緑谷出久の存在認識。
静寂に包まれた中学の放課後の教室は、次の爆音で再び喧騒を取り戻した。



「ばっ爆豪……っ」



一人の男子生徒が呟いた名前。
自席に今まで座っていたのか椅子が盛大に床を叩きつけたようだ。だがその音すらも彼自身の個性である爆破の音によって全てが飲み込まれてしまったようだ。
眉間に皺が寄り、爆豪と呼ばれた少年は生徒たちが囲い、群がる中心にいる人物である禄へ轟く感情を一心に視線で訴えていた。
空気に亀裂が入り、びりびりと静電気のように走り抜ける。畏怖の念をこめた顔をして生徒たちは全員後ずさりを始める中、彼の憤怒を一心に受ける禄だけは爆豪を見つめていた。その視界には確かに彼だけが映し出されている。だが、それは爆豪にとって更なる感情の煽りとなる。



「てめぇ…」



大股で近寄り床を蹴る。大名行列のように生徒たちが道を譲り禄の目の前で立ち止まった。殺害でもしまいそうな刃のような鋭い視線で見上げられる。近くまで来て並ぶと爆豪少年は禄より少しばかり背が低かった。周囲は「あ、あれ?」と首を傾げる始末。雰囲気が和らいでくる前に爆豪は恐喝姿勢を衰えさせまいと、彼女の手首を掴むなり教室から強引に廊下へと連れ出していた。

引っ張られるがままに連れ出された先は人気の少ない校舎裏という、何とも在りがちな場所だった。特段驚くこともせず禄は壁に押し付けられ、目の前に厳つい不良少年に睨まれている状況だった。



「見下ろしてんじゃねえよ」
『え、不可抗力…っス』



身長に多少の差異がある所為で必然的に見下ろしてしまう禄に、理不尽なことで責める発言をする爆豪。思わず口から漏れた本音に彼が壁を蹴ったのは言うまでもない事柄だ。すると、爆豪は彼女をここへ連れてきた本題を提示した。



「お前何者だ」



その言葉に僅かにぴくりと眉を上げる。
今まで誰もが受け入れて来た禄の存在。多少の謎を抱えていてもそれは彼らにとって興味を注ぐ内容ではなかった。だが、爆豪にとって禄が何者であるかは重大な意味を持つものだと認識しているようだ。
普通ならば不法侵入者として焦り慌てるところであろうが、彼女にとって誰に露見されようが微微たる障害にもならない。だからこその冷静な態度だった。
しかし、爆豪と言う少年に僅かな興が湧いたのは事実であり。禄は悪戯に口角を上げた。
その余裕な表情が気に入らないのか、追い詰めている。圧倒的な優位に君臨する爆豪は未だに手首を掴む手に力をこめて、空いている片手に軽々と火花を散らせた。考えるまでもなくこれは、脅しだ。
目の前で爆破されたら、拘束されている手首でもしも彼が個性を発動させたら…そんな事を考えたら普通の人物であれば恐怖に慄くが筋だろう。何でも彼の言いなりになり、彼の求める答えを口走ることだろう。だが、相手が悪かった。



『これは正当防衛って事で……』
「!」



捕まれた腕を捻ると同時に足を引っ掛けると、意標をつかれ体勢を崩す。逆に捕まれた爆豪の腕を掴みよろけた身体を反転させ形勢が逆転する。気がついた時には爆豪は壁に押し付けられ手は背中に回し、拘束されていた。
後ろから体重をかけるように背中にぐっと膝を押され圧迫感が彼を襲った。



『駄目じゃないですか。女性に質問をするときは慎重に提示しないと嫌われちゃいますよ』
「っだ、はな、せッ!」
『それから暴力も。ヒーロー希望なのに女性を繊細に扱えないなんて嘆かわしいです』
「るっせぇ……!いいから、離せ!!」



暴れるがビクともしない圧に爆豪は内心焦燥していた。女と男の力の差は歴然。これは言うまでもなく実証できている事柄だ。にも関わらず、爆豪は女である禄から一向に脱出出来ないで居た。
何者なのか、その正体を知る前に己へ降り注がれる危機に汗が止まらなくなる。
そんな内情事情など手に取るように理解している禄は、耳元に近づいて囁いた。それはきっと悪魔よりも優しいささやかな誘発だった。



『だからお前は、脆いんだよ』


途端に大人しくなった爆豪を余所に、彼女は拘束を解き。自由の身になったにも関わらず彼はその場に立ち尽くしたまま静止している。そんな彼を一瞥してから興味を失ったかのように、彼女は背を向けてこの場を後にした。
通い慣れた道を遡りながら彼女はぼやく。



『誰だっけ……?』



爆豪の名前すら思い出せていなかった。あのヘドロ事件の人質で一躍有名となった彼のことを、禄は頭から抜け落ちていた。彼女の興味関心に触れることのない無駄な知識だと自然な動作で破棄されてしまったのだろう。
顎に指先を置き「はてあの子は……」とあまり深く考えるそぶりも見せず歩みだけは止まらず。目的地の海浜公園まで赴けば、粗大ゴミを片付ける日常化してきた緑谷の姿が視界を彩る。煌びやかな彼の存在が彼女のここまでの意識を全て神風のように、吹き飛ばした。
禄の存在に気がつくと緑谷は汗だくの顔でニカリと笑った。



「禄さん」



無邪気に名を呼ばれ、彼女は手を振った。



『まあ、いいか』



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