10ヶ月後―――。


その日は晴天で、冬の寒さが身に沁みる明け方の空が目映いほどに水平線の彼方まで透き通って視えた。僕は僕なりの努力を重ねて、ここまで来た。でもここまで来たとて、ここがゴールじゃない。僕の最終地点の出発点に過ぎない。

試験当日の早朝に、オールマイトが運転する軽自動車の助士席から禄さんも降りた。低血圧だと聴いていたために、彼女が訪れたことが純粋に嬉しかった。
器を成したこと、継承に値すると認めて貰ったこと。僕はどの人間より恵まれ過ぎた環境だと自身のこれまでの人生を振り返りながら、夢なら醒めないで欲しいと何度も思った。
自分の力で得たものと、ただ譲り受けただけでは価値が違うのだと、オールマイトは僕の背中を押す言葉ばかりを口にしてくれる。この人は出逢った当初から何故こんなにも僕の一番欲しい言葉をくれるのか、感謝してもしきれない。涙など流しても枯れることはないくらい、僕は一生分の涙を流した。これは悲しいものじゃない。これは……自分のために流す最高のものだ。



「さて儀式をはじめよう」



そう言って、僕にはまだ早すぎる授与式が開始された。
ずっと片手に髪の毛を一本手にしていたから不思議に思っていたが、まさかそれを「食え」と言われるとは思っていなかった。
DNAを取り込めれば何でもいいと、彼は言ったが。髪の毛を食べるという行為に僕は目眩にも似たもの感じたが、半ば無理矢理髪の毛を体内に取り込んだ。
喉を通り抜ける感覚は何とも違和感しか抱けない。けれど、取り込んだとてすぐに発症する訳ではないようだ、あと2〜3時間すれば直にわかるそうだけど、試すことも出来ない速さにやはり目眩は必須だった。

僕とオールマイトが話している間、禄さんは珍しいほど大人しかった。
まだ眠いのかと思ったけれど、横目で盗み見た彼女は水平線上に浮かぶ昇り始めた太陽の揺らめきを、視線を逸らすことなく見つめていた。その姿が、まるで明け方の明星たる象徴。美の女神アフロディーテのようで、神々しくも神秘的な彼女を醸し出していた。

今でも彼女について謎ばかりだ。秘密主義者なんだろうけれども、意図的に隠しているのにそれを嫌悪に思ったことはなかった。何故だろうか。彼女の謎は仕方がないことなんだと享受してしまう節があった。
いつの間にか彼女を見つめ続けていたようで、ふと視線が合わさると彼女は口角を上げてこちらに歩み寄った。
その行為に僕は恥ずかしさが増し、思わず自身の足元へ視線を落としてしまう。



『終わりました?』
「ああ。これで完了だ」
『そろそろ仕度しないと受験に間に合いませんね』



時計を見るそぶりをする彼女の声に僕は「そうだった!」と顔を勢いよく上げた。すると目の前には歪んだ形をしたお守りが差し出されていて、その指先を辿ると彼女に通じた。



「あの…これ……」
『君の夢が現実になれますように』



そういって彼女は僕の掌にお守りを落とした。ころりと転がったお守りは本当に歪で、手作り感が満載だった。所々糸が飛び出ている、どうしたんだろうコレ……と眺めていたらふと彼女の指先が掠めた。その細くて鮮麗された指先には、似合わない絆創膏が全ての指を覆い隠していた。
そこから導き出された答えはとても単純明快で、僕は再び瞳をゆるりと揺らめかせた。
彼女はどちらかというと女性らしい一面はあまり持ち合わせていない。割と大雑把なのだとこの10ヶ月のうちに知りえた彼女の情報だ。なのに、それなのに……僕のために。
顔を上げれば頬をかりかりと掻く彼女の姿が映し出される。そういえば、この10ヶ月が過ぎればもう彼女とは気軽に会えないんだったと、ここで思い出してしまった。それが更に僕の胸を締め付けた。



「…ますか」
『?』
「また……逢えますかっ?」



このままお別れなんてあんまりだ。まだまだ彼女から学びたいことだってある。話したいことだってあるんだ。僕はまだあなたと……!



『待ってます』



僕の頭上に降り注いだ声は、まるで星の欠片のようで。緩やかに降り積もって、僕の心を軽減させた。
思わず顔を上げて、視界一面に彼女を映し出せばそこには大人の女性なのだと思い知らされるような、美笑を携えた彼女が居た。
だから僕は歯を食いしばって、歳相応に、こんなことしか言えなかった。



「いってきます……!」



荷物を背に走り出した一歩は、重くて実に軽かった。
僕はただ前を向いて走り出せばいい。それしか今の僕に出来ることはないんだ―――!



「ひやひやしたよ」
『何故です?』
「君は緑谷少年を気に入っているから…阻止してしまうんじゃないかと」
『そんな無粋なことしませんよ』
「邪神くん」
『まだ、裏切りないので大丈夫ですよ。まだ……ね』



歪んだ表情を覗かせて、彼女が嘲る。そんな彼女の謎多き部分を知っているオールマイトは「仕方がない子だよ」とぼやくだけで留まるが、僕は知らない。背を向けて雄英の受験に挑む僕は、このことを知らない―――。



◆◆◆




実技試験。
敵を想定させたギミックを破壊し、わかりやすくポイント加算制という試験は既に采配を投げられていた。
モニタールームで壁際に立ったままつまらなそうに欠伸をひとつ設けている禄の横には、相澤が居た。



「お前がこの件について引き受けるとは思ってなかった」
『……何故です?』
「破滅させるだけの行為に何の利益があるんだ」
『合理性に欠ける、ということですか? でも御宅等からすれば一網打尽じゃないですか。これ合理性っていいませんかね』



おどけるように飄々と振舞う禄に相澤は眉根を顰めた。
何を考えているのか読めない、故に誰も彼女の本心を捉えることなど出来ないのだと思ってしまう。



「お前、案外生きづらい性分をしてるんだな」
『いたいけな少女を捕まえて酷い言い草ですね』
「慰めてやってんだろうが」
『うわー、くそいらねぇ。のしつけて返すわ』
「お前、口調」
『あ、やべ』



慌てて口元に手を置き「えへ」と笑う彼女は、美しいベールを被るのに長けていた。
それを横目に鼻から息を噴出しながら、壁にゆったりと背をつけた相澤。



「得だよな。その外面」
『髭そればいいんじゃないですか』
「……芸能なんてハリボテの世界だ」



相澤の視線が禄の胸元へ注がれる。そこはDivaのときは在る柔らかな膨らみが現在は萎んでいる。その視線に不気味な笑みを浮かべて彼女が相澤の鳩尾を拳で殴ったのは言うまでもない。女性の力だと侮っていると痛い目に合う。何故なら腹部から鈍い音が鳴り響いたからだ。
膝から崩れ落ちる相澤を横目に口笛を吹きながらモニターへ視線を投げる禄に「女じゃねえ」と呟いた。



『慎ましい、んですよ』
「いいかた、変えたって、ないことはないっ」
『また食べたいんですか? 食欲旺盛っスね』
「もうお腹一杯デス」



再び拳という名の凶器を片手に振り上げた彼女を片手で制して、互いに再び壁に背を預けてモニターを視聴した。



『あ、出久くん』
「ああ、お前のお気に入りの奴な」
『かっこいいですよ』
「そうか。ご愁傷様」



モニターに映し出された緑谷の姿を見つけるとその画面を食い入るように見つめている禄。誰もが皆口を揃えて言う台詞を彼女が全く気がついていなかった。
緑谷の映し出されたモニターを相澤も見上げた。大型ギミックに向って飛び出している場面で、得にもならないそのギミックを同じ受験者である少女を助けるために自らを犠牲にする自己犠牲精神で殴り飛ばした彼の雄姿にご満悦な様子で憂い憂いと鼻歌を奏でだす禄を横目に、相澤はもう何度目かの溜息を溢していた。



『そういえば……名前なんでしたっけ?』
「……お前知らずに喋ってたのかよ」



相澤はこの先こいつとやっていけるのかを合理的に天秤にかけ推し量っていた。



◆◆◆




僕は実技試験を0Pで絶望していた。
けれど、実技試験の裏では英雄が持ち合わせている精神のひとつを試してみていたのだ。これによって僕が行った行為が採点式に加算され見事に合格通知をこの手にすることとなった。
これも全てオールマイトと禄さんのおかげだと思えば思うほど、オールマイトの隣にいつも居た禄の面影を探してしまう。もう、これ無意識だ……。

入学して、そしてヒーローになる一歩を踏み出して、何年掛かるかわからないけど、それでも彼女の目の前に立てる自分になりたい。それまで待たせてしまうかもしれないけれど、待っていてくれると彼女は言ってくれたんだ。僕は必ずこの手にするまで、前だけを見て走り続ける。そう誓うように4月の桜舞う季節を、雄英の門をくぐる所からスタートした。

ヒーロー科はふたクラスしかない上に20人の計40人しか在籍していない。
だから毎年入試の倍率が可笑しな数字を叩き出しているのだと頷ける。僕の割り当てられたクラスはA組だ。新鮮味溢れる廊下を視線をあちらこちらへ見渡しながら、目的のA組まで到達する。
かっちゃんと同じクラスではないことを祈りながら、教室の扉を開くがその願いはすぐに打ち砕かれたことを把握した。

か、かっちゃんと飯田くん―――!?しかも早速争いごとを始めている!

圧倒的すぎて気おされていると後ろから声をかけられて振り返ると、そこには良い人が居た。彼女と同じクラスだなんて!と再び歓喜すると、柔らかな声が届いた。
そう、この10ヶ月間常に聴いていたあの声がした―――。



『待ってましたよ』



声の発する方へ勢いよく向けば、廊下に立っていた。雄英の制服に身を包み、白髪の髪をサイドに編みこみで束ね、特徴的な碧眼を持つ優美な少女が立っていた。
その姿は紛れもない、禄さんの真なる姿だった。僕は口元を抑え込み、記憶を振り返った。

何故彼女がここに居るんだ。夢なのか?まだ僕は夢の半ばにいるのか。

でもそれらを全て否定するような、振り返れば彼女の発言の意図をすべて理解した。
10ヶ月前に言った彼女の台詞。そして10ヶ月後に言った彼女の台詞はすべてこのときのために繋がっていたことに、僕は、情けなくも目尻に滴がたまりかけた。
そんな僕に禄さんはやっぱり悪戯を成功させた幼子のように笑っていた。



『おめでとうございます。今度は、一緒ですよ』
「う……うんっ」



僕はくしゃりと歪にも笑い返した。
良い人は訳がわからないながらも「よかったね」と繰り返す。飯田くんも同様。解らないながらも歓迎していた。周囲の注目を集めながら、僕は禄さんの手を握って離さなかった。

そんな僕たちの姿を鋭い視線で見つめるかっちゃんが居たことを、僕はまだ知らないままだった。



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