鼓動

「ま、まあ、座るか?」
「は、はい…」


まださんさんとお天道様の光が降り注ぐ昼間。ちょうどよい木陰に私たちは腰を下ろした。ちなみに立花先輩と七松先輩はすでにどこかへ消えている。気配もなしに消えるものだから私は全然気がつかなくて声をあげて驚いてしまった。でもさすが、食満先輩は気がついていたようで、なんだか怒っているようだった。……申し訳なくなってくる。急に私なんかに来られても、困るだろうに。


「今日は色の授業なのか?」
「は、はいっ…あ!いえ、その……」


はい。って、思わず言ってしまったけど、これ、一応授業だって言っちゃ駄目だったんだ。ああやってしまった。いやでも七松先輩にもバレてしまっているし六年生にもなればそりゃあ一目でわかるだろう。先輩なんて「授業だって分かっててもね、いい女だったらどうでもいいと思えちゃうものよ男なんて」と言っていたことだし。…それは善法寺先輩も論外ではないのだろうか。


「言っちゃまずかったか」
「いや、私が肯定したのが……」


まずかった。きっと大きく減点されてしまったことだろう。シナ先生、めざといから。いや、その、誉め言葉ですシナ先生。ため息をつけば横から謝罪の言葉。う、と息が詰まった。


「食満先輩が あ、謝ることでは!す、すすすみませんごめんなさい!」
「…お前もよく謝るな」


心配しなくても俺は怒鳴ったりしねぇぞ。優しく、だけど困ったように笑った。そんな食満先輩を見たらついついまた謝ってしまって、今度はじとりと怖い視線。いや、まじでさっきのはあの、なんていうかすみませ、あ、また謝ってしまった。


「…まあ、いい。それは作法がやったのか?」
「そ、それ…?あ、あ、はい。そうです。な、七松先輩に、酷いって言われて、しまっ、て…。私、お化粧もろくにできないから……」
「んなもんこれから覚えていけばいいさ」
「…そう、なんですけど…。はい、」


練習はしてきたし、今回は大丈夫って私なりに自信はあった。のに、やっぱ駄目だなあ、私。これからなんてすごく果てしない気がして、どういう反応をしていいか分かんなくなってつい、俯いてしまった。下を見ると自分の頼りなさげな手が見えて、ぎゅっとその手を震えるほど握りしめた。


「苗字のことだから頑張ったんだろうけどな!」
「ぐぅっ!」


痛い、よりもビックリして、一瞬景色が真っ白になった気がした。ドカンと突然背中に激しい衝撃が襲いかかってきて、その威力は結構凄まじくて耐えきれず私は前に倒れこんでしまった。背中がじんじんしてとても痛い。「いた、いたい、」情けない声で呟くように嘆いていると「わ、悪いそんなに強くしたつもりはなかったんだ!」と食満先輩の慌てた声が聞こえた。どうやら背中を攻撃したのは食満先輩のようで、私なんかにいっぱい謝ってくれている。これ以上そんなことを言わせたくなくて、すごく痛いけど、すごく痛いのを我慢して、私は必死に笑顔を作った。食満先輩が悪いんじゃないんです。私が弱いだけなんです。


「保健室行くか?」
「平気でしっ、ですよ!」


噛んだ。焦った拍子に噛んだ。私はどこまでカッコ悪いんだよちくしょう。わ、笑われちゃうかな。恥ずかしくなってきて、顔が赤くなってきているのがわかってまた私は下を向いた。しばらくなんともいえない空気が流れて、それに少し心臓も騒ぎ始めた。笑うなら早く笑ってほしいものだ。だけどそんな声はいっこうに聞こえない。


「お前は偉いな」
「へ」


いっこうに聞こえない。かと思ったらまさかの言葉。頭にふわりと何かが乗った。ほどほどに騒いでいた心臓が、ドクドクとあり得ないくらい脈打つ。いや、だってそんな、い、いきなりこれはないと思います。私の頭に乗っているのは、食満先輩の大きな手。ちょっと、息がしにくくなってきた。


「だけどちょっと我慢しすぎだ」
「そ、そんなことはな、ない、です、よ」
「……だから」


顔に出てるんだよ。グッと頭を押さえられたかと思えば、隣に座っていた食満先輩が立ち上がった。そしたら先輩がこちらを振り返って私の手をとる。「ほら、保健室行くぞ」叩かれた背中は未だに痛い。だけどそれが全然気にならないくらい、食満先輩の手が、熱いと思った。じわりと、汗が滲む。それはどっちの汗なのかは分からなくて、私は黙って、頷くことしかできなかった。


「苗字」
「は、はい」
「来てくれてありがとうな」
「え…?は、は…、い……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑じゃねえよ」


優しい笑顔だった。私が人と接するのがすごく苦手なせいなのだけど、こんなに、こんな風に私に接してくれる人は少なくて、照れるというか、気恥ずかしい、慣れてない。食満先輩は確かに怖いよ。好戦的で強くて、気も荒いというか、熱いというか。そう、怖い。怖いんだけど、


「ほら、俺は屋根の修理があるから」
「あ、ありがとうございました」


保健室について、私は深々と頭を下げる。見えないけれど、食満先輩が微笑んだ気がした。また頭をぽんと叩かれて、「またな」と、私から遠ざかっていく足音。頭を上げると食満先輩の背中が見えて、私は見えなくなるまでその背中を眺めていた。


「あ、やっぱり名前だ」
「善法寺、先輩……、」


保健室から出てきたのは善法寺先輩だった。ゆっくり振り返ると私の顔を見た先輩が少し目を丸くして、それで何かを悟ったみたいに、どこか嬉しそうに口をゆるめた。「お入り」言われたままに保健室に入り、ぱたりと襖を閉める。いつもはこのまま薬品箪笥の前にでも座るのだけど、私は石化したみたいに、そこから動けなかった。


「留三郎、いいやつだろ?」
「……はい」


本当に、心臓に悪いくらいにいい人だと思います。



鼓動

「暑い?まだ顔赤いよ」
「うっ、い、いえ……」back