暗雲

あれから一週間近く経ったけど、あの子が片付けを"手伝って"くれているのもあって食満先輩とは、会ってない。鍛練もしているけどあの日みたいに食満先輩が来ることもないし、鍛練の成果は相変わらず出なかった。善法寺先輩には最近無理をしてないかと心配されてしまった。自分ではそんな自覚がないから、なんとも言えなかったけど。
実家から手紙が届いた。
忍術学園に入学する際に、親の反対を押し切って出てきた実家。こうやって何度か手紙を送ってきてはくれたけど、ちゃんと読んで返事を返した時もあれば読まずに捨てた時もあった。
私はこの四年、実家にも三回ほどしか帰ってない。だってこんな落ちこぼれが、どの面下げて帰ればいいか分かんないんだ。せっかく学費を出してくれてるのに、お礼も言ってない。親孝行もしてない。結果も出せていない。それでも、手紙にはいつでも帰っておいでとお決まりのように書かれていた。
放課後、私は木の下で座って手紙を読み終えるとその手紙をぐしゃりと丸めて、懐に入れた。


「…退学、か」


反対を押し切ってでも入りたかった忍術学園。希望と期待を胸いっぱいに入学した。なのに、なのに、今はどうなんだろう。私にとって、忍術学園ってなんなんだろう。


「退学ねえ…」
「退学するのか?」
「え?ッギャアアア!」


独り言に、返事が返ってきた。しかもそれは頭上から。木からガサガサと葉や枝を揺らしながら影が目の前にドサリと落ちてくる。予期せぬ出来事に思わず絶叫。
て、こんなこと前にもあった気がする。私の勘違いか?「ははは!おーい、名前。大丈夫か?」いや、勘違いじゃない絶対。落ちてきた人物、七松先輩の笑顔はとてもまぶしかった。


「久しぶりだな!」
「は、はい!」


たかが7日ほどぶり、私にとっては久しぶりじゃない。もう少し日にちが空いてくれてもよかったと思うだって七松先輩、すごく、すごく心臓に悪いんだもん。
と思っていたらどかりと七松先輩が私の隣に座ってきた。心臓が跳ねるどころかぎゅって縮みあがった気がした。え、いやちょっと待ってくださいなんでここに座るんですかもしかして、退けっていう意味ですか!こんなときほどよく働く私の脳は一刻も早くここから去りたいと駄々をこねている。その我が儘に忠実に私はそのまま自然に去ろうとした。…んだけどガシリ、と腕を掴まれそのまま引っ張られてしまい、ひ!と思わず声が出た。立ち上がれない。関節外れるかと思った。怖がってるって知っててやってる?「少し話くらいしよう!」と楽しそうに笑う七松先輩を見て、私がそんなのを断れるわけがない。それはきっと、いかなる状態でも。


「そっかー。名前は退学するのか」
「い、いえ、まだ決まっ…た、わけ、じゃ、」
「くのたまだったら辞めるのは今だな。色の授業もまだそこそこだしな!」
「…は、い」


辞めるのは今。そうだ、だってこれからはくノ一として必要な、色の授業が本格的なものになってくる。男の人と寝たりしなきゃいけないんだ。私は別に行儀見習いじゃないもの。…そっか、ここで退学すれば、そんなことはしなくていい。退学すれば、こんなこと考えなくてもいいんだ。
でも、でもそれでいいの?って思う自分だっているの。この四年間を私は台無しにしてしまうの?そりゃあ、役に立つ授業だってあるけれど、ここをやめたら、じゃあ私には何が残るの?
わからない。わからないよ。どうすればいいのか、どうしたいのか、どうするべきなのか。私には難しすぎる問題だ。


「じゃあ留三郎も安心だな!」
「…え?」
「だって名前を寝取られる心配がないだろ?」


寝取られるって。七松先輩は何を言っているんだろう。食満先輩が安心?なぜ?それは、私が学園からいなくなるから?寝取られる心配がないって、どういう意味。
だから、私はそんなに鈍いわけじゃない。そんな言葉を聞いたら自意識だって過剰になる。もし安心というのが食満先輩が私に会わなくて済むっていう意味なら、私はそれを受け止める。慣れっこだ。でもそうじゃないなら、本当に、そんな、有り得ないようなことが理由なら、私は、私は、


「留三郎は名前のことが」
「わわわわ私!失礼します!!」


それ以上の言葉を聞くには多分、きっと頭の中を全部からっぽにしなきゃならない。きっとそれは私にとって、それほどのこと。
勢いよく立ち上がると私は普段からは考えられない速さでその場を立ち去った。心臓がうるさいのは走ってるせいだ。顔が熱いのは動いてるせいだ。そう言い聞かせて言い聞かせて。無我夢中で走っていると、突然、地面が崩れた。
あ、またやってしまった。


「ったぁ!」


もう何回目になるか分からない落とし穴への転落。しかも足を挫いてしまった。なんて不運。しかもまた人気のない場所に掘ったもんだな綾部くんは。ズキズキと痛む足をさすりながら、空を見上げた。ああ、それで天気が危ういときた。本当に、不運だ。
最近は鍛練もしてるから苦無は持ってるけど足が痛くて上手く登れない。しばらく挑戦してたら挫いた足がパンパンに腫れてしまった。え、折れてない、よね?
人は来なくて、気配もなくて、しばらく何もできないまま膝を抱えていた。今日は委員会はないし、この間のように焦る必要もないんだけど、はあとため息。せめて自分が掘った穴くらい確認するとか、そういうの頼むよ綾部くん。落ちこぼれのくせに生意気だとか言われそうだけどさ。まあどうせそんなこと言えやしないんだけど。
ポツリポツリと水滴が、私の肌に落ちてきた。ああ、やばい。雨だ。真っ黒な空は惜しげもなく水を降り注ぐ。最初は徐々に、でも次第に強く、しばらく経つと周りがその音でかき消されるくらいになっていて、濡れてないところなんて無くなってしまった私は寒さでこれでもかというくらい小さく蹲った。
何もない。本当に、ここには何もない。
ひとりぼっちの空間。
顔もびしゃびしゃで、自分でも泣いているのかどうかは分からなかった。でも泣いている気がする。だって鼻がつまってきた。寒さのせいかもしれないけど。誰か助けて。足が痛いの。もう地面も泥になってて苦無も上手く刺さらない。誰か、誰か。
「また泣くの?泣いてどうなるの?誰も助けてなんかくれないのに」
あの子に言われた言葉が、私を酷く貪欲にさせた。


「…食満、せ、んぱ……っ」


今日は助けてくれないんですか。来るはずのない人の名前を、私は呼び続ける。



暗雲
所詮はただの自惚れなのですback