Wednesday

悪魔の囁き。それは甘い甘い誘惑。蛇が優しくそそのかす。こっちへおいで。こっちへおいで。何も知らない私は蛇の甘言に騙されてふらふらと禁断の道を一歩、また一歩と進んでいく。蛇が嘲笑う。私はそれに気付かない。幻想と現実の境で、私の目に映るのは真っ暗な闇だけ。私の姿すら闇に消えて見えなくなってしまえば、もう最後。

泣き叫ぶ、私の声が聞こえた。




水曜日




「はい。もう結構ですよ」
「ありがとう。雪男くん」


捲っていた服の裾をおろし、苗字さんはにこりと笑った。今日は苗字さんの週に一回ある予防注射の日で、魔障を受けて間もない苗字さんはまだ精神的に安定してるとは言い切れなくて、そういった心の隙間に悪魔につけこまれないようにこうして週に一度、注射をうつことになっている。そういえば、ここのところ苗字さんとは毎日会っている。今日は仕方ないとして昨日も一昨日も塾とか学校に乗り込んできたし。この人も本当往生際が悪いというか、しつこいというか、いい捉え方をすると一途で健気というか。心臓に悪いよ。…色んな意味で。今だって僕の名前を呼びながら寄りかかってくる。うまい具合に腕に胸が当たるのはきっと彼女の計算で。僕を一体なんだと思ってるんだと大きくため息をつきたくなった。ああ、柔らかいな、くそ。


「苗字さん。僕これから授業なんですが」
「一緒に行ってもいい?」
「ダメです」


ダメに決まってるだろ。いやいやと首を振って腕にしがみつかれても困る。ていうか絶対わざとやってるでしょ。まさに ベリッ ていう感じで引き剥がせば泣き声というか、鳴き声みたいな声を出して呻き始めた。本当、成人女性とは思えない。


「うぅぅ…ぐぅぅ…」
「そんな声出しても可愛くないですよ」
「大丈夫。可愛さは雪男くんでカバーできるから」
「意味が分かりません」


雪男くんが可愛いって意味だよ。って、だから全然褒めてない。どうせ言われるならかっこいいの方がいい。そりゃあ苗字さんの年代の人から見たら僕はまだまだ可愛いものかもしれないけど。それが顔に出てたのか、苗字さんは僕の顔を見て笑いだした。そんなに嫌なこと言った?なんて、僕は顔を隠すように眼鏡をあげると、小さく否定の言葉を口にした。嫌というか、気に入らないというか。とにかく不快なのは確かだ。そしたらまた苗字さんがピタリと寄り添う。視線をそちらへ持っていけば苗字さんと目があって、なんだかすごく恥ずかしくてすぐに目をそらしてしまった。


「雪男くん」
「…。」
「雪男くーん」
「…なんですか」
「うそ」
「……は?」
「雪男くんがいたら、私は可愛くなれる。って意味」


いつの間にか、苗字さんの顔が目の前にあった。ふに、と柔らかいものが唇にあたる。だけどそうかと思えばそれはすぐに離れていって、控えめに花の香りがしてクラクラしそうになった。苗字さんの顔はまだすぐそこにあって、「恋する女はきれいって言うしね」なんて、いたずらが成功した時の子どものような笑顔で言われた。本当にこの人はずるい。本当に、ずるいと思う。


「顔、真っ赤だね」
「誰の…せいですか…っ」
「雪男くんのせいよ」
「なんで僕…」


お姉さんを誘惑するからいけないの。そう言って、また口を塞がれた。今度は触れるだけのそれじゃなくて、吸われるようなそれ。官能的なものではないけれど苗字さんは妙に艶やかで、ああ、僕はこの人を誘惑してしまったのか。ならこれは僕のせいかもしれないなんて思ってしまって、洗脳されてる気分になったけど、不思議と嫌ではなかった。何度も何度も可愛らしいキスをされて、焦らされてるようで、それでも蕩けてしまいそうで、苗字さんの向こうに見える時計を目に入れながら、あと少し、あともう少しと自分を甘やかした。



(タイムリミット)



気づかなかっただけ。夜中に窓がガタガタと音を立てるのは風のせいだと思ってた。でも違う。窓を叩いているのは悪魔だ。外がざわめいているのは風や木が揺れる音だと思っていた。でも違う。それは悪魔の囁きだった。ずっと私を呼んでいた。ずっと私は呼ばれていた。怖い。だってほら、もうすぐそこにいる。裾を引っ張られて、一緒に行こうよって言われてる。ねえお願い。お願いだから、ずっと手を繋いでいて。じゃないと私、連れていかれちゃうわ。back