Thursday

「私も祓魔師になろっかな」


突然、苗字さんがそんなことを呟いた。それは口に出すなんて到底できないようなそれがあった翌日のこと。あの時間が脳裏に焼き付いて離れてくれなくて、僕は夜ろくに眠れなかったというのにも関わらず苗字さんはいつものようにどこからともなく僕の前に現れた。昨日のことがまるで嘘だったかのようにいつも通りだった。なんかそれが少し拍子抜けしたというか、いつまでも気になっているのは僕だけなんだろうか。それともそこは苗字さんがもうれっきとした大人だからか、劣等感というか、少し悔しくなった。
それはさておき、冒頭に戻る。僕たちは暗い塾の廊下の、冷たい床に座っていた。しばらく苗字さんが他愛ない話をしてくれていて、そしたら突然、その言葉を言われた。いつも通りなはずの苗字さんが、僕に寄りかかりながら「ねえ」と僕に返事を求めてくる。だけど僕の思考は一時停止していたために、それがすぐにはできなくて、なにかを喋ろうとはしたけど「は、」と声のような、息のような、そんな音しか出すことができなかった。


「どう思う?」
「ど、うって…言われましても…。なぜいきなり」
「…んー、なんでかな」


いつも通りだと思っていたけど、どうやらそれは違っていたようで、苗字さんは苦笑いのような笑みを浮かべた。膝をかかえた苗字さんが、妙に小さくて弱々しく見えてしまう。何かあったんですか。そう聞こうとして、やめた。これは僕なりの優しさのつもりだったけど、苗字さんにとってはどうだっただろう。他に言葉はないだろうか。探す時間が、やたらと長く感じた。


「苗字さん」
「はーい」
「生半可な気持ちでは自滅をしてしまいます。だから、もし本当に祓魔師になりたいと思うなら、」


よく、考えてくださいね。
教師らしい言葉だと思った。苗字さんも、「さすが、奥村先生」なんて、笑った。だけどその笑顔がなぜか寂しそうなものに見えてしまって、何か言葉を間違っただろうか。不安になった。苗字さん、消えるような声で名前を呼ぶと、彼女はちゃんと返事をしてくれた。


「今日は寒いですね…」
「雪男くん、そんなコート着てるのに」
「はは、確かに」


僕はいつも厚いコートを着ているから。事実、僕自身はそれほど寒いわけじゃない。だけどひんやりとした空気が頬をかすめるから、寒いとは感じる。寒くないですか?僕より薄着な彼女に、そう聞いた。苗字さんはへらりと笑いながら、僕の問いには答えもせずに、僕の手に、僕よりも一回り小さく華奢な手を重ねてきた。冷え性なのかその手はすごく冷たくて、少し、驚いた。


「寒いなら言ってくれればよかったのに…」
「雪男くんといたらそんなの忘れちゃうんですぅ」
「…風邪を引かれては困ります」


呆れた。そんな顔をして、僕はコートを脱いだ。重たいコートを苗字さんにかけると、彼女のぱっちりとした目がさらに大きく開かれる。だけどすぐにふにゃりと破顔して、やっぱり寒かったのだろう、体をさらに小さくさせてから僕のコートを手繰り寄せた。それで「あったかいね」そう言って可愛らしい笑顔を見せて、僕の肩に頭をのせた。その頭の重さを、首をくすぐる柔らかい髪の毛の感触を、ほのかに香る花の香りをもっと感じていたい。無意識のうちに僕の肩にある彼女の頭に、僕の頭を重ねていた。「雪男くん、寒いの?」なんて、あなたはきっと分かっているんだろうに。


「寒いのも悪くはないですよ」
「えへへ。私も、そう」


それを理由に、あなたと寄り添っていられるのだから。



木曜日



「雪男くん」


そろそろ、帰りましょうか。私たちも帰らないわけにはいかないから、そうやって立ち上がった。雪男くんに借りたコートを返すとさっきまで暖かかったはずなのに、急に寒くなった気がした。このままじゃ風邪を引いてしまうかも。私だって雪男くんに風邪なんて引いてもらいたくはないから、また明日なんて言葉を交わして、私たちは魔法の鍵を使って早々に家に帰ることにした。ドアを開けるとそこはもう私の部屋だった。真っ暗で、何もない部屋。いつものこと、いつものことなのに、すぐそこに雪男くんがまだいるんだと思うとつい私は雪男くんを呼び止めてしまった。「なんですか?」と、優しい声が、胸をちくりと刺した。


「あ――…なんでもない。おやすみ」
「…?おやすみなさい」


やっぱり今日も言えなかった。部屋に入ってドアを閉めるともう雪男くんのいる場所とは程遠い。ケラケラと風が笑っている。カタカタと窓を叩いている。ああ、うるさい、うるさいのよ。


「…雪男くん、」


ねえ、雪男くん。
もしも私が悪魔になっちゃったら、あなたはどうしますか?back