Friday

好きな子がいる。その子は年下の男の子。でも年下なんて思えないくらいに大人で、しっかりした子。私は彼に助けられ、恋をした。友達は高校生なんて有り得ないなんて言う。私も自分の年を考えたら少しそう思う。だけど気にならないくらいにその子は魅力的で、可愛くて、かっこよくて、優しくて。気がつくと追いかけ回しちゃって。でも、でもね、雪男くんはどうなんだろう。雪男くんから見たら私なんかおばさんかもしれないし、雪男くんだって同世代の女の子と、いかにも、な恋愛がしたいじゃないのかな。

『その通り。奥村雪男は君を必要とはしていないよ。ほら見てみなさい』

視線の先には雪男くんが。女の子と楽しそうに肩を並べてお話をしている。着物を着た女の子。可愛らしい、きっと雪男くんと同じ年の女の子。まるで初々しい恋人たちのようで、お似合いで、羨ましくて、服の裾をキュッと握りしめた。

『君はもっと他のものを選ぶべきだ。そうら、私と一緒にまた違う世界を見てみないか?』

ああ今日も風がうるさいな。夜風の誘いから逃げるように布団に潜り込む。それでも風は私に語りかけるの。こっちへ来い。私を選べ。楽しい時間が待っているよ。




金曜日




今日は苗字さんは来ないんだろうか。
そうぼんやり考える自分に気が付いて、恥ずかしくなってすぐに脳内から消した。いつもならこの時間になるとどこからともなくやって来るんだけど、今日はまだ、あの人の姿を見ていない。だけどこういったことは別に珍しくともなんともなく、来ないと思ったら塾終了後にひょっこり現れたりしたりするから今日もそうなのだろう。なんて、苗字さんが来るのは自分の中では当たり前のようになっていて、しかもそれは自分の希望も含まれているような気がして、少し頭が痛くなった。にこにこと子どものように笑う苗字さんは僕の名前を呼びながら嬉しそうに駆け寄ってくる。それで僕はまた来たのか、と呆れるんだ。それはもう、日常茶飯事。昨日もそうだったのだから、今日もそうだし明日もそうなんだ。ここ最近、毎日の光景。


「雪ちゃん?」
「あ――…すみません、少しぼうっと…」


隣にいたしえみさんが、心配そうに顔を覗く。らしくないな。僕は眼鏡をあげると、少しだけ長い瞬きをした。具合が悪いのかと聞かれたけれどそういうわけではないので大丈夫だということを伝える。少し苗字さんの姿が見えないだけでこれか。情けなくはある。だけど、気がつくと彼女のことばかり。病気みたいで少し怖くなった。


「雪ちゃん、最近嬉しそうだったから…」
「え?」
「でも今日はなんか上の空というか」
「……。」


あははは、と力なく笑う。もうそんな反応をするしかなかった。しかし、最近嬉しそう、なんて、僕はそんな顔でもしていたんだろうか。態度に出ていたのかもしれない。でもそれが彼女のせいだと思うと、なぜか口元があがる。それをしえみさんに見られてしまって、やっぱり嬉しそう!にっこりと笑顔で言われてしまった。ああ、これならしえみさんがそう思うのも無理はない。
僕は、苗字さんが、苗字さんのことが、好きなのだろう。でもそれをはっきりと認めるのは、まだ怖い。なんせ僕は高校生で、彼女は大学生。年は5つ離れてる。大人になれば気にならない年の差かもしれない。だけど僕はまだ、大人とは言いがたい。彼女は僕を好きだと言うけれど、それも、冗談だなんて言われてしまえばどうするんだ。苗字さんには失礼かもしれない。でもこの差は僕の不安を煽るには十分すぎる。


「…と、すみません」


携帯の、初期設定のままの着信音が鳴った。画面にはフェレス卿の名前が記されていた。しえみさんに了承を得て、電話をとる。調子よく笑う、もう聞きなれてしまった声に自然と眉間に皺が寄った。


『調子はどうですか奥村先生』
「いつも通りですが、なにか」
『いやね、少々気になることがあったものですから』
「…気になること?」


私も驚いたんですけどね。いやあ、驚いた。勿体ぶるメフィストさんに多少イライラするものの、僕は静かに次の言葉を待った。愉快そうに笑っているものだから、そんなに大したことではないと思った。あの名前を、聞くまでは。


『苗字名前さん』
「…苗字さん?」
『彼女、どうやら悪魔落ちしたらしいですよ』


時間が、止まった気がした。
いや、まさか、嘘だろ。電話ごしにメフィストさんが、隣でしえみさんが何かを言っている気がするが耳に入ってこない。苗字さんが、悪魔落ちした。とてもじゃないけれど信じられなくて、でも冗談とも思えなくて、『処分はあなたに一任します。奥村先生』と、メフィストさんのどこか冷たい声が、僕の頭を突き刺したような気がした。

だから嫌なんだ。
あなたはいつも、突然すぎて。


***


「苗字さん」
「あれー?雪男くん。私今行こうとしてたのに、なんか珍しいね!」


はにかんだその笑顔は、いつものまま。あなたの姿。


フェレス卿からの連絡があった後、僕はすぐに苗字さんのところを訪ねた。道中僕はもう気が気でなくて、走っても、走っても、全然進めていない気がした。苗字さんが、悪魔落ちをした。そんなわけがないと、必死で自分に言い聞かせた。それだって言うのに、今僕の前にいるその人は、いつも通りの、あの人で。


「はあ」
「え?なに、何でため息つくの?」


そっちから来といてそれはないでしょ〜。陽気に笑う彼女を見て、もう一度ため息をつきたくなった。ちょっと雪男くん無視しないでよ。と喋らなかった僕に苗字さんが口を尖らせた。ああこんなことなら、早く寮に帰ればよかった。


「上がっていく?梅昆布茶あるよ」
「いえ、お構い無く……てっ!どうしたんですかその手!」


思わず彼女の手を掴んだ。隠していたつもりなのだろうか、左手に大きな痣。赤黒く痛々しいそれは普通の痣ではないと思った。これは魔障…?しかし苗字さんは平然としていて、またへらりと笑う。どこか冷たい空気を帯びているような気がして、なぜかぞわりと鳥肌がたった。じわりと手に汗が滲む。理由はわからない。だけど、嫌な気がしてならない。フェレス卿も、こんなつまらない根も葉もないことは、わざわざ僕に言ってきたりしないだろう。


「…お前は、誰だ?」


確かに、苗字さんは悪魔落ちなんかしていない。しかし、もう一つの可能性が頭をよぎる。その瞬間僕はこの言葉を口にしていた。にまりと苗字さんの口が弧を描く。いつもの苗字さんの表情のはずなのに、今日だけは異様に卑しく見えた。何ヲ言ッテイルノカヨク分カラナイナ。彼女の口から出されたはずの声はどこか機械的で、それでいて狂っているように思える。こいつは苗字さんじゃない。決定的なものは何もなかったけれど、これはもう確信に近い直感だった。


「苗字さんに何をした」
「だから何の話かな」
「その痣は魔障だ。悪魔に憑依された人間に出る拒否反応のようなもの。とぼけても無駄だぞ」
「…さすが、天才と言われるだけあるな」
「!」


一歩、苗字さんから離れた。声色が変わった。どうやら間違いではないらしい。人間に憑依できる悪魔、まだ特定はできていないが中級で間違いはない。くそ、憑依となると下手に威嚇もできない。悪魔落ち、こういうことですかフェレス卿。紛らわしい言い方しやがって。


「苗字さんから出ていけ」
「やだね。居心地がいいんだよ。一体どれだけナンパしたと思ってるんだ?」
「…どういう意味だ」
「お前とこの子が初めて出会った日、あの事件は私が起こしたのさ」
「お前が…?」


僕と苗字さんが初めて出会ったとき、たちの悪い悪魔が暴れて重症者だって出た。それをこいつが?まさか、あの悪魔はその場で祓われてる。


「心に傷を作り、隙を伺っていたんだよ。でもなあ、お前の存在が、邪魔でなあ」
「もっとましな嘘をつけ。あの悪魔は…」
「私があいつを暴れさせたのさ。あいつは腐の眷属、私は地の眷属だからな、ワクチンは効かない」


でも今まで隙がなかったのはお前のせいなんだよ。この子は妄信的にお前を信用してる。怖かったんだろうなあ私のことが。お前に会いに行っているせいで家には中々帰って来ないんだよ。
続けられた言葉に、僕はただ手を握りしめた。そうか、そうだったのか。僕は気がついていなかっただけ。苗字さんはいつも、助けを求めていた。何かを言いたそうにしていたあの時、無理矢理にでも聞けばよかったんだろうか。後悔しても、今さらだ。


「この子はね、お前に笑ってほしくて、お前に名前を呼んでほしくて、お前に抱き締められたくて、キスをされたくて、犯されたくて、ずっと待っていたのさ。笑っちまうくらいにな」


お前のせいだ奥村雪男。
苗字さんの声で、悪魔はそう言った。まるで苗字さんにそう言われたみたいで心臓がぎちりと痛む。ああ、ああそうか僕のせいだ。気がついていれば、こんなことにならずに済んだんだろう。でも一つだけ、一つだけ反論させてくれよ。言ってくれなきゃ、わからないでしょう。


「…その心には悪がある」


悪魔の顔色が変わった。まさか、僕が射祷を知らないとでも思ったのか。殴りかかってくる苗字さんを避けて床に倒し押さえつけた。だんだん力が抜けてきたのか僕の目に映るのは苗字さんの姿ではなく、本来の姿を隠しきれなくなった悪魔の姿だった。それでも所々苗字さんの面影があって、本当に、腹がたつ。


「汝、途に滅びん!」


真っ黒な靄のようなものが、空気中に消えていく。悪魔の断末魔はうんざりするほど聞いてきた。気を失っている苗字さんの体を抱き寄せて彼女の表情をうかがう。青白く、不健康そうで、僕はすぐにベッドまで運んだ。目が覚めたら彼女は覚えてるんだろうか。できれば、忘れていてほしい。


「…僕だって、我慢してるんですよ」


静かに眠る彼女の髪の毛を救う。サラサラで手入れの行き届いている髪の毛はすぐに僕の手から逃げていった。
僕はね、そう簡単に好きな人には手を出せない、臆病者なんです。




――――――――
捏造
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