「30分も早く着いちゃった」
でへへと笑うあなた。そこは「ううん。今来たところ」というベタな優しさを見せるところだと思ったけれど、これはこれで彼女らしくていいなと思った。
日曜日
「すみません仕事が長引いて」
「いいよー。待つの嫌いじゃないから!」
せっかく誘ったのに、自分が約束の時間に遅刻した。言い訳は嘘ではないけど一生こんな言葉を言ってそうだななんて思って少し自分に呆れた。それでも楽しそうに「どこ行く?」と笑う苗字さんを見たらそんな気持ちも失せてしまったけれど。
どこか行きたいところとかあるかと聞けば「雪男くんといれたらどこでいい」なんて、能天気そうな笑顔はとても可愛らしくて、そんなことよく平気でさらって言えるなあと感心さえする。今に始まったことじゃないし嬉しいけど、恥ずかしい。今も苗字さんを直視できずどこを見ていいか分からなくなってしまって視線を泳がしていた。
「…じゃあ、僕に任せてもらってもいいですか?」
ぽかん、と少し驚いたような顔をされて、でもすぐに嬉しそうに頷いてくれた。
ここから歩くには遠いかもしれないけど電車を使えばそうでもないだろう。じゃあ行きましょうか。やや緊張ぎみに手を差し出せば、彼女はすんなりと握ってきてくれた。
「南十字?」
「はい。南十字です」
「私初めてだ〜」
僕が彼女と来たかったところ。僕が育ったところだった。僕も学園に入学してからは一度も帰ってなくて、懐かしい感じもする。
なぜここに来たかったとかは多分理由を聞かれても上手く答えられないけど、なんとなく、苗字さんと一緒にこの場所を歩きたかった。大した理由なんてないし、会わせたい人も、いたし。
苗字さんが僕の手を引く。「あのお店に行ってもいい?」早くも気になる店を見つけたらしく、目敏いなあなんて思わず笑ってしまった。
「ごめんなんか私ばっかり楽しんでるね?」
しばらく買い物をして、少し早めの夕食。席に座った苗字さんが申し訳なさそうにそう言った。うん、まあ、九割くらい苗字さんの買い物に付き合ってる感じだったけど僕は僕なりに楽しめていた。あなたを見てるだけで結構楽しいですよ。なんて言ったら彼女はどんな反応をするだろう。照れる?怒る?笑う?気にはなったけど、言わないことにした。無難にそんなことないですよと言えば不満そうに苗字さんは口を尖らせた。
「まあ、そうならいいけど…、なんでここに来ようと思ったの?」
「ああ…この近くに僕の育った修道院があるんですよ」
「え?雪男くんて修道院で育ったの?」
「はい」
修道院…苗字さんはぽつりと呟く。そう言えばこの話はしたことがなかったかな。今さらになって気がついた。もう言ってるものだと思っていたから。
「エクソシスト…だもんねえ」
「あはは、そうですよ」
「ね、行こう」
「え?」
「修道院!」
ずずずずと音をたてコーヒーを一気に飲み終えると苗字さんは勢いよく立ち上がった。慌てて僕も立ち上がり伝票をすかさず取ってレジに向かってしまった苗字さんを追いかけた。ていうかなんで勝手に伝票持っていくんだよ。しかも行動が急すぎる。僕が払おうと思っていたのに、あーあ、なんて思った頃には会計済みだった。
「どっち?」
「…こっちです」
まあ、結果的にはそっちに行くつもりだったからいいんだけど。方向を指差せば苗字さんはパッと僕の手を取って引っ張る。早く早くと急かされるけどそんなに急いでも修道院は逃げませんよなんて有りがちな台詞を言ってみて、だけど苗字さんはそんな言葉聞いちゃくれなかった。
「はっ、はあ、ここ…?」
「ここですよ」
案の定修道院に着くと苗字さんの息は上がっていた。ほら言わんこっちゃない。入りますか?その問いに苗字さんは額にうっすら汗を浮かべながらでもにっこりと笑って頷いた。と言っても礼拝堂くらいしか入れてあげられないのだけど。一応、男子修道院だし。それに、特に見せるものもないし。
「ここで雪男くんと燐くんが育ったんだ」
「はい。色々あったけど…共同生活だったんでわりと楽しかったです」
「へえ〜…」
「…あの、苗字さん」
「ん?」
僕がこの人と来たかった場所はこの近くにある。そこは景色がきれいな場所でもないし雰囲気のいい場所でもないしムードとかいうやつだって、全然ない。でも来たかった。だからここに来たんだけど、「すぐそこに、父の墓があるんです」その言葉を言ってしまったら、苗字さんはどんな反応をするだろうか。墓だもんな。いやかもしれないし、引かれるかもしれないし、その一言を言うのに、少し躊躇った。だけど苗字さんはその一言を待ってくれている。まあ、きっとこの人のことだから、心配はないと、思う、けど。
「あの、」
「うん」
「父の墓が、あるんです」
「お父さん?」
「はい。ここの神父だったんですが、その…」
続く言葉を言いかけたときだった。苗字さんが僕の手を握る。それに少し驚いて言葉を失った。「よし、行こう!」苗字さんのいつもの、屈託のない、あの笑顔。ああ多分この人は僕の望む言葉をなんでも知ってるんだろうなあなんて思った。なんでか分からないけど、ちょっと泣きそうになった。本当に、なんでか分からないけど。
「…苗字さん、」
「んー?なあに?」
「…、好きです」
ぴたりと、苗字さんの足が止まった。まるで僕が連れていかれるみたいに手を引かれていたからぶつかりそうになってしまったけど、なんとか踏みとどまった。い、いきなりで驚いてしまっただろうか。こんな移動中にいう言葉ではなかっただろうか。不安になった。苗字さんの顔が、見えない分。
「あ、の…」
「……。」
「苗字さん…?」
「うっ、ゆ、ゆき、お、く、」
心配になって顔を覗いてみると苗字さんはボロボロと涙を流しながら、必死に嗚咽を堪えていた。その姿が、もう本当に愛しくて、そうしなきゃいけない気がして、そうしたくて、僕は苗字さんを抱き締めた。幸いだったのは周りに人がいないことだった。
苗字さんは何かを伝えようとしていたけど、泣いてるせいで半分も聞き取れない。僕はただその小さな背中をさすって彼女が落ち着くのを待つ。そんなことを言いながら僕の心臓だってすごくドクドクいってて、多分聞こえてるんだろうなって恥ずかしくなった。
「ゆき、お、くんっ」
「はい」
「わ、たし、も、す、きだ、よ」
一生懸命紡がれたこの言葉はとても簡単で短いものだったけれど、僕にとったら十分すぎるくらいのものだった。「知ってますよ」いつものようにそう返事をして、苗字さんの体を苦しくない程度に、もっと抱き寄せた。
「こんな年下でよければ、僕と付き合ってください」
うん、うんと何度も頷いてくれた。あなたと出会ったのはちょうど春を迎えようとしている頃だった。それから結構経ったものだなと、苗字さんの向こうに見える桜の蕾をみながら、静かにそう思った。
雪融ける
一週間
それは春の始まり
「息子さんをいただいちゃいますね〜」
「立場が逆ですよ」
「でも挨拶しておかないと」
「そんな目を真っ赤に腫らした顔で…」
「それ禁句」
「名前さん」
「はいはい」
「…名前呼びに少し反応してくれてもいいんじゃないですか?」
「お姉さんを侮っちゃだめですよ」
「そんな顔で言われても」
「だから禁句だってば」
「よく考えたらこの年の差は犯罪ですよね」
「それもっと禁句でしょ」
「ま、いいか」
好きなんだしね。back