06



穏やかな時間が流れる昼下がり。
街中にあるカフェのオープンテラス席に、ナマエは居た。


頼んだ珈琲が届くまでの間、鞄から取り出した小説を開く。
拠点にしている書店には当時売り物だった本がそのまま置いてある為、暇を持て余した時に読む本が山ほどある。今読んでいる本もその中の一冊だった。



「ポートマフィアと武装探偵社がやり合ったそうだが」



真後ろの席に座る男が、自身の膝の上に置かれたノートパソコンを操作しながらナマエに声を掛ける。
ナマエもまた、後ろを振り返る事は無く手元の小説に目を向けたまま答えた。



「武装探偵社の人間が闇市に賭けられたらしいわ」
「ほう、何者だね」
「虎に変身出来る異能力者よ。ただし、現段階では能力を制御しきれないようだけど」
「…只の異能力者の為にポートマフィアが動く理由が何かあると?」
「賭けられた金額は七十億。異能力の他にどんな秘密があるかまだ調査中だけれど、裏社会の組織が動くには十分な理由じゃないかしら」



ページをめくりながら、ナマエは続ける。



「他に動いている組織がいくつか。事の詳細のデータと、依頼内容の情報は其処のUSBに」
「仕事が早くて助かるよ。報酬は何時もの口座に振り込んでおこう」



ナマエの言葉を聞き、男は慣れた様子でテーブルの裏面に貼り付けられたUSBを手に取る。




「では、また頼むよ」




男が立ち去るのと同時に、ナマエの頼んだ珈琲が運ばれてきた。
小説を置き、カップを手に取る。



「流石、耳が早いねぇ」
「!」



ついさっきまでクライアントの男が座っていた真後ろの席に座っている人物。気配を感じさせずに現れたその男の声を聞き、振り向く事もせずに返事をした。



「覗き見ですか、随分といい趣味をしていますね太宰さん」
「それはお互い様じゃないか。君、あの路地裏に居ただろう?」



太宰の云う路地裏とは先程クライアントに売った情報の事。
あの場では気付かれないよう隠れていたナマエだったが、太宰が自分の存在に気付いていた事に驚きはしなかった。太宰であれば、あの状況下でも自分の存在に気付いていても不思議ではない。そういう男なのである。




「で、何か用ですか?あれだけの騒動の後であれば探偵社も暇では無いと思いますけど」
「後始末は勤勉な国木田君の仕事だからね。私にはもっとやるべき事があるのさ」



都合よく勝手な理由をあっけらかんと話す太宰に、小さく溜息を吐く。
きっとこの男の事だ、面倒な事から逃げてきただけなのだろう。そして、こういう面倒な話し方をする時は決まって相手を自分の都合に巻き込もうとする時である。



「ではこんな所で油を売ってないで、そのやるべき事とやらを済ませたらどうですか?」
「そうだね、ではそうさせて貰うよ」



意外にもすんなり受け入れた太宰に一瞬驚いたナマエだったが、漸く背後の太宰の気配が消えたのを感じて無意識に肩の力を抜いた。
しかしそれはほんの一瞬だけで、消えたはずの気配が目の前に移動している事に気付き、ナマエはゆっくりと顔を上げた。




「華麗なご婦人、私と心中など如何でしょう?」




そう云いながら美しい顔で至極優しく微笑む太宰に、何故か言葉が出なかった。

胸の奥が非道く冷えていくのを感じながら、ナマエは目線を珈琲に向ける。そこに映る自分の表情に気付かないフリをして少し温くなった珈琲に口をつけた。






























「今のこの時間、何と呼ぶか知っているかい?」



あの後、
心中などという突拍子もない誘いをナマエは丁重に断った。しかし太宰はそれならばと、拠点までのエスコートの申し出た。勿論其れも断ったのだが、巧みな話術(やや強引)に根負けし、夕暮れに染まる横浜の街並みを歩いていた。
太宰に口で勝てる人間はそう居ない、それは重々承知していた。数時間前にあのカフェで遭遇した時点で、今のこの状況は既に決まっていたのかもしれない。



「…黄昏時ですか?」



日没直後、夕焼けの名残を残しつつ藍色が広がる空を見つめながら、ナマエは口を開いた。



「そう、闇に染まる前。…私はこの時間の横浜を見るのが好きなんだ」
「横浜の夕暮れ時は探偵社の時間ですからね」
「それだけじゃないさ。夕暮れに染まる美女はより美しく見える」



両手でフレームを作り、その中心にナマエに合わせる。
ほらね、と笑みを浮かべる太宰に呆れたような表情を浮かべる。



「いつもそうやって女性を口説いているんですか?」
「口説かれているという意識があるのなら良かった。私の気持ちは少しは伝わっているようだね」



嫌味を返したつもりが、太宰はさらりと上を行く。

少し冷たくなった風で揺れる髪を撫でながら、赤と藍色の交じる空に目を向けるた。




「…黄昏時に他の呼び方があるのをご存じですか」




"逢魔が時"




「魔に逢う時間。昔、夕方のうす暗くなった時に大きな災禍に出くわすと信じられていたそうです。其れを警戒する為に"夕暮れは魔物や怪異が出る不吉な時間"と呼ばれているんです」



歩みを止め、太宰に向き合う。



「正に貴方にぴったりな言葉ですよね」



太宰の反応を待たずに言葉を続ける。



「夕暮れの横浜を統べる探偵社」

「そんな貴方が、私は、怖い」



変わらず笑みを浮かべる太宰の表情から、感情は読み取れない。

そう、まるで_______




「…まるで、魔物のようで」




ナマエの言葉は風に吸い込まれ、二人の間を吹き抜ける。

空の藍色が濃くなり、街灯が灯り始めた横浜は闇に包まれ始めた。あと少しで夜が始まる。
そろそろ帰らなくては、とナマエは再び口を開いた。



「もう此処で大丈夫です。貴方に隠しても無意味でしょうけど、流石に自宅まで案内する訳にはいきませんから」
「そうかい、残念だ」



わざとらしく手を広げ肩を揺らす太宰。
予想に反して素直に引き下がってくれた事にナマエは心の中で安堵した。



「では、失礼します」



立ったままの太宰の横を通り越し、足早にその場を後にする。

振り返らずに歩くナマエの後ろ姿に、太宰は静かに呟いた。






「…魔物にだって鬼にだってなるさ」



「君を、取り戻す為ならね」


















「連絡が遅くなって御免なさいカオルさん、今から帰りますね」



予定外の回り道だ帰宅が遅れた理由を話しながら、ナマエは繁華街を歩いていた。
すっかり暗くなったこの時間、街は夜の賑わいで溢れていた。



「嗚呼、いいのよ別に。むしろ良かったわ」
「え?」


電話の向こうの同居人は怒るでも無く心配するでも無く、何時もと変わらない反応にほっと息を吐いた。
先日の虎の少年の件で、今は裏社会が荒れてきている事を知らされていたナマエは、連絡も無しに帰宅が遅くなった事に対して怒られるのではないかと内心ヒヤヒヤしていたのだ。



「瀧本のオヤジさんがね、仕事をお願いしたいんですって。帰りに寄ってきてくれない?」
「そういう事ですか、わかりました」
「じゃ、よろしくね〜」



瀧本とは情報屋でのお得意様のような相手。
ポートマフィアとまではいかないが、横浜の中ではそれなりに名の通った組織であり、所謂極道である。
そんな組織の頭をオヤジ呼びするカオルも相当闇が深いと、ナマエは常々思っていた。



「また回り道だけど仕方ないか、」



通話を終えた携帯を仕舞い脇道に入ろうとした時、ふと何かの気配を感じた。



(殺気、じゃない)



得体の知れない何かを探し周囲を警戒していると、道路の脇に立つ一人の少女に目が止まる。

見た目で推測される年齢では珍しい和装の少女は身動き一つせず、人の行き交う様をただ黙って見つめていた。
ナマエはごく自然に物陰に隠れ、その少女を観察する。



(間違い無い。妙な気配はあの子からだ)



ただの少しも動かずに人の流れを見つめる姿、その集中力は普通の人間が出来る事では無い。
彼女が何時からあの場所に居るかは定かでは無いが、彼女が一般人で無い事は直ぐに理解した。



(…何処かで見た気が、)



あの姿、何処かで。

と、彼女の全身を確認していたナマエは首から下がっている携帯電話を見た瞬間に彼女の正体を思い出した。
そして音を立てずにその場を離れ、携帯電話を取り出すと通話履歴から先程まで話していた相手の番号をプッシュした。




「カオルさん、瀧本さんに後日伺いますと連絡してください」
「…何かあった?」
「すみません、帰ったら詳しく話します」



通話を切り、拠点までの道のりを急ぐ。



(私の記憶が正しければ、彼女はポートマフィアの人間。名前は確か、)




_________泉 鏡花。




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