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名前の様子がおかしい。
一番初めに気づいたのはさすがと言うべきかやはり花巻であったが、彼に限った話ではなかった。本来極めて表情の読みづらい部類である名前の異変は、比較的彼女と接する機会の多かった花巻のチームメイトによっても続々と察知された。否、彼らでなくともその異変を察することは難しくはなかっただろう。なんせ見ていればわかる。表情ではない、行動だ。

「花巻お前やっぱなんかしたんじゃねーの」
「…それが身に覚えがないんだよネ」

これは事件だ。メラニンショックだ。バレー部二年レギュラーが、そしてクラスの全員が心を一つにして確信した。
なぜならあの名字名前が、花巻貴大を避けているのである。それもこの三日ずっと。

「メラニンショックうちのクラスまで波及してんだけど」
「すげぇなそれ、芸能人か」

よっこいせと椅子に腰かけながら他人事のように(実際そうだが)言う松川を花巻は無言でじとりと睨む。何かしたんじゃないかなんて、そんなことは俺が聞きたい。
三日前に別れた時にはいつもと同じ様子だったし、部室までノートを届けに来てくれていたのも知っている。名前からノートを託された矢巾が「急いでるみたいでしたよ」と言っていたのは気になるが、何かするにも接触していないのでしようがない。

恥を忍んで彼女と親しい友人に尋ねるも、むしろ「花巻くんもわかんないの?」と困惑顔で聞き返された。中学時代からの友人だと言う彼女は男子が苦手だった名前が心を許して懐いた花巻を大層信頼しているらしく、花巻と自分でわからないなら多分他は誰もわからないだろう、という台詞で締めくくった。

あらぬ嫌疑をかけられなかっただけでも幸いだが、進展がないのには変わりない。昼休みには絶対捕まえて事情を聞こう、そう決めたものの、昼のチャイムが鳴ると同時に名前は教室を出ていった。花巻には一瞥もくれず、である。
…そろそろマジで凹むんだけど。俺なんかしたの、マジで。

「おう花巻…って、松川はえーな」
「ちーす」

いつも通り弁当包みを片手に訪れたチームメイトは手近な椅子を引っ張ってきて腰掛ける。その隣にいつもうざったいほど一緒に行動している幼馴染の姿はない。珍しいこともあるものだと思ったのは松川も同じだったらしく、先に尋ねたのは彼だった。

「珍しいな、及川と一緒じゃねーの?」
「いや、廊下出たら名字が及川貸せっつってきたから先に来た」
「は?」

至極何でもない様子で告げられた岩泉の報告に花巻はフリーズした。一瞬停止した思考回路で前言を追跡する。誰が誰を貸せっつったって?

「…名字が?及川を?なんで?」
「いや知んねーけど。むしろアイツが一番びっくりしてたわ」
「確かにめっちゃ珍しいよな。名字さんって及川のこと基本苦手じゃん」
「おう、だから俺も二人にしていいか迷ったんだけどな」

でもなんか込み入った話っぽかったから、一言断って先に来たんだよ。

ぱこん、弁当箱のふたを開け話を締めくくった岩泉が箸を取り出しつつ上目に花巻を見やる。同じく弁当箱を準備したままの花巻はしかし、物言わぬエースからの無言の視線に返す言葉が出てこない。

及川と話すって何について?髪のことならいつも俺かもしくは俺を経由して及川に話が流れるのがスタンダードだ。それ以外の相談だって大抵は同中の女子か、そうでなければ俺の二択だし、つーかわざわざ昼休みに呼び止めてまで話さなきゃいけない相手が及川って。なんだそれ。

ぐるぐるする花巻の思考回路に割って入ったのはそれまでじっと彼を観察していた岩泉のため息だった。普段きりっとつり上がった猫目に呆れを含ませ半眼にすると、副音声に「しゃーねぇな」を入れた岩泉は言う。

「一階の階段下。あそこ近い割に人少ねーから丁度いいって、込み入った話があるときに及川がよく使ってんだよ」
「岩泉帰りアイス奢る」
「おう、パピコな」

ガタン、間髪入れず立ち上がった花巻も注文を告げた岩泉も即断即決である。パピコって女子か、なんて余計な一言を言った松川が机の下で蹴撃を受けるのを横目に、花巻は足早に教室を出て行った。その後ろ姿を見送った松川が、弁当をもぐもぐしながら岩泉に言う。

「で、実際のとこ思い当たるとこはないの、及川サイドには」
「ねぇな。むしろ花巻じゃねぇのかってテンパってた」

ならばいよいよ手詰まりか。まあ確かにあの子は表情や様子から察するには最高難度だろうし、と松川はひとりごちる。
察しが速いのは彼女の旧友たちを除けば恐らく花巻一人。その花巻も初めは名前の意図を汲みかねてそのたびに真正面から聞き出してを繰り返し、その結果としての今があるという。

だがそこは及川に劣らず人をよく見ている松川である。元来人見知りなのもあるのだろう、気心知れた相手の前でしか気を抜かず、言動も表情も希薄に思われがちな名前が、しかし思っているよりずっと気丈で行動派であることは何となくわかっている。時折こちらの予想を真顔で超えてくる彼女は、可愛らしい外見にハマらずなかなかにじゃじゃ馬だ。

何があったかはわからないが、彼女があの「軽そうに見えてそれだけじゃないミステリアス系男子」花巻(一部の女子談)を自覚ゼロに振り回すのはこれが初めてじゃない。というか大体花巻が勝手に一喜一憂しているだけだ。まあ確かに三日も接触がないのは初めてだが、きっと何ということはないだろう。

「つーかほぼリア充確定だろアイツら。くっつくまでの余興みたいなもんだろ」
「余興っておま…まあ確かにそうだけど」

ばっさり言ってのけた岩泉に松川は苦笑する。字面だけ追えばただの僻みでしかない台詞を何の含みなく素で言えるこの友人は心底男前だと思う。こいつこそ何でカノジョいねーんだろ。やっぱあれか、及川効果か。

そんなことを取り留めなく考えていれば弁当は空になっていた。そろそろ戻ってきてもいいんじゃなかろうか、思ったのがフラグを立てたのか。突如がらり、教室の引き戸が引き開けられる。

「、え」

条件反射で見やった入口、目に入ったのは淡いくせっ毛。渦中の人物の唐突なる帰還に二人が呆気に取られたその一瞬で、踏み出された迷いのない足取りは彼女自身の席へと向かう。

整った横顔に乗るのは常と変わらぬ無表情。誰に声をかける隙も見せず机にたどり着いた名前は、何の躊躇いなく筆箱に手を突っ込んだ。次の瞬間松川と岩泉はフリーズする。
その手に握られたのは大ぶりの作業鋏。

「おいまさか、」

岩泉の呟きが松川の耳を掠めたのと、鉄壁の無表情がそのふわふわ髪を鷲掴んだのはほぼ同時。

そこからはまさに電光石火だった。試合中さながらの反射神経と瞬発力で飛び出し、岩泉がまず名前の腕をホールド、一瞬遅れて松川が鋏を握る手を拘束する。
数えた秒数はわずか2コンマ5。ガタガタガッタン、一拍遅れて倒れたのは二人が跳ね飛ばした二脚の椅子。

「な、っにしてんだべや!」

岩泉が怒鳴るのも致し方ない。水を打ったように静まり返る教室。岩泉を、それから正面に立つ松川を見上げた名前は、乏しいながらも十分わかるほど心底驚いた顔をしていた。松川の心を怒涛の勢いで言葉が走る。
いや驚いてんのこっちだから、いきなり何しようとしてんの、これ止めた俺らの反応と勘マジ尋常じゃないんだけどそこらへんどう思って。

けれど自分を見上げる彼女の、驚きを仕舞ったその無表情が酷く強張ったものであることがわかった瞬間、松川の口をついて出たのは全く無意識の一言だった。

「…花巻がなんかした?」

ドンピシャだった。名前の無表情は音を立てて凍り付いた。

淡い黄色を被る薄茶色の瞳が零れそうなほど見開かれる。そこに見る間に張られる涙の膜は、わずか一度の瞬きで今にもこぼれそうに揺らぐ。
ガタイの良い男子高生その1とその2は再びフリーズした。状況は先ほどより更なる混迷を極めている。

第二次メラニンショック勃発。

その場にいた全員が息を呑んだ。クラス全員の心が一つになった。背景には「賽が投げられてしまった」のテロップが一行。

「お、おい、名字」
「やめろ岩泉突っ込むな」
「ああ!?そもそもお前が…!」

普段比較的冷静な松川さえ動揺する中、俯いた名前の手が髪を離れて目元を擦る。一瞬見えた唇は目一杯に噛み締められ、幸いと言うべきか嗚咽は一つも聞こえてこない。項垂れた首は折れそうに細く、細かく震える肩と掴まれた腕に抵抗の様子はなかった。
岩泉はおろおろと手を放してやり、松川はそこから鋏を抜き取った。そうしてそのタイミングでばたばたと教室に駆け込んできたガタイのいい男子高生その3を振り返る。

「っ…!?」

飛び込んできたピンクブラウンはたたらを踏んで立ち止まった。一番に目に入ったのは松川の手の鋏だろう、声もなく呆然の表情をした花巻は、棒立ちで俯く名前とその脇のチームメイト二人を凝視する。

遅れてやってくるはガタイの以下略その4・及川。状況を確認、額に手をあて天井を仰いだ無言の副音声は「あちゃあ」の四文字か。
そんな及川の様子も確認しつつ、松川は歩み寄ろうとしてきた花巻を牽制し名前を背中に回した。ショックを受けたような友人の顔に苦々しさが浮かぶ前に、松川は辛うじて引き戻した平常心で先手を打つ。

「俺に他意はない、のでとりあえず一回頭冷やせ。お前ら絶対なんか勘違いしてっから」

黙する花巻、俯く名前、そこはかとない緊迫感。それを誤魔化すべくクラスは総出で無関係無関心を装い談笑を再開させんとするも、ぎこちなさ丸出しの歓談では拭いかねる重苦しさ。

「…なあ岩泉、これ余興で済むレベルか?」

クラスの皆の涙ぐましい協力に心から感謝しつつ尋ねた松川に、青城随一と名高い男前は一瞬渋い顔をする。だがさすがと言うべきかすでに取り戻しつつある冷静さをもって、「花巻次第だろ」と実に的を得た見解を示した。


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