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強豪の名を冠するだけあって、青葉城西男子バレー部の練習は朝練から過酷である。

七時からたっぷりしごかれるのは入ったばかりの一年部員も等しく同じ。恐らく部員の振るい落としを兼ねたその厳しい洗礼により、すでに数名は入部を諦めることにしたらしい。
確かに今からこれじゃ夏には間違いなく吐くな。
げんなりした思いを隠さない花巻だが、無意識のうちからすでに夏を想定して考えているあたりが済ました顔に隠されたバレー馬鹿具合を物語る。

教室に向かうべく下駄箱にたどり着き、まだ真新しい靴を下駄箱に押し込む。よっこいせと屈んだ彼はしかし、不意に落ちた影に視線を上げた。見えたのは同じく真新しい上履きとハイソックスの小さな足。顔を上げた先には、ふわふわと揺れる薄い色の髪と同色の瞳。

「、あ」

この前の。
零したそんな言葉の通り、花巻には彼女に見覚えがあった。入学式早々風紀委員に捕まり、髪のことで晒し者にされていた同級生だ。

自身の赤みがかった茶髪のゆえに似たような扱いを受けてきた身として胸糞悪い光景に、柄にもなく格好つけて介入した後、息を切らせて追いかけてきた彼女に名を聞かれて名乗ったのは記憶に新しい。だがしかし自分は彼女の名前を聞いただろうか。聞いた気はする。しかし思い出せるかと言われれば自信は皆無。

「…えーっと」

身を起こした花巻は当然彼女を見下ろす形となる。ゆうに頭二つ分下方から視線はそのまま追いかけてきた。色白の肌に映えるガラス玉のような大きな瞳は、硬い色を隠さないながらもひたと花巻を捉えて放さない。
いっそ心配になるほど希薄な表情も相まってますます人形じみて見える少女に、花巻はいよいよ対処に困り、しかしその限界を迎えるよりは早く、少女、名字名前は唇を開いた。

「っ…お、」
「…お?」
「は、…よう」
「、」

花巻は眼を瞬かせた。相変わらずほぼ無表情に近い名前はしかし、ぶつ切りにした朝の挨拶を口にするので手一杯だというように、再びきゅっと唇を結んでしまう。よくよく見れば小さな手はスクールバックの肩紐をこれでもかと握り込んでおり、眩しい白のブレザーに包まれた薄い肩には随分と力が入っているようだ。

ここで元来察しの良い花巻の勘が本領を発揮する。もしかしてこれ、緊張してるだけ?
だが悠長に考えている暇はない。思っていれば徐々に揺らいでゆく目下の鉄壁の無表情。今や引き結ばれた唇と揺らぐ瞳が緊張と不安を増幅させてゆく。

もしや泣いてしまうのではないか。花巻は一瞬焦り、ちょうど年下の従妹にそうするように、背中をかがめて視線を合わせてみせた。

「うん、おはよ」

ちょっと声がブレたのはどう転ぶかわからない綱渡りのような状況ゆえ。これで怖がられたりとかしたらメンタル瞬殺。しかしそんな花巻の懸念は杞憂となる。

「…!」

ぱちくり、純粋な薄茶と呼ぶにはやや黄色を帯びた瞳が、こぼれそうなほど大きく見開かれて花巻のピンクブラウンを映す。その透き通るような瞳が心なしきらきらして見えた瞬間、真っ白だった頬がぶわりと薄桃に色づいた。

それは照れとかキュンとかいう少女漫画的情景ではなく、むしろ純然たる喜色の成せるもの。しかしつい今しがたまでいっそ冷たさすら感じる無表情だった名前が見せた変化は、表情筋こそ相変わらず死んでいたとは言え、花巻の不意を打つには十分な材料だった。

「あれ、花巻?どうした?」
「へ、…あ、ああ、松川」

がつんと殴られたような衝撃に見舞われた直後、後ろから追いついてきたのは今日ペアを組んで練習していた松川一静。下駄箱に突っ立ったままの花巻に怪訝そうな顔をして、その向こうを覗こうと首を傾けた松川に、何か言わんとしていた名前は肩を揺らして口を噤んだ。俯かせた顔でそのままぺこりと会釈し、彼女は足早に廊下へかけてゆく。
松川と花巻の「あ、」という声が重なる。間。

「…悪い、邪魔したり?」
「は?いやそんなんじゃねーけど、」
「ふうん?」
「マジで違うから。つか名前も知んないし」
「そうなん?」
「そーなの」

ていうか今日も聞けなかったし。
そんな一言は呑み込んでおいて、花巻は初日の顔合わせで知り合って以来何かと行動を共にするようになった松川と並んで廊下を歩く。合間に入学式での一件を説明すれば、なるほどなと松川は少し気の毒そうな顔をして花巻の髪を見た。いやお前も結構な癖ッ毛だけど、なんて一言も呑み込んでおいた。

ちなみにバレー歴・技術・背丈も似ていて何かと馬の合うこの二人が、既に部内外で注目を集めつつある北川第一の幼馴染コンビよろしく、ここも昔なじみなのだろうかと噂されているのを本人たちは知らない。

「俺ここだから」
「おー、じゃあまた部活でな」
「うーす」

引き戸を窮屈そうに潜り抜ける松川の背中を見送り、教室を一つ通り過ぎて自分の教室に向かうその途中、窓の向こうに見えたのはさっきの色素の薄い癖っ毛。
肩までかかるそれは圧倒的な黒髪率を誇る教室で案の定浮いていて、窓越しに見つけるのに苦労がないのも納得できる。

机に向かって単語帳を広げる彼女の周りに人気はない。入学式から一か月、友達の一人や二人出来ていても不思議でない時期だろうに、いつもあの調子なのだろうか。

花巻の視界から名前の姿は消える。活字に目を落としているのであろう横顔に先ほどの喜色の面影はすっかりなく、あるのは相変わらず人形然として整った冷たい無表情だけであった。

160108
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