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「名字さんの髪の毛ってさ、それ地毛?」
「、」

唐突に尋ねられた名前は肩を強張らせて声の方をふり向いた。尋ねてきたのはクラスメートの男子。目が合えば挨拶くらいはするが、ほとんど面識のない相手だ。

クラスの男子、という生き物に対し名前にはいい思い出がロクにない。愛想の無さも相まって受けた揶揄いにじゃれつくような気安さはなく、何事にも動じない(ように見えた)彼女の反応を見ようとした男子に伸ばしていた髪を引っ張られたこともあった。ぎょっとして振り向いた彼女にニヤニヤ笑った数名の男子がトラウマで、それを機に切り落とした髪は以来肩より下へ伸びたことはない。

けれど返事もせずに立ち去ればどういうレッテルを貼られるかは中学に上がってから嫌というほど理解した。お高く止まった高飛車女。ちょっと顔が良いからって調子に乗って。

「…そう。生まれつき」

出来るだけ普通に、可能な限り平然と。意識しないと走り出しそうな声をなんとかゆっくり押し出して頷いた名前に、男子生徒はへえと頷いてしげしげと名前の頭に視線を送る。
その不躾な視線に居心地の悪さは増す一方だったが、幸い男子生徒は納得したのかすぐに立ち去ってゆく。名前は小さく息を吐き、移動教室のため支度をしてそっと教室を出ようとした。しかしその直前、彼女の耳は余計な会話を拾い上げてしまう。

「やっぱ地毛だってさ」
「ほら見ろ、俺の言った通りじゃん」
「いや染めてても言わねーだろフツー」

教室においては無用に目立たず、なるべく存在感を薄めようとしていた名前の試みが裏目に出た瞬間だった。本人がすぐそばを通り過ぎたのにも気が付かずに、悪気のない会話に興じるのは先ほどの男子とその友人らしき数名。
思わず凍り付いた名前だったが、突き刺さったのはそれだけではなかった。

「えー、あんな色抜けてるのに?」
「いいよねー地毛って、うちらなんかちょっとでも染めたら即呼び出しじゃん。色だけ見れば絶対うちらの方が暗いのに」

ここでも言われるのか。
真っ白になった頭でようやく浮かべたのはそんな失望と愕然に似た感想。不満げに呟く可愛らしい声は凶悪な鋭利さでもって名前の心を切りつけた。
そこに傷つけようとして向けられる悪意はない。初めて言われる理不尽な不満でもない。名前の表情は一見ほとんど変わらない。だからと言って傷つかないわけでも、ない。

「…っ、」

ただでさえ無気力な表情筋が完全なストライキに入る。表情は諦めるとしても、同じように凍り付いた脚まで諦めてしまってはここから逃れることもできない。
名前は目一杯に唇を噛み締めて俯き、滲む視界を隠すと足早に教室を飛び出そうとした。それが未遂に終わったのは出会い頭に衝突する人物がいたためだ。

「うおっ、」

殆ど体当たりに近い勢いで飛び込んだとは言え元が小柄な名前だったのも幸いしてか、相手はわずかによろめいただけで名前を上手に受け止めた。とっさのことにバランスを崩した名前は肩から支えられ、硬い胸元へダイブした視界は一瞬ブラックアウトする。

条件反射で見上げた先の人物に、名前は大きく目を見開いた。自分に似て色素の薄い肌と、赤みがかった淡い茶色の髪。花巻貴大その人だ。

「っと、ダイジョーブ?」

ぱっと離され距離が開く。そこに妙な膠着はなく、その衝突に一瞬目を奪われた周囲の人間も、よくある小さな事故の顛末にそれ以上注目することはなかった。それも今の名前にとってはまさしく僥倖であったがしかし、ここで入学早々のピンチを颯爽と救ってくれた人物と遭遇するというのは、ある意味では最悪のタイミングでもあった。

「っ、」

すみません、大丈夫です、ありがとう。出した候補は選定する間もなくこんがらがって黒い塊となり、代わりに必死で引っ込めようとしていた涙は瞼の縁を乗り越えた。

ぼろり、その大きな瞳に見合う大粒の涙が真っ白の頬を伝うのを見て、花巻はぎょっとして凍り付く。しかしいかにお人形さんみたいと言われようと人見知りであろうと、名前は可愛らしく泣きじゃくるような女の子ではなかった。伊達に二つ上の兄と弱肉強食の兄弟ライフを送ってきたわけではない。

その人形の様な見た目には似合わぬ豪快さでブレザーの袖をごしごし目元に押し付け、名前は無言でがばりと花巻に頭を下げた。謝罪もお礼もそれで済まし、移動教室に向かって今度こそ教室を後にする。

さながら小さな台風のように去っていった名前を呆然と見送り、それから花巻は今しがた入ろうとしていた彼女のクラスを見渡した。当然そこにダイイングメッセージのようなものはなかったが、しかし入り口付近で髪染めの話に花を咲かせる派手めの男女の会話の断片は、彼の経験値と勘の良さをもってすれば十分な情報源となった。

「…あーあー」

可哀相に、なんて言葉は呑み込んだが、当然胸糞は悪いまま。
表情が乏しいのは見てわかる。だがこれまでの様子を見るに間違いなく口下手で人見知りもある。にも拘わらず目を引くあの整った容姿とふわふわの茶髪だ。一人読書に興じていたのは以前に見かけた朝だけのことじゃないのだろう。

不慮とは言え泣き顔を見てしまった妙な罪悪感で、花巻はぽりぽりと首裏を掻きながら思案する。
結局思い出せず仕舞いだった彼女の名前を改めて知ったのはつい最近のこと。それも彼女と同じクラスのバレー部員からメラニン過少同士という名目で聞き出したものだ。他人以上知り合い未満。放っておけないと思ったって、自分にしてやれることなど何が―――いや。

「花巻?なんか用事か?」
「、おう。悪い、数学の教科書貸してくんね?」
「オッケー」
「あ、それとさ」
「ん?」

まあ、ちょっとお節介が過ぎるかも知んねーけど、嫌われてるわけじゃねーだろうし。
阿吽の呼吸と呼び声高いお馴染みコンビの片割れほど男前とは言わないが、花巻の基本スタンスもまた即断即決、即実行なのである。


160116
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