▼ ▼ ▼

「おはよ、名字サン」
「!」

いつかと同じ下駄箱での遭遇、しかしこの日に先に声をかけたのは花巻の方であり、しかも時刻は昼休みであった。
たまたま職員室へ向かう用事のあった名前は、思わぬ人との邂逅に一瞬目を丸くする。しかし前回の偶発的な遭遇の記憶はまだ新しく、かさぶたになるには時間が足りていない。
この前はごめんなさい、まずもってそう告げ頭を下げた名前に、花巻は少し目を大きくしたが、緩く笑って首を振った。

「俺もごめんネ、前見てなかった」
「…、」

泣き顔を見たことではなく、ぶつかったことを謝罪したのはわざとかそれとも無意識か。名前には判断がつかなかったが、花巻に悪意がないことはわかったので何も言わなかった。

「あ、いきなりなんだけど名字サンさ、今なんかゴムとか持ってる?」
「…ゴム?」
「うん、シュシュとかでもいいんだけど」
「いや…持ってないけど…」

一瞬浮かべた輪ゴムの映像を脳味噌から掻き消しつつ、名前は突拍子のない質問に首を傾げた。教科書だの何だのの有無を聞くならまだしも、上背のある体育会系男子(彼がバレー部に属するということは同中の友人から聞いた)が髪ゴムやシュシュを必要とする理由とは何か。
敢えて言うが花巻の髪は短い。前髪をちょんまげにするレベルも結構に厳しい。
しかし彼女は次の瞬間、花巻がブレザーから取り出したピンク色の正体にさらなる驚愕を覚えることとなる。

「じゃあこれでいっか。髪触ってい?」

節くれだった大きな手に収まるのは地味めのピンクのおおぶりのシュシュが一つ。色自体はスモークがかっているが、ビーズとレースのあしらわれた可愛らしいそれに目を奪われた隙に、花巻は許可を得る間もなく名前の髪を掬い上げた。

予想外の玉突き事故で脊髄反射すら断線状態に入ったらしい。かちんと固まった名前だったが花巻は気にすることなく、名前のふわふわの髪を右肩から左肩へ寄せ、うねりに合わせて流し、時折頭を撫でるように梳いてから束ね上げる。最後にそれを耳の下で器用にシュシュでまとめたその驚きの所要時間、僅か15秒足らず。

「よし、どうよ」

得意げな顔をした花巻がスマホをいじると名前の前に突き出す。インカメによって映り込む自分の姿に、正確にはクセに合わせてまとめられたために、広がることなく落ち着いて肩口に落ちる髪へ、彼女の目は釘付けになった。

「俺の従妹、名字サンと同じでクセっ毛でさ。けど流れに合わせさえすればそこそこ綺麗に収まるんだよネ」

まあ色ばっかりはどうしようもないし、あんまり動くと形も崩れるんだけど。

ちょっと申し訳なさそうに眉を下げて笑った花巻に、名前は絶句した。それはまず自分の髪の毛の収まり具合に関して。つまりどう頑張ったところで自由気ままにうねる髪のクセをどうにかすることなど、髪飾りでそれを飾ることと一緒に、とうの昔に半ば諦めるようにやめてしまったことだったのだ。

そしてもう一つはそれをものの十数秒でしてしまう手腕を持つ花巻が、どういう経緯でかはわからない、だがあの衝突事故の寸前の出来事を何らかの形で知っているということに関してだ。

「…これ…」
「あ、それは従妹のシュシュの余りだから。俺のじゃないからね」

飽き性ですぐ新しいものを買おうとする従妹のことを思い出しつつ弁明する花巻を見詰め、それから左耳の下に落ち着く髪を撫で、名前はぎゅうと唇を噛み締めた。一体何からお礼を言えばよいかわからない。唐突で予想外で粋な思いやりが、名前の胸を一杯にする。

「…ごめん、気に入らなかった?」

ややトーンを落とした声に名前は弾かれたように顔を上げた。それから心なし不安げな顔をした花巻に向かい、ぶんぶんと首を振る。ようやく追いかけてきた血色が真っ白い頬を健康的に染めるのを見て、彼は彼女の反応が本物であることに安心した。

「すごく、嬉しい。ありがとう。これも、前の時も」
「どーいたしまして。気に入ったならよかった」
「でもシュシュは…」
「ああ、それ良かったら使ってよ。俺いらねーし」
「え」

でも、と戸惑った名前に、花巻はいやに神妙な顔をして、「俺の髪につけるとこあると思う?」と声を潜める。名前は彼のピンクブラウンの瞳をまじまじ見つめ、それから短い髪を見やり、真面目な顔のまま返した。

「…ちょんまげなら」
「……ごめん俺まだ名字サンの表情読めないから真面目に聞くわ」
「うん」
「それマジで言ってる?それとも冗談?」
「冗談だよ」
「デスヨネよかった信じてた」

真剣な顔で頷いた花巻に、入学以来ほぼ初めて、名前の表情筋がふわりと緩んだ。細まる大きな瞳と柔らかく弧を描く口元、決して声は上げないが微かに鼓膜を掠める、吐息だけの笑い声。

彼女に遭遇して以来何度目になるかわからないが花巻は凍り付く。時間が止まったかと思った。人形のようだ、悪意はなくともしばしばそう思わざるを得なかったことがきれいさっぱり吹き飛んだ。それは以前彼女の泣き顔を見てしまった時とは全く違う意味でのフリーズだった。

160125
prev / next
ALICE+