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それを耳にしてしまったのは全くの偶然による不幸な悲劇だった。

名前が花巻に借りていた数学のノートを返しそびれたのに気づいたのは、放課後を迎えて十分足らずの頃合い。明日は一限から数学、今ならまだ部活も始まっていないはず。名前は急いで支度を済ませ、友人らに別れを告げ、ノートを小脇に部室棟へと走った。

花巻との付き合いはそこそこになるが、部活中の彼の元を訪れたことはない。ましてや部室に赴くことになるなど夢にも思わなった。けれどそれがバレー部員としての花巻に無関心であるということを意味するかと言えばそれは違う。名前は緊張半分、高揚半分の心持で部室練に足を踏み入れた。

陸上部の友人に場所を教えてもらった男バレの部室のドアの向こうからは、複数名の人間の声がした。邪魔してはならない会話かもしれない、そう思って様子を伺おうと耳を澄ませれば、見計らったタイミングで飛び込んできたのは明るい茶髪の彼の声。

「俺はこの子かなー。色白で茶髪の子!」
「あーポイな、前の彼女もこんな感じだったっけ」
「まっつんいちいち古傷抉るのヤメテ」

…どうやら気を遣うほどの話題ではないらしい。紙をめくる音と共に聞こえたのは最近話題のアイドルグループの名前。年の近い兄を持つ彼女からすれば極めてピュアな男子トークだが、女子の目抜きの場で語られるそれを盗み聞きするのはさすがに申し訳ないというか気まずいと言うか。

これは少し間をおいてから出直した方がいいか。しかし空気を読んだ名前の足は、ドアの向こうの何気ない一声によって止められた。

「じゃあ花巻はどの子がタイプなんだよ」
「俺?…んー…」

雑誌を覗きこむピンクブラウンが目に浮かぶ気がした。名前はほぼ反射的に息を殺し、ドアの向こうの声に耳を澄ませた。花巻のタイプ。考えて思う。そういえば花巻がどんな子を好きなのか、名前は聞いたことがない。
告白だって一度ならずされているのに、恋人が出来たと聞いたこともない。無論それは部活に集中したいというのが一番なのかもしれないが、タイプじゃなかった可能性だってある。

花巻の好きな子。想像した名前の心臓が急速に温度を失い後退る。だが最早逃げ場はなかった。酷く長く感じられた彼の沈思黙考は破られる。

「この子かな。ここ、右の」
「あーこの黒髪ストレートの?」

一気に叩き落とされた。ような気がした。自分の中の何かを、あるいは自分自身をどこかから。

「確かに可愛いよな、やっぱ王道!」
「染めてんのも悪くはないけど、俺的にはやっぱ黒――…」

最後の会話は花巻の声によるものではなかったが、名前にとっては関係なかった。すっと降りてきた血の気が温度を失くして足元に溜まってゆく。咄嗟の事に先走ったのは感情だけ、名前は自分が酷いショックを受けている理由を頭ではわかっていなかった。

ただそれが、地毛のことを悪意なく羨まれたり噂されたりする時よりずっと容赦なく心を抉り、自分の持って生まれた癖っ毛をこれまでになく憎く思えたことだけはわかる。だから名前はその場から立ち去った。途中で鉢合わせた一年生らしき部員に花巻のノートを押し付け、気づけばふわふわの髪が乱れるのも構わず走り出していた。

教室に飛び込んできた名前を見て、友人たちはどうかしたのかと口々に尋ねた。しかし彼女は口をつぐんだまま、その大きな瞳に友人たちの真っ直ぐな黒髪を映して黙り込んだ。
自分よりずっと濃い瞳に映りこむ自らの姿は相変わらず色素の乏しい薄茶色。今にも泣きそうにゆがんだ顔はしかし、戸惑う友人たちには、いつもより僅かに強張っている程度にしか見えてはくれない。

花巻がいれば、すぐに見破ってくれるのに。
けれど今、そう思う名前が一番会いたくないのもまたその花巻で、名前は唇を噛み締め頭を垂れる他なかったのである。


160309
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