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「―――最後に、今日の練習はレシーブ後の前衛の連携に重きを置く。当然渡からのセットアップ、及川からのスパイクもある。同時に相手コート側の人間はそれをわかった上で前衛をどう配置し止めるかが課題だ」
「「「はい」」」
「考えなさい。失敗は可能性の残骸だ。そのすべてに意味がある」

びりり、円陣の内側の空気だけ重力関係が狂ったようだ。温厚でありながらもやはり歴戦の闘将、ここぞという瞬間に醸される監督の覇気には身が引き締まる。
だが眼光を鋭くした選手たちをぐるりと見渡した次の瞬間には、柔和な表情を戻したその顔は背後に向けられ、ずらされた恰幅の良い体はその影に隠れていた小柄な人影をあらわにする。

「それから、皆に紹介しておかねばならないな」
「…エッ?」
「は?」
「…あれ?」

明らかに反応する顔をいくつか、そして多くのきょとんとした顔を向けられた先で、室内競技選手の彼らに負けず色の白い少女が、身を固くして棒立ちになる。黒々とした髪が強張った横顔をわずかに隠す様子に、監督は少しだけ目元を和らげ、何にも言及することなく選手たちに向き直った。

「今日からしばらく、部活動のためウチに見学に来ることになった美術部の北村だ。練習に支障の出ない安全な場所からのみ見学を許可しているから、お前たちも彼女の邪魔をしないように。…北村」

ぱちん、視線が合ったのは瞠目したままの松川。紫乃は微かに目を泳がせたが、次には硬いなりにもしっかりと声を出し、背筋を伸ばして自己紹介をした。

「…美術部三年の、北村紫乃です。我儘言って勝手にお邪魔していますので、いないものと思って頂ければ結構です。あ…ただ、お邪魔になることがあれば、すぐに言って頂ければ助かります。…宜しくお願い致します」
「「、お願いしゃッす!」」
「!」

染み付いた体育会系の習性はちょっとやそっとの驚きじゃ覆らない。綺麗に九十度下げた黒髪の頭に振ってきた脊髄反射の反応に、紫乃は目を丸くして飛び上がった。目をぱちくりさせて「こ、ちらこそ、お願いします…」と返すそのたどたどしい様子が好感だったのか、何人かの選手は早くもこの急な部外者の出現の認識消化・処理を済ませつつあるらしい。

しかし限られた数名―――その筆頭たる松川は珍しく平静に戻るのに後れを取った。周りはただの美術部部員が見学に来た、その程度の認識に過ぎないだろう。しかし絵描きとしての紫乃を知る彼にとって、彼女が何かを描くために能動的になること自体が前代未聞の事態なのだ。

そしてもう一人、驚きの表情を浮かべながらも、すぐに小さく口角を上げた人間もいた。
よくは知らねーが、描きたいもんが見つかったんだな。
職員室の入口で顧問を前に立ち尽くしていた紫乃の、通りかかる人の視線で穴が開きそうな薄っぺらい背中を思い出しつつ、岩泉は体育館の隅へ引っ込んでゆく紫乃を見送り思う。
練習に向けて気持ちを引き締めつつ準備を開始する彼は、しかしその厚みのある背中へそっと送られた彼女の視線に気づくことはなかった。




紫乃は毎日のように体育館に通い、そして本当に決して邪魔をしなかった。

大抵は体育館の隅に監督が置いてくれたパイプ椅子に収まるように腰かけて、そして時には倉庫の入口横に、下駄箱横の小さな小窓から練習を見つめていることもある。その脇には大抵布製の鞄があったが、何かを描くことはおろかモノを取り出す様すら見かけることはない。

体育館内にいれば姿こそ目に入れど、紫乃はバレー部の練習開始から少しして現れる。そしてただ黙々と文字通りに見学し、練習が終わる少し前にはひっそりといなくなる。
これは決して避けているというわけではなく、単に美術部員としての日常義務ゆえのタイムラグなのだが、そのおかげでとりわけギャラリーにやってくる及川ファンから無用な勘違いをされることはなかった。というのも彼女のことを初めこそ気にしていた選手たちも、その時間差ゆえに絡みがないため、親睦を深めるような展開もなかったのである。

加えて彼女自身の目立たなさと普段の彼女の人柄も相まって、紫乃が「本当に部活動に励んでいるだけの見学美術部員」という位置に収まるまで長くはかからなかった。
選手を捕まえ私語をするでもなく、かといってスケッチブックを取り出し何を描くでもなく、紫乃はただしんしんと練習風景を見つめていた。そんな彼女の姿にある時、まあ一番絵になるのは及川(さん)だよなといささかの皮肉も込めて茶化した選手らに、「そうでもねぇと思うけど」と水を差したのは松川だった。

「アイツはヒトは描かねーんだよ」

何でもないことのようにさらりと告げて、彼は更衣室を出てゆく。引き留めることを躊躇わせる薄い膜を帯びた背中が去って数秒、やや虚を突かれた表情をした花巻は独り言のように言った。

「え、俺てっきり松川目当てかと思ってたんだケド」

遠慮なくばっさり言うあたりが、この類の発言に容赦のないことに定評のある花巻らしい。そんな彼も流石に松川の目の前でそれを口にすることはなかったが、横で聞いていた及川としては同意見だった。なんせ彼女が見学に来て以来、時折さりげない、しかし皆の注目がどこかわかりやすい一点に集中しているタイミングで、紫乃の元に足を運んでは言葉を交わす松川の姿を見るのは二度や三度のことではないのだ。
その行動自体は目立たないとは言え同じレギュラーを張るチームメイトである。彼女の態度がどうであれ松川が何かと紫乃を気遣っているのは明白だった。

(…変な子にたぶらかされてなきゃいいけど)

甘いマスクの茶髪の青年はその大きな目を細め、パイプ椅子の少女を一瞥する。彼女はやはり何を描くでもなく、ただコートの方を静かに見つめていた。その先に誰がいるのかはわからない。




「お目当てはまっつん?」

ざあざあと雨降る梅雨の頭、憂鬱に傾く校内と裏腹にインターハイ予選も始まり、熱気高まる体育館。今日も今日とて静かにコートを見つめていた紫乃は、後頭部に振ってきた耳慣れない声に頭を上げた。それからその声が自分に向けられたもの、そしてまっつんとやらが彼女の友人を指すのだということを数秒かけて理解する。

「…目当て…?」
「そ」

ニコニコ、人当たりの良い笑みを見上げる紫乃が瞬きを数度繰り返す。他の女子なら頬を染めてはにかむような及川の笑みを前に、しかし彼女は困惑した色を過ぎらせた。それからいつもの布鞄に目を落とし、比較的落ち着きながらも、一抹の当惑を滲ませた声で応じた。

「松川は描かないよ」
「へ?」
「何を描くかはまだ全然わからないんだけど…人は、ほとんど描かないから」
「え、…ああ、そうなんだ、へえ」

思わぬ返答に及川は鼻白んだ。暗にオトコ目当てかと意地悪い詮索を吹っかけてみて、帰ってきたのは予想の遙か斜め上を行く返答。鞄や床に移る眼差しに誤魔化しや焦りの色はない。目が合わないのはもともとらしい。
まさか絵画のモチーフに関する質問として取られるとは思っていなかった及川は、決まりの悪さに頬を掻いた。…頭から疑いにかかっていた自分が恥ずかしく思えて、何でもない平静を装い言葉を探す。

「その割には…スケッチブックも何もないんだね」
「…まあ」
「デッサンとかさ、そういうのはしないの?」
「……邪魔なら場所を変えるけど、」
「や、そういう意味じゃなくて!ただちょっと気になっただけっていうか」

一瞬席を立とうとした彼女を両手を振って押しとどめる。なんだか頼りない子だな。まるで変わらない表情の下、及川は冷静にそう思う。少し前に読んだ雑誌に並んでいた華々しい紹介文の名残は、俯きがちな小さな頭にも縮められた薄い肩にも見当たらない。

「モチーフを決めるのに、すごく時間がかかるんだ」
「ってことは…決まってて描きに来たわけじゃないんだ?」
「……自分の中で、描きたいものがちゃんと形になるまで長いっていうか…」
「ふーん…あ、イメージがまとまるのには観察がいるってこと?」
「、うん、そう」

でも、描きたいって思ったから。

「だから来た」
「……、」

初めに抱いた印象が少し動く。反応は淡い。言葉も拙げだ。けれど再びコートを動き回る練習着の選手たちを見つめる双眸には、一片のブレもない。

頼りないというより、恐ろしく不器用なのかもしれない。
硬さの取れない横顔を見ながら、及川は彼女の沈黙に甘んじる。そんな彼の推測はその抜群の洞察力に恥じず実際に的を得ていた。紫乃は周りが思う以上に、かつ普通の人間以上に色んなことを考えている。ただそれを上手く整理したり適度に吐き出す器用さがない故に、往々にして煮詰まりを起こすだけだ。

「ね、じゃあやっぱ描いてみてよ」
「え?」
「デッサンでも何でもいいし、ほら、描くことで形になるかもしれないじゃん」
「…いや、けど」
「俺たちとしてもさ、全国クラスの『天才』に描いてもらえるなんて滅多にない機会だし!」
「、」

爽やかな笑顔を伴う提案だった。六割の好奇心と三割の善意、そして『天才』の一言に現れた一割の無意識の悪意は、気を抜いた一瞬に顔を覗かせたものだろうか。つまり及川に明確な悪気はなかった。内心に潜めた多少の棘はあったかもしれないが、間違いなく彼お得意の対女子用の笑顔と声音にそんな素振りは一切なかった。しかし紫乃の顔は一気に強張った。言葉も出ず、反応もできず、文字通り凍り付いてしまった。

「…?北村さ…」
「おい」
「あだっ!」


スパァン、と実にいい音を立てて及川の後頭部がシバかれた。紫乃は肩を揺らして顔を上げる。前のめりになる茶髪の向こうに現れたのは、眉間に深々と皺を刻んだ岩泉の姿。その手には真ん中からバッキリ折れたノートが一冊握られている。…まさか殴って?紫乃は思わずその惨状に釘付けになった。ノートが折れる力とは一体。

「何してんだクソ川、邪魔すんなって監督に言われてんだろーが」
「ったいな岩ちゃんノート折るとか馬鹿じゃないの!?口より先に手ェ出るのホントゴリラ!」
「ああ?てめーも似たようなもんじゃねーかパワーゴリラが!」
「俺は岩ちゃんと違ってこの顔があるんですー!」
「おーおー相変わらず煩ぇ顔だな」
「顔が煩いって何!!」

まるで嵐の様なやり取りである(ただ以前「オーラが煩い」と形容した彼女も言える側ではない)。思わぬ介入者に半ば呆然と成り行きを見守る紫乃は、及川が岩泉に弁明する様子をほとんど他人事のように眺めていた。しかし事の次第を理解したらしい岩泉は、呆れ顔を作って及川を一瞥する。そうして言葉なく途方に暮れたままの紫乃を見下ろし、はっと我に返ったらしい彼女の様子に少し表情をやわらげて言った。

「悪かったな、うちのグズがちょっかいかけた。見られてどうってモンじゃねぇから気ィ遣わなくていいぞ」
「あ…や、うん、けど」
「?」
「確かに私、何も描けてないから」

及川よりはずっと慣れてきた岩泉を前にして、紫乃はようやく形ばかりながらも笑みを作ることが出来た。しかし岩泉はそれに笑みを返すことなく、逆に一瞬目を細める。描けてない。その何でもない一言が、言葉になるより早く彼の直感に引っかかった。

「…けど、北村、描きたくて来たんだろ?」
「え」
「なら描きたい時に描けばいいじゃねーか」

あ、けどコンクールかなんかあンだっけ。じゃあ急いでんのか。
岩ちゃんちょっと適当過ぎ。
うるせーな、じゃあお前知ってんのかよ。
なんか夏終わりにやってるヤツあるじゃん、それじゃないの?

紫乃は黙っていた。黙ってああでもないこうでもないと話を進める二人をぼうっと見つめていた。

まただ。礫を投げ入れられたように、波紋を広げる心が波立つ。
描きたいときに描けばいい。それが出来れば苦労はしないし、部活動に所属する以上そんなわがままはほとんど不可能だ。今でさえ顧問にはかなり譲歩させている手前、たとえ窮屈に思ってもこれ以上好きには出来ない、そんな思いは少なからずある。

いつだってそうだ。いつだって何かを描かずにはいられないのに、自分が何を描きたいのかはちっともわからない。
けれど今回は違う。

「及川ー、岩泉ー、休憩終わるぞ!」
「えっもう?オッケーすぐ行く!」
「次なんだっけ、サーブ練か。…北村、ねぇとは思うけど流れ弾気を付けろよ」
「…うん。岩泉、ありがとう」
「ん、おう」

今度はさっきよりずっと自然な紫乃の笑みに、彼女の何がしかの変化をすぐに悟ったのだろう。岩泉は満足そうに口元を緩め、コートに駆け戻ってゆく。

なぞるように思い出す。見学に訪れたとき感じた激動を、このひとを描いてみたいという突き動かすような衝動を。

紫乃はゆっくりと鞄に手を入れ、スケッチブックを取り出した。買ってからずいぶん経つせいでややくたびれているのに、一ページたりとも鉛筆を走らせたことがないために中身は新品同様のそれをめくり、鉛筆を取り出す。

描けるだろうか。手が止まる。何一つまとまらないこの心で、この手は動くのだろうか。

鉛筆の先がスケッチブックの白に乗る。黒い鉛が残す軌跡が、いつだって転がり落ちそうなところでバランスを保つ心臓を引っかいた。怯みそうになる手を叱咤し、怯懦する心を奮い立たせてもう一度。
なんでもいい、描いてみろ。描きたい気持ちに嘘はないはずだ。

それは紫乃にとって、少なくともこの数年試みたことのない、久方ぶりの見切り発車の挑戦だった。

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