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「あ」
「、」
「おっす北村。はよ」
「おはよう、岩泉。朝練終わり?」
「おう」
「すごいね、おつかれ」
「サンキュ」

頭の中を一杯に満たすようなセミの鳴き声をかき分けるように届く声。朝から眩しい太陽の光の下、それに負けない熱量と凪いだ落ち着きを持ち合わせる彼の瞳に頷き返す。互いのクラスに至るまでの廊下の短い距離を、何を言うでもなく肩を並べて歩く。教科書を貸してもらって以来、こうして言葉を交わすことにもだいぶ慣れてきた。

「今日は及川くんと一緒じゃないんだね」
「女子に囲まれてヘラヘラしてたから置いてきた」
「ふうん」
「…一緒だった方が良かったか?」

顔をしかめていた岩泉がちらりとこちらに視線を寄越してくる。ああこれ。いつだって魅入るほど凛然とした美しい瞳が、一瞬だけ読み通せない透明なガードを被る。それは恐らく冷たいとか二面性があるとかいう話じゃなく、相手の様子を見極め、本音を汲み取りたいと思うがゆえのもの。言わば余計な感情や見解を、相手に悟らせまいとする精神態度からくるものだ。

刃のような誠実さだ。初めて見たときからそう思った。人を見透かし本音を引き出すため、自分の手の内を明かさない。そこに意図も悪意も無いというのが尚のこと恐ろしい。彼はきっと純粋に、相手を真正面から見据えたいと思っているだけなのだ。

「いや、いい。なんか眩しいから疲れる」
「っぶ…!北村、アイツと接点あんのか」
「ないけど…遠目でもオーラがうるさい」
「ぶはっ!」

失礼と知りながら他に言葉の思いつかない私の発言に、岩泉は遠慮なく笑い声を上げた。先ほどの隙の無い空気はその面持ちから霧散し、あるのは飾りも被りもしない自然体の気配だけ。圧巻だと思う。私には一生マネできまい。

ともあれ本人たる及川くんの耳に入れば恨まれそう会話に一応口止めするも、「わーったわーった」と肩を揺らして笑う彼はどこまで本気に聞いてくれているのか。私とて何も及川くんのことが嫌いなわけじゃない。ただ彼に関しては岩泉以上に知らない人だし、あの人慣れした感じがどうも馴染まなくて苦手なのだ。
後からファンの子たちに目でもつけられたら笑えない。いや私が物言いを改善すれば済む話なんだろうけど、それが出来れば苦労していない。

「北村、ここだったな」
「うん」
「じゃーな」
「うん、また」

自分のクラスへと歩みを続ける岩泉の背中を見送り、私は教室に足を踏み入れる。岩泉と話すとき、私は言葉をたくさん使わずに済む。もともと口が回る方でも考えをまとめるのが得意でもない私にとって、誰かと話すのは普通以上にエネルギーが要ることだ。特に知らない人や知り合って日の浅い人、異性だったりするとなおさら神経を消耗する。

岩泉と話すときも苦労しないわけじゃない。なんせ松川や朱音と違って私は彼の多くをまだ知らないのだ。けれど彼が会話のためにたくさんの言葉を必要とする人でないことは知っている。それがわかってから、私は少し肩の力を抜くことが出来るようになった。


『…似合わねぇ名前だな』

誰の目にも留まらないような青一色のあの絵を前に、彼が眉根を潜めて吐いた一言が蘇る。

独り善がりに描いた絵だった。誰のためでも何を語るためでもない。ただ溜まりに溜まった閉塞の栓を抜いて注ぎだした副産物でしかない、何の誇りも矜持もない絵。

名前をつけるのも億劫で投げ出したそれに顧問が「空漠」の二文字を宛がったとき、私は何かがすとんと胃に落ちてくるのを感じた。それは諦念にも近い納得だった。
そうだ、空っぽだ。この絵には何もない。

だから驚いた。

『にしたって空っぽには程遠いだろ』

顔をしかめた彼が言ったとき、頭を殴られたような気がした。わかってもらえた。同時に微かに感じたそんな歓喜に自分で驚愕した。それは私がどこかであの絵のことを「空漠」だと思っていなかったことを、これでも込めたものがあるのだという主張が眠っていたことを意味しているからだ。

そうだ、空っぽだけれど、空っぽじゃないのだ。本当はそれをわかってほしかった。そう願うのも忘れていただけで。

「……」

スマホを取り出し、朱音に連絡を入れる。今日は部活に遅れる。短い吹き出しに必要最低限に詰め込んで、私はスマホをポケットに押し込んだ。
放課後に足を運ぶ場所はもう決めていた。





見学のためにこの体育館に訪れるのは二回目だ。

変わらぬ熱気とささやかな歓声が降るコートを入口の隅からそっと覗く。すでに練習が始まっていくらかたっているためだろう、人の出入りはほとんどなく、奇異の視線にさらされることもなかった。見学に来たはいいものの、ギャラリーの華やかな女子たちに混ざって彼らを見下ろすほどの勇気はなかった私にとって、それは実に僥倖だった。

「…いた」

先に見つけたのは松川だ。目が探し慣れているからだろう、彼の姿はすぐに視界に入る。後衛からレシーブ、弧を描いて緩やかに上がるボールは茶髪の男の子―――及川くんの手のひらに吸い込まれるように収まって、背の高い男の子が振り下ろす掌の元へ運ばれる。松川にタオルを届けた時に対応してくれた後輩の子だ。

目にも留まらぬ速度で突き刺さるスパイク、しかしそれは恐ろしい反射神経で相手コートのプレイヤーに拾われる。…松川に聞いたことがある、レシーブ専門のポジション、確かリベロだ。松川のももちろん熟練感があったが、坊主頭の彼のそれは職人技たる風格がある。どんな分野でも極めんとする人の技には滲み出るものがある。それは松川がスパイクを止めるときに醸すものと同じだ。

そっと視線を外したところ、思ったより遠くないそこに、ローテーションが回ってくるのを待っているのだろう、短い黒髪の背中を見つける。見慣れた、とは決して言えない後ろ姿。それでも私は確信できた。岩泉だ。
微動だにしない背中、そのまなざしはきっとコートで繰り広げられる模擬戦に向けられているに違いない。順番が回る。首にかけていたタオルを放った彼がコートに足を踏み入れる。

相手コートへ向く横顔、その研ぎ澄まされた眼光にぶわり、鳥肌が立った。

「…!」

来る。得体のしれない予感。何かの到来を待って全身の細胞が騒ぎたつ錯覚。
及川くんがちらり、岩泉を見やるのが見えた。感情を読ませない眼差しだ。けれどコートの空気が変わったのはわかる。
心臓が速度を上げて息が詰まる。でもそれはいつもの息苦しさとは何かが根本的に違っていた。

ボールが上がる。打ち込まれたそれは綺麗に返され、再び及川くんの長い指めがけて下降するのが見えた。岩泉が数歩後退する。上だけを、降りてくる三色の球だけを見据えた瞳が、抜身の刃の如く鋭利に閃くのが見えて、

「岩ちゃん!」
「おおッ!!」

きん、と耳鳴りがして、全ての音が蒸発した。無音状態の意識の中、映る色だけが彩度を上げた。

軽い摩擦音、飛翔を前に身構え柔らかく弾む膝。無駄なく鍛え上げられた脚に筋肉の流線が浮かび上がる。指先にまで漲る覇気が、急速に温度を上げてゆく。
高みだけを真っ直ぐに見据える瞳、触れれば切れそうな光のつるぎを宿した瞳。

来る。本能で察知した―――――跳躍。

「っ!!」

そこからはものの一瞬だった。勢いよく飛び上がった肢体が弓なりに宙を舞い、上昇を停止したその最高到達点から、逞しい腕が残像を残して振り下ろされる。吸い込まれるようにその手に収まった三色の球は、目にも留まらぬ速度で相手チームのコートに叩きこまれた。

鈍い打突音、軽やかでありながら確かな重量をもった着地が、床を伝い足裏を通して体を震わせる。ふ、と息をつく薄い唇、揺るがず前だけを見つめた瞳が静かに色を変えるのが克明に瞼に焼き付いた。耳元で鳴る心音が煩い。

「ナイスキー!」
「さっすがだ岩泉!」
「おう!」

仲間たちに肩を叩かれ、応じた彼が破顔一笑したその瞬間、すべての音が質量をもって私の聴覚に戻ってきた。止まっていた息が長く漏れる。

これ。なんだろう、これ。
爆発寸前の何かが私に訴えてくる。いつだって言葉になってくれない感情が、私の心臓を内側から突き破ろうと暴れまわっている。

形にしたい。この息苦しさを、閉塞した衝動を。
言葉になどなるものか。指が騒いでいる。じんじんと熱をもって騒ぎたつ。

「――――絵を、」

絵を描きたい。このひとを描いてみたい。
言葉にできない代替品じゃない。そんなもので昇華させたくない。こんな衝動は初めてだ。描きたいのだ。それがどれほど苦しくても、この手で描いてみたい。

「あの」
「?…どうかしたかい?」

夢遊病のごとく踏み込んだ体育館の内側、近寄った白線の外側。ベンチに腰を掛けた監督さんにかけた声は震えていた。言葉が出てこない。怪訝そうに首を傾げ、徐々に心配そうな顔をして腰を上げた監督さんに、気づけば私は譫言のように訴えていた。

「絵を…描かせてもらえませんか」
「絵?」
「絶対邪魔しません。端っこ、入口のところで構いませんから」

言い募る私に徐々に視線が集まる。気に留めなどしなかった。私が欲しいのはただ一言、構わないという許可だけがあればそれで十分だった。

151230
ALICE+