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途中経過から言って、私の試みは開始直後から壁に直面していた。

「…違う、」

これほどまでにモノを描けなかったことなんて未だ嘗て皆無だ。
鉛筆を折りたくなるほどのフラストレーション。梅雨のじっとりした湿度も相まって苛立ちが膨張する。
描かずにはいられないのに描けない、今まではいつもそうだった。それでもイメージさえまとまれば、あとは手が勝手に動いていたのに。

私の絵はいつだってそうだ。苦労するのは手のせいじゃない。幸いにもこの手はそれなりに画家の手をしているらしく、大抵は指示さえ出せば心にあるものをそのままキャンパスの上に映し出せる―――映すというよりはむしろ、そのまま吐き出すと言うのかもしれないが。
いつも足を引っ張るのは欠陥だらけのこの心だ。モチーフを選り好みするクセして、考えも感情もてんでまとめられず、形にも出来ない断線だらけの思考回路。

けれど今回は違う。むしろいつもとあまりに違うことばかりで、なおさら自分で自分の手綱が引けない。
描きたいものはわかっている筈なのだ。むしろ身を焦がすほどの衝動は、今も心の奥底で燻っている。それなのに描けない。何を描けばいいのかじゃない―――多分、どう描けばいいのかがわからない。脳味噌と手を繋ぐ回線がどこかで切れてしまったように。

「…っ」

赤くなった中指の第一関節が痛い。買うだけ買って開きもせずに本棚の肥やしになっていたスケッチブックは僅か四日で使い切ってしまい、今はまた新しいものを使っている。だがそれも同じペースで消耗しそうな勢いだった。

衝動に任せて鉛筆を放り出し、今日何枚目になるかわからないページをリングから力任せに剥ぎ取った。それをそのまま真っ二つに破り捨てる。形にならないいびつなモチーフの残骸を乗せては、最後には結局引き剥がしてゴミにする。ここ数日延々と繰り返している様式美だ。
それでも描くと決めたのだ。私はほとんど意地になって次の白紙を睨みつけ、

「ファっ!?」

次の瞬間、むき出しの首筋を襲った冷たい感触に、思い切り奇声を上げた。

「なんッ、」
「ぶっ…くく、おま、驚きすぎだろ、」
「い、わいずみ!」

がばりと振り向いた先にはしてやったりという顔で笑いをかみ殺す岩泉が立っていた。その手には結露した水滴を纏うスポーツドリンクのペットボトルが一本。本能的に手を当てて守りの体勢に入っている私の首筋を襲ったものの正体に、肩に入った力が一気に抜けるのが分かった。

「小学生か…!」
「ああ?うっせーよ」
「…心臓止まるかと思った」
「おーそうか、そりゃよかったな」
「心拍停止に伴うメリットとは」
「気分転換にはなるだろ」
「そんな命がけの気分転換したくない」

げんなりして言えばなおさら可笑しそうに笑う岩泉にじっとりとした視線を送る。最近になって分かってきたが、岩泉には変なところでガキ大将のまま育ってきたようなところがある気がする。
男子高生というものはみんなそうなのかもしれないが、彼は時折及川くんのジャージの袖を結んでみたり、通るのに邪魔という理由で花巻くんに膝カックンを入れてみたりと、なんだか小学生がするようなやんちゃを時にふざけて、時に素で見せることがある。

岩泉って意外と少年なんだね。休憩中の松川に一度こぼすと、呵々と笑った松川は「少年っつーか悪ガキだろ」と返し、通りかかった岩泉に無言で蹴りを入れられていた。男子同士のコミュニケーションはなかなかダイナミックだと思う。
そんなボーイズ・コミュニケーション(ただし蹴りは除く)がここ最近私にも適用されつつあるのは多分気のせいじゃない。一方の私もそれなりに遠慮なく言い返しているのでイーブンなのだが。

「ん」
「え?」
「水分補給しとけ。ここ結構暑いぞ、熱中症だの脱水症状だのンなったら困るだろ」

ひとしきり笑った岩泉が突き出したペットボトルに目を丸くする。まさか私にと買ってきたのだろうか。驚いて見上げた彼は早く取れと言わんばかりにくんっとペットボトルを突きつけられる。私はあわてて首を振った。

「いや、いいよ、だったら自分で買いに行くし」
「もう買ったから取っとけ」
「…せめてお金、」
「いらねーよ。スポドリぐらい奢られてろ。そんで次からちゃんと持ってきとけ」

奢られてろ、って。そんな命令あっていいのか。

そんな言葉はしかし、見上げた先のあっさりとした表情を前に藻屑となって消えてしまう。さっきまでいじめっ子を思い出すような悪い顔で笑っていたのと同じ人物とは思えない、一回りも二回りも大人びた落ち着きと余裕のある面持ち。
積んできた経験の差か、歩んできた道の違いか、単に性別の違いゆえか。その理由はわからない。ただその急な落差を目にする度に落ち着かなくなるから少し困る。

岩泉は眩しい。時折真っ直ぐ向き合うのが難しいほど、その瞳の透明度に、眼差しの眩しさに息が詰まる。

恐る恐る、差し出されたペットボトルに手を伸ばす。岩泉の手に収まるそれは私が知るそれよりずっと小さく見えた。
そうか、この手がいつもあの力強いスパイクを打っているのか。不意に思った途端、急にその手が今までとはまるで違ったものに見えて、私は思わず目をしばたかせた。

テーピングが施された薬指と中指、切りそろえられた爪。節くれだった指は私のものよりずっと武骨で、その先に延びる腕は筋肉質で逞しい。どんな温度なんだろう。感触は、硬さは、肌触りはどんなだろう。

ペットボトルが手の中に収まる。彼の手が離れていった。ゆっくりと引き戻した思考回路で、一番良い言葉を選び出した。

「…ありがと、今度お礼する」
「律儀なヤツ」
「岩泉が気前良すぎるんだよ」
「誰彼構わずしてるわけじゃねーよ」

呆れたように笑って体育館の中心に戻ってゆく背中に、一瞬ぼうっと呆気にとられた。…体が熱い。なんだろう、室温が上がったような気がする。結露した冷たいペットボトルをしばらくじっと見つめていたら、勝手に言葉が転がり落ちてきた。

「…なんだそれ」

急に喉が渇いているのがわかって、ペットボトルの蓋を捻る。口をつけたそれは酷く美味しく、渇いた体に染み入るようで、一気に半分近く飲み干した。身体が火照っていたのを感じる。もしかしたら熱中症なりかけていたのかもしれない。

「北村ー…って」
「、松川」
「どしたん、ぼーっとして。暑い?」
「うん、なんか…結構暑かったみたい」
「お前ね、気ィつけろっつったろ?アクエリかなんか買ってきてやるからちょっと待ってて」
「や、平気。今ちゃんと飲んだとこ」
「そうなの?」
「うん。岩泉がくれた」

頷いて飲みかけのそれを見せれば、松川は驚いたように瞠目して私を見やる。その様子にちょっと笑って、私はペットボトルを椅子の横に置き、再びスケッチブックに向き合った。
ごちゃごちゃとはっきりしない色んなものをかき分けて、一番記憶に新しい肌色を思い出す。波立っていた心は今しんと凪いでいた。大丈夫、何を描けばいいか、今ならちゃんと指先にまで伝わってくる。


その日の残りの時間すべてを使って、私は一つの手を描いた。
ペットボトルを握る手。後輩の頭をかき撫で、仲間の背中を叩き、幼馴染を結構な力で容赦なく殴り、力強いスパイクを打つ手。私が知る限りの、岩泉の手。

この日私はスケッチブックを開くようになって初めて、途中で破り捨てることなく何かを描き切ることが出来た。

160112
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