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じわじわと鳴くセミの声が鼓膜を一杯に満たして揺れる。
夏の足音がすぐそこまで迫っている。まだ微かに梅雨の名残を残して蒸し暑い空気に、突き抜けるような青空が眩しい。私は昼食を済ませた後、朱音と共に連れ立って購買でジュースを買って戻ってくるところだった。さっそく結露を始めたパックジュースを手に、私たちはゆっくりと階段を上る。

「紫乃ってさ」
「うん?」
「バレー部で人描くの?」
「……まだ決まったわけじゃないけど」
「え、そうなの?」

拍子抜けしたみたいに驚く朱音に頷いて見せる。バレー部に見学に行ってくる、そう告げた時、朱音はまじまじと私を見て、「まさかとは思うけど…及川くんのファンになったとか?」と尋ね、対する私は「ごめん、その人の顔出てこないんだけど誰だっけ」とい返し、部員たちの爆笑並びに失笑を買った。この学校で及川くんの顔と名前が一致しないのは珍種を通り越して絶滅危惧種だという。失敬な。顔見たらちゃんと思い出した。

そんな小話はさておき、朱音は私が足を使ってまで能動的にモチーフ探しに出たことが意外なのだと話した。確かに勢いだけで行動に出るのは自分でも珍しいと思う。

「じゃあ描くかもしんないんだ」
「まだ全然形にならないっていうか、完全に行き詰ってるけど」
「ふうん…じゃあまた色だけの絵になるかも?」
「…どうだろう」

曖昧に濁した答えに、しかしどこか意識の根底で、そうはならない予感はしていた。ここ三日ほど、私はずっとボールを追う手やスパイクの足を描いていた。その時点でこの体に巡っている何かは形を持つもののはずだとわかっている。

「朱音はどうやって描いてるの、いつも」
「私?うーん…テーマで困ることがあんまりないかなあ。でも想像したり、抽象画とかは苦手。大体自分が見たり知ってたりすることじゃないと膨らませらんないの」

朱音の言うことは何となく理解できた。彼女の絵は何というか、彼女の知るところ、見るところ、聞いたところを人に伝えるのが上手いように思う。同じ光景でも見る人によって受けた印象は違う。そして朱音の絵は特に光の表現を用いて、彼女自身が心動かされたところを鮮やかに浮かび上がらせるのだ。

この前の彼女の絵、あの早朝の森の絵もまたそうだった。コンクールで賞を獲ったのは表現部門。朝霧に包まれた森に立ち込める湿度を帯びた夜明けの気配、幻想的な陰影が高く評価されていたはず。

「スケッチしたりはしてないの?」
「それは最近やっと」
「へえ!すごいじゃん、紫乃にしては早いほうじゃない?」
「うん、多分」
「何描いてるの?」
「手とか…手」
「手だけじゃん!でもそれってギャラリーから見えるの?遠くない?」
「ああ、ちょっと前から体育館の隅っこに場所貰って見てるんだ」
「え、嘘そんなの聞いてない!」
「え、だって言ってない…」
「なんで言ってくれないの!」
「いやなんで怒られてるの私」

ぷんすかと言い募る朱音が面白くてちょっと笑ってしまう。感情に素直な彼女の表情がくるくる変わるのを見るのは楽しい。その膨れた頬はしかしすぐにしぼみ、彼女はどこか伺うような表情を浮かべて私を見た。

「…ギャラリーの女の子から何か言われたりしない?」
「特に何も…ああ、及川くん関係?ないよ、ほとんど知らない人だし、そもそも部員さんと会話すること自体ほとんどないから」
「あ、そっか…みんな部活中だもんね」

及川くんにファンクラブ的なものが存在すると聞いたのはごく最近だ。部の後輩にも最初は少し勘ぐられたっけ。とは言えほとんどの子たちは私がそんなタイプじゃないことを知っていたし、むしろ余計な詮索をされるんじゃないかと心配すらしてくれた。朱音もまた、一人だけ特別待遇だとか、及川さん目当てなんじゃないかと私が因縁をつけられやしないかと気にしてくれていた。幸い現状そんなことはちらりとも起こっていないが。

「松川も声かけてこないの?」
「松川はたまに…なんかお母ちゃんみたいな心配してくる。水分取ってるかーとか」
「うわーなにそれ、めっちゃ大事にされてるじゃん!」
「え、信用ないだけじゃない?ほっといたら干からびてそうとかそういう」
「そんな植木鉢の花みたいな言い方…」
「いや亀だな。観察池の」
「紫乃もうちょっと自分を女の子扱いしてあげて、私が悲しい…!」

言いながらもそんなフォローと裏腹に、階段から落ちないか心配になるレベルで大爆笑する朱音が私は好きである。

加えて最近はとくに、岩泉も私をあれこれ気にかけてくれていると思う。これは多分私がぼさっとしてるからだ。
例えばアクエリを貰った時くらいから、彼は時折私に場所移動を命じにやってくるようになった。初めはよくわからないまま従っていたが、徐々に練習の全体像を掴めるようになるにつれ、それがサーブ練で流れ弾の及ばない場所であったり、日が傾いてから直射日光の当たらない場所であることがわかってきた。

大抵は一言で済む指示と了承、そこに会話らしい会話はない。けれどその意図を理解した次の日、言われる前に移動してみれば、ちょっと驚いた顔をした彼は私を見、「わかってんじゃねーか」なんて笑って練習に戻っていった。
連続した会話は少ない。けれど私は表情を隠すのが上手い方ではないし、岩泉はいつだって実直で真っ直ぐだ。言葉にする前に大体の会話は終わってしまっている、言うなればそんな感じかもしれない。

「、あ」

ゆっくりと進んだ廊下、先にたどり着いた朱音のクラスの窓から、そろそろ見慣れてきた黒髪が見えた。窓枠に腰掛け、教室の中の誰かと楽し気に談笑する背中がこちらに気づいた様子はない。
厚みのある背中だ。シャツに包まれたそれを視線で追い、行き着いたその逞しい首筋にふっと蘇る記憶があった。手の中にはまだ冷たいパックジュース。むくむくと湧き上がってきた悪戯心に頷いた。名案だ。

「あ、岩泉」
「うん」

ほぼ同時に気づいた朱音に頷き、私は少し歩を進めて先に出る。それからその背後に回り込み、彼と相対して談笑していたであろう松川と目が合うより早く、パックジュースを岩泉の首筋にひたりと押し当てた。

「っぅお!?」

がったん。びくりと体を跳ねさせて窓枠から飛び上がった岩泉が、しかしさすがの運動能力でバランスを持ち直し、派手な音を立てながらも教室側の床に無事着地する。
窓枠を挟んだ彼が反射的にだろう、首筋を守るように手を当ててがばりとこちらを振り向いた。その予想以上の反応の良さと私を見下ろし目を白黒させる表情に、むしろこっちが驚いて、一拍おいて笑いが駆け上ってくるのがわかった。

「おま、…ッ!?」
「っふ、はは、あははは、」
「…おい北村、」

現状を呑み込んだんだろう、呆れ半分怒り半分、こめかみに軽く血管を浮かせた岩泉がいろいろ言うおうとする。その鼻先に結露したパックジュースを突きつけ黙らせた隙に、してやったりの気持ちと感謝の気持ちを混ぜたまま口角を上げ言った。

「お返し」

朱音が、否、朱音だけではなく、岩泉の周りにいた及川くんや花巻くん、そして松川が、驚いた様子で私を見る。けれど岩泉はその一言ですべてを察したようだった。怒っていいのかお礼を言っていいのか、きっと私だったらちょっと迷う。思った通り岩泉も同じで、結局彼は言葉を投げだし呆れ顔をしかめて紙パックを受け取った。
もう片方の手が伸びてくる。あっと思って身を引けば、彼もまたはっとした様子でその手を止めた。宙に留まる腕が、ぎこちない顔をした岩泉の元へ誤魔化すように戻ろうとする。その瞬間私は思わず口を開いていた。

「平気。及川くんレベルでなければだけど」
「え、俺?」

再び豆鉄砲を食らったような顔をした及川くんが声を上げる。それ以上に驚いた顔をしたのは岩泉だった。引っ込めかけた腕が再び空で止まる。まじまじと私を見る岩泉の純粋な驚きが、きらきらとまばゆい光の粒になってその視線から注がれた。それまでなんでもなく見上げていた岩泉の瞳から、一瞬目を離せなくなって、そして。

「…、」
「った」

大きな手が逆進し、私の頭に伸ばされ、岩泉は髪を払うように私の頭を軽くはたいた。受けた力に逆らわず頭を下げれば、一瞬だけ焦ったような顔をする岩泉に思わず笑みがこぼれる。本当は痛みなんてほとんどない、反射的な反応だ。それを伝えるために口元だけで笑って見せれば、呆れたような一瞥を食らう。ますます楽しくなって息だけで笑っていれば、岩泉もふっと目元を綻ばせた。

「好きなのか」

岩泉が言う。その視線が手元の紙パックに注がれているのを見て、私は頷いた。

「うん、好き」

ちっちゃいころから。そう言えば岩泉はニッと笑い、俺もだと返すとストローを突き刺し口をつける。ぐんぐんヨーグルは私の小さなころからのお気に入りなのだ。

ともあれこれで体育館での借りと復讐は一度に返せた。私は体の向きを戻し、突っ立ったままの朱音に「じゃあ後で」と言って自分の教室に戻るべく足を踏み出す。すると朱音が慌てたように私を呼び止るので、首を傾げて彼女を振り返った。

「紫乃、今のって…え?どういう…」
「…?ごめん、何の…」

ことかわからない、と言う前に鳴る予鈴。まずい、次は現代文だ。思い出した私は「ごめん後で聞くから」と朱音に言い残して駆けだした。あの先生はいつも授業初めに小テストをするのだ。昨日見たから大丈夫だとは思うが、最後に確認だけはしておきたい。



「…え、岩ちゃん、今の会話なに?全然ついていけなかったんだけど」
「あ?どこがだよ。んな難しい話してなかったろ」
「いや、今のわかってたの間違いなくオマエら二人だけだったから」
「マッキーほんとソレね。主語も述語もあったもんじゃないっていうか…いつの間にそんな以心伝心?まさか青い春が来ちゃったとか?」
「はあ?なんでそういう話に直結すんだよクソ川。つーか大体わかんだろ、アイツ結構わかりやすいし」

なあ松川、ああ、成瀬も。

至極当然のように話を振られた朱音は瞠目し、僅かに上擦ったままの声で「え、ああ…うん」と曖昧に頷いてみせる。松川は一瞬黙し、それから「まあ、確かに慣れればな」と淡々とした声で応じた。岩泉はとりわけ朱音の反応に怪訝そうな顔をしたもののそれ以上追及することはなく、それ見たことかと及川・花巻両陣を見やる。

しかし見られた方の二人は互いに目くばせした一瞬で、各々のセンサーが感知した微妙な空気の揺れを確かめ合っていた。小石を投げ込まれたあとの水面がそうするように広がる波紋。大したものではない表面上の波だ。けれど大嵐というものは時に、一羽の蝶の羽ばたきから生まれることもあるのである。

160122
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