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「やっほー北村さん…と、あれ、成瀬さん?」
「わっ、お、及川くん」

普段は私の手を引いてぐんぐん前に出る朱音は、なぜかこの体育館にやってくるときは引け気味に私を盾にする。体育館独特の神聖不可侵な空気に一際敏感なのか、そわそわと様子をうかがっていた朱音は、背後から飛んできた明るい声にも緊張気味に応じた。

大きな両の掌の間に挟んだバレーボールを胸前に、こちらへと少し前屈みになる及川くんは、人の好さそうな笑みを浮かべて首を傾げる。見れば見る程造形の整った彼がすると実に様になる絵だと思うが、私はこういう及川くんがどうにも得意じゃない。仏頂面で物言いも荒い岩泉の方が近づきにくいと女の子たちは言うけれど、私にしてみればこういう時の、何を考えているのか綺麗に覆い隠すことのできる及川くんの方がどう対応していいかわからない。
しかし背中の朱音に自己申告する勇気はないらしく、仕方なく私から申し出る。

「…今日は朱音もデッサンしたいそうなんだけど、大丈夫?」
「へー、成瀬さんも見学?いいよー多分、あっでも一応監督には断ってくるね」
「あ、ありが…じゃないや、私もご挨拶行くよ!」
「えー?そんなわざわざいいのに」

ぱっと顔を明るくした朱音はデッサン道具を小脇に、及川くんについて監督さんの元へ駆けてゆく。自分もバレー部の見学に行きたいと朱音が言い出したのは、部活が始まってすぐのことだった。その唐突さに驚きはしたものの私に断る理由はない。うちの顧問の許可が出ているなら問題ないし、とりあえず行ってみるかと一緒に赴いた先、やはりというか特に問題なく見学できそうな流れに、私はパイプ椅子を二つ出すべく倉庫に向かった。




「え、コレもしかして岩泉?」
「うわっ、は、花巻!?」

活動開始から一時間ほど経ち、十分休憩が始まってすぐ、ひっくり返りそうな朱音の声に思わず顔を上げた。椅子二つ分ほど隣でデッサンに取り組んでいた彼女の背後に立つのは花巻くんだった。色素の薄いペールブラウンの髪は汗を滲ませきらきらしている。色白の肌に馴染む窓越しの陽光がまばゆく、淡い色合いの人だと思った。
唐突に覗きこまれたのだろう、焦った様子でスケッチブックを仕舞おうとする朱音に、しかし周りにいた人の興味はすでに彼女の元に集まっていた。

「ちょ、見して見して」
「え、いいよ恥ずかしい。ラフだし下書きだし…」
「なになにマッキーどうしたの?」
「成瀬さんの描いた岩泉がすげーの。ホラ」

やってきた花巻くんが及川くんのためにスペースを空ける。私も立ち上がり、彼女の膝の上のデッサンをそっと覗きこんだ。スケッチブックの真ん中には、斜交いのアングルから斜め向こうへ目線を投げる男の子の顔が一つ。岩泉だ。私は思わず朱音の絵に見入った。

「うわすっごい!これ一時間で描いたの?」
「おーすげぇ、岩泉だ」
「え、そんな…鉛筆だし、結構雑だよ」

真剣な目元には力があり、引き結ばれた唇には武骨な印象が滲んでいる。彼を知らない人であっても、その絵が誰を描いたものか本人の顔を見れば一致するに違いない。朱音らしい、迷いのないデッサンだ。

「おー岩泉、お前モデルになってんぞ」
「あ?なんのだよ」
「絵の!」

ジワジワ、セミの声がする。ぱちん、目の合った岩泉は、手元のタオルで無造作に首筋の汗を拭いながらこちらへ歩み寄ってきていた。私は一歩脇に寄って彼のためのスペースを開ける。それからふと思い出し、私は放置したままの自分のスケッチブックを見やった。直射日光を受けるそれは白紙のままで、そういえばページをめくったばかりだった思い当り、少し安心した。太陽を反射する白の向こうに、今日も今日とて出来そこないのデッサンは葬られている。思うと少しだけ息が苦しくなって、私は視線を朱音の絵へ戻した。

「ちょ、いいよ岩泉は見なくて!」
「何をだよ」
「ほらコレ、岩ちゃんだよ。すごいよく描けてるでしょ?」
「…へえ、ホントだな」

岩泉の様子をうかがう朱音は少し緊張気味に見えた。モデルに描いた絵を見られるのは緊張すると彼女が言っていたのを思い出す。それでも岩泉らしいというか、素直に感嘆した様子に彼女はいくらか安心した表情を見せた。

「俺こんな顔してんのか」
「あ、うん、大体は。でもやっぱりちょっと想像補正が入っちゃうかな」
「ていうか何で岩泉さんなんですか?」
「それ思った、なんで?」
「え、…そうだなあ…クラスが同じで、一番モチーフにしやしかったっていうか。ほら、ここから遠目だし、ある程度記憶にないと描けなくて」
「確かに、コート上じゃ動くしな」
「うん、そう、そんな感じ」

考えるような口調で朱音が言う。朱音はモチーフ選びにあまり拘らないタイプだ。描きたいものを描く、その引き出しがたくさんあるから迷うことは少ない。ただ彼女曰く感覚で選んでいるときも多いから、理由を説明するのは難しいこともあるのだという。

「ね、紫乃はどう?」

順調な会話に幾分かリラックスできたんだろう、朱音は私を振り向き評価を待つ瞳でこちらを見つめた。
私の足りない言葉でどうこう言うよりずっと的確で整った感想を贈る人は山ほどいるのに、彼女は時折こうして私の批評を求める。それがどういう心理からくるのかはわからないが、いつも私の足りない言葉を笑って拾ってくれる彼女に少しでも応えようと、私もまたこの時ばかりは足りないボキャブラリーを総動員させることに決めている。

背中を屈め、スケッチブックに顔を寄せ、浮かぶ黒鉛の軌跡を滲ませないよう気を付けながら指でなぞる。息を詰めて、繊細なタッチの柔らかさを感じ取る。迷いのない軌跡だ。

私にはこうは描けない。思ってしんと冷える心臓に、仕方ないだろうと宥めるように息を吹きかけて、私は笑みを浮かべて頷いた。

「…優しいタッチだね。でも迷ってない。朱音らしくて好きだよ」
「あーやっぱり弱い?紫乃みたいに描きたいんだけどなあ…あっじゃあ紫乃のはどんな感じ?」
「私の?私はいいよ、描き損じばっかだし」
「嘘、あんな真剣な顔で描いてて描き損じなんてあり得ない」
「真剣に描き損じたんだよ」
「副詞と動詞が全然噛み合ってないんだけど」

朱音は随分と食い下がったけれど、私は決してスケッチブックをめくることはしなかった。私が描ける彼は手だけだ。スパイクを打つ寸前の力の漲る手のひら、助走に入る前の弛緩した指先。描けるものは全部描いてみようとがむしゃらに鉛筆を走らせて生まれるものがある、それは私の微々たる前進を示すようで、ほんの少し感じた嬉しさはしかし、見る間にあっけなく萎んでしまっていた。

朱音は私と違って、今日の数時間で十分なデッサンを仕上げることが出来る。描きたいものを描きたい仕方で表現できる。
それに比べて、私の絵は欠陥品だ。けれど、誰かと比べて卑屈に落ち込む私自身は、それ以上にもっと欠陥品だ。

「北村はなんも描いてねぇの?」

いつの間に輪の外に出ていたのか、松川が不意に私の方を見下ろしごく小さな声で問いかけてくる。何人かの視線がこちらを向いたが、私の膝上の白紙を見やり、その興味は再び朱音の絵に向かうのがわかった。私は迷い、それから首を振った。

「どう描いていいか、よくわかんなくて」
「…描きたいもんは決まってんの?」
「……た、ぶん」
「そらまた曖昧だな」

頷きかけた頭を結局脱線させた私に、松川が呆れたように笑った。いつもこんなんだよ、と返した自分の声はどこか拗ねていて、私はバツの悪い思いをして黙り込む。けれど「お前らしいね」と返した松川の声は、呆れても笑っても決して否定することはなかった前部長と同じ響きをしていた。
きっとだからだろう、見せてよ、なんて大きな手を差し出した松川の手に、私はほとんど無意識に自分のスケッチブックを差し出していた。ぱらぱらり、厚い紙をめくる音が耳の上から降ってくる。不意に松川が言った。

「…北村さ、俺の手、描ける?」
「松川の?…わかんない、ちゃんと見れば描けるかもしれないけど…」
「それじゃない?描けない理由」
「え?」
「『知らない』から」

前から言ってるけど、俺美術とか全然詳しくないし、花巻とか俺の絵見たら絶対爆笑するし、信憑性とか全くない感想なんだけど。

「北村の絵って、手に取れるものを描いてるときが一番いきいきしてる気がする」

ジワジワジワ。蝉の声が急に大きく聞こえてきた気がして、私は大きく目を見開いた。

言われてみて急に気づいた。模写が楽なのは何故だろう。そこに実物があるからだ。触れて眺めてそれを『知る』ことが出来る。形を確かめ、光に照らして色を『見る』ことが出来る。
想像力を駆使した抽象画が描けないのは何故だろう。私の絵が『創作』じゃないからだ。私は無から有を生み出せない。抽象画でさえ、その源にあるのは私が吐き出し損ねて腐らせた感情の吹き溜まりだ。
なら、人を描けないのは、描けなくなったのは何故だろう。

紫乃。

考えるまでもなかった。
鼓膜の遠い向こう側で、懐かしい声がする。息を深く吸った。そうだ、あの人を描くことが出来たのは、私があの人のことをちゃんとよく知っていたからだ。声も瞳も手の温度もやさしさも―――それでもあの人の方が、私のことをずっとよく知っていた。

心臓が千切れそうで、吸っても吐いても息が出来なくて、だから描かずにはいられなかった。
けれどそれなら今こうして、岩泉を描きたいと思うのは何故なんだろう。

「…松川って」
「うん?」
「すごいね」
「うん、すごいでしょ」
「よくそんな見てるね、人の事」
「…人っていうか、北村のことだけどな」
「ふうん」

休憩の終了を告げるホイッスルが鳴った。松川は私にスケッチブックを差し出し、私はそれを受け取った。ま、無理すんなよ。ぽすりと頭に乗った大きな手に促されるようにして頷けば、松川はコートに駆け戻っていった。私はスケッチブックを見下ろした。手が描けるなら、足はどうだろうか。シューズにつつまれた爪先、サポーターを纏う膝。



「…伝わってねーよなあ、全然」
「まっつん今なんか言ったー?」
「いんや、」

ただの独り言。

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