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「おっす」
「はよ」

ちゅんちゅん、雀の朝の囀りが静かな朝の空に溶ける。夏休みを迎えた七月の終わり、それでも早朝、陽の昇りきらない白んだ空の下は、ひんやりとした静謐をまとって朝を待っている。

時刻は早朝、場所は我らが青葉城西高校校門前。私の目の前にはジャージに身を包んだ隣のクラスの男の子兼、バレー部副主将の岩泉一。
夏休み初日からわずか三日の今日、登校期間ですら経験したことのないこの時間に、つい数ヶ月前に知り合った同級生の男子とこうして待ち合わせる。そんな事態になったのには、深くて浅い訳がある。

こういうのを縁と呼ぶんだろうか。大げさかもしれないが不思議なものだ。感慨深く思う私をよそに、挙げた片手を下ろした岩泉はこちらを見て口端を吊り上げると、短く私を促した。

「じゃ、行くぞ」
「、うん」

すう、と吸い込む胸を膨らませるかすかな高揚感はきっと、そんな非日常感から来るに違いない。遠足前の子どものようにわくわくする足取りは軽くなって、私は人差し指にひっかけた銀のカギをくるくる回す岩泉の背中を、靴音を鳴らして追いかけた。




きっかけは私の何気ない一言だった。

『屋上、いいなあ』

学園モノの漫画や小説によくある定番スポット、学校の屋上。告白スポット、格好のサボり場所、あるいはイジメだ何だの呼び出し場所まで、スクールライフのあれやこれやを演出するにはもってこいのちょっと特別な空間。
しかし実際の現実世界では転落防止などのため、屋上に上がることは基本的に許されていない学校が大半だ。ここ青葉城西ももれなくそんな学校の一つであり、屋上へ通ずる扉は常に施錠されている。

そんな屋上に人が上がっているのを見かけたのは先週の金曜日。作業着を着た大人が数名屋上を行き来しているのを見て、何かの点検か工事だろうかと思いつつ、ほとんど何の意味もなく呟いたのがその一言だった。いいなあ、行ってみたい。目的も理由もないただの憧憬だ。けれどそれを拾ったのはタオルで汗を拭っていた岩泉だった。

『北村、屋上行きてぇの?』
『、ああ…うん、行けるなら行きたいと思うよ』
『じゃあ今度連れてってやるよ』
『え?』
『合鍵。あるんだよ、男バレに』

ニヤリ、得意げに言った岩泉が悪そうな顔で笑ってみせるのを、私は目をしばたかせてぽかんと見ていた。屋上の合鍵が何故男バレに存在するのかももちろんだが、それ以上に私が呆気に取られてしまったのは岩泉の表情だった。なんだその悪ガキみたいな顔、一体どこに仕舞いこんでたんだ、そんな表情。

『…男子ってすごいね』
『いや、男子なら誰でも持ってるわけじゃねーべ?』
『いや、そういう…うん、まあ、いいや』
『なんだよ、歯切れ悪ぃな。言いたいことあるならはっきり言え』
『いいよ、ちょっと思考脱線してただけ』
『…、結局行くの、行かねぇの』
『え、ホントに連れてってくれるの?』
『最初っからそう言ってんだろ』

行けるんならもちろん行きたいとも。岩泉の気が変わらないうちにと慌ててぶんぶん首を振れば、彼は軽く噴き出して、「なんだそのカオ」なんて人の顔を見て笑った。いやあなたには今一番言われたくないぞその台詞。なんて思いつつ、まあ相手は私だしなと頷き、ただ「他の女の子にそんなこと言っちゃだめだよ」と真面目に申告すれば、岩泉は仏頂面になり、通りかかった一年生が肩を震わせて笑い出した。

「国見てめぇ、」とすごまれながらも笑っていた彼は結構な笑い上戸さんらしい。クールな見た目通りあまり表情に動きのない印象があった彼は、同輩らしき子に止められても懲りずによく笑っていた。やっぱり男の子とはよくわからない生命体である。


ともあれひょんなことから決まった屋上ツアーwith岩泉は次の週の朝練前、つまり本日の早朝に決行されることとなった。理由は単純、部活動がなく人目の少ない時間帯は必然的に限られてくるからだ。岩泉は朝起きに関しては苦はないと言い、ならば私も問題ないと答えて、早朝に校門前にて待ち合わせた。それが経緯である。

しんと静まり返った校舎の階段に二人分の足音が響く。非日常の気配に浮き足立った気持ちと、同級生の男の子と二人きりという慣れない(どころかむしろ未知の)状況に感じる緊張感で、心境はなんだかアンバランスだ。
色にしたら何色だろう。思い描いたそれはいつもと違って素直に形になった。淡い橙色、柔らかいレモンイエロー。普段はあまり使わない色だ。

「その合鍵って、なんで持ってるの」
「ん、ああ、なんか先輩から代々引き継いでるんだよ」
「へえ…いつからぐらい?」
「さあな。少なくとも俺らが入る結構前からあったみたいだな」
「よく使うの?」
「いや、そんなに。大抵のことは部室で済ますし、あんま頻繁に使うと取り上げられるかもしんねーから」
「じゃあ黙認ではあるんだ」
「多分な。監督とかは知ってる」
「そんな機密事項、部外者のために使って大丈夫なの」
「北村はそういうの、言いふらしたりしないタイプだろ」
「…まあ、言いふらす友達がいないし」
「んなことねーだろ、なんでそこで自虐」
「話すの下手だから。女子の輪に入るの、難しい」
「そうか?」

黙々と階段を上るばかりだった背中が振り向く。朝日が昇る少し前、窓に切り取られた淡い金色の光が微かに逆光を作り出す中で、岩泉の鋭い三白眼が二度瞬いた。

「俺はオマエくらいの方が話しやすくていいけど」
「、…」
「煩ぇの得意じゃねーんだよ」
「…そっか」
「おう」

岩泉は再び背を向け歩き出す。私はその大きな背中を数歩分見送って、それから一段飛ばしで階段を上った。さっきまで三段分後ろにいた歩みを、岩泉の一段後ろにまで縮める。ちらり、岩泉がこちらを見るのがわかってけれど、何でもないふりをして足元だけ見ていた。

「じゃあ、うん。いいや」
「まあ今日は結構喋ってるけどな」
「え、ごめん。黙る」
「ちげーよ、別に煩いとかじゃなくて、珍しくつっかえてねぇなってことだよ」
「普段コミュ障だって?知ってる」
「だからなんでそんなネガティブ」
「仕様です」
「返品すんぞ」
「せめて屋上行ってからで」
「どんな行きたいんだよ…」
「昨日わくわくしてちょっと寝れなかった」
「遠足か!」

耳ざわりの良い低音がよく通る笑い声をあげる。狭い階段に響くそれが鼓膜を一杯に浸すのが心地いい。そこはかとなく感じていた緊張感はいつの間にかほどけて遠のいていた。一緒になって笑っていたら、気づけば階段は終わりを迎えようとしていた。

「おし、ついたぞ」

ポケットから鍵を取り出した岩泉が古びたドアノブにそれを差し込む。軋んだ音を立てて回る錠、ぎいぎいと音を立てて開いたドアの向こうから、陽光に乾かされる前の水気を含んだ朝の風が吹き込んできて、心臓が沸き立った。

「う、わ…!」

目を見張る。屋上には青空を映した水たまりが点在していた。白む空と一足先に朝日に染まりたなびく雲。アスファルトの灰色に散らばる青を映した水鏡が風にさざめく。蒼い。そうか、昨日の晩は確か雨だったっけ。

赴くままに足を進めて、手すりの傍まで寄ってみる。山入端を温める朝日の金色が眩しい。もうじき顔を出そうとするそれに名残惜しさが沸いてきた。息を吐く。目は離せない。呼吸が少し苦しくなる。
でもいつもの鬱屈したどうしようもない閉塞じゃない。もう少しこの蒼い世界を見ていたいという、息の詰まるような切迫感。

「…気に入ったか」
「…うん」

岩泉の静かな声が静寂をさざめかせて溶け込んでいく。全身で感じる朝の気配。頬を滑る風とゆっくり近づいてくる夜明けの終わり。
あふれ出すように差した朝日で目がくらむまで、私はじっと日の出を見つめていた。少しずつ色を変える空、まばゆい光の粒を瞼で受け止めて、まつ毛に乗せるように目を閉じる。

そっと息をついて、それから我に返って岩泉の姿を探した。はっと横を見たそこには、私をまじまじと見つめる双眸と視線がかち合った。
朝日を受けて透き通る瞳の、意志の強い真っ直ぐな瞳。透け入る瞳孔、射抜いた心臓を浸すような眼差し。ああ、これ、また。

「…もういいのか?」
「、…うん、ごめん、私」
「すげぇ真剣で一瞬ビビったわ」
「ごめん」
「別に謝ることしてねーだろ。…むしろ、連れてきた甲斐あった」

ふっと笑んで朝日に視線を投げた岩泉の目がなんだか酷く優しげで、急に全く違う緊張感が足元から駆け上ってきた。手すりを握りこんでいた手を今更慌てて引っ込めるけれど、きっと子どものように朝日に見入っているのをじっと見られていたに違いない。緊張感が一緒に連れてきた羞恥心が頬を焼く。心臓がじんじんと落ち着かなくて、私は階段での饒舌さを放り出し貝のように黙り込んだ。

「…なあ」
「…なに?」
「あの青い絵、ホントはなんて名前なんだ」
「、…」

岩泉の言う絵が何の絵かは、すぐにわかった。それでも彼の声はいつも通りで、私は少しだけ落ち着きを取り戻して顔を上げる。きらきらと眩しい太陽は夏を引き連れて一日の始まりを告げ知らせている。もうあの静寂も、しんとしめった夜明けの終わりもない。

「…もともと、名前つけてなかったんだ」
「なんで?」
「なんて呼べばいいかわかんなくて。でも、コンクールに出すにはタイトルがいるから、結局顧問が代わりに」
「じゃああれ、何描いた絵だったんだ」

迷いのない質問に対し返答に詰まる。明確な答えは多分ないし、たとえあっても他人に言いたいと思える気はしなかった。けれど、岩泉なら、私の足りない言葉でも伝わる気がして、私は拙い単語をかき集めてつなぎ合わせる。

「…上手く、言えない。私、多分、描きたくて描いてるわけじゃないから」
「好きでやってるんじゃねぇの?」
「嫌いじゃないんだけど…描きたいっていうより、描かずにはいられないっていう方が強い、と思う」

自分の、感情とか、考えてることとか、昔から上手く説明できないことがたくさんあって。言えないだけならいいけど、自分でもわかってないっていうか。わかんないから整理もできないし、どうしていいかわかんなくて、

「……今もたまに、すごく苦しくなる」


小さい頃、それこそまだ幼稚園程度の頃に描いた自分の絵の意味を、中学校になって理解したことがある。
画用紙の上半分は真っ赤、下半分は真っ青に塗りつぶしただけの二色の絵。クレヨンの荒いタッチのそれをたまたま押し入れの中から見つけたその時、私はほとんど十年越しに当時の私の言いたかったことを理解した。青が海で、赤が太陽。私は多分、海に行きたかったのだ。

普通の子であればきっと言葉で親に伝えただろう。けれど私は自分が何を"したい"のかがわからなかった。どう"言えば"いいかわからなかったんじゃない、それ以前の問題だった。

「だからいつも、描かないと、どんどんそういう、よくわからないもので息が詰まってきて」

ピークを越えると、ああいう絵が出来上がる。形にも言葉にもならなかった感情の残骸をただひたすら吐き出すために、山ほどの絵具を使って描き上げるハメになる。

「…コンクールとか、才能なんて全部こじつけだ。先生がつけたタイトル、ホントは嘘じゃない。当たってる」
「…、」

天才。
及川くんがいつだったか私に向かって言った悪意のない二文字は私を凍り付かせた。幻想どころかいっそ詐欺だと思う。才能とはもっときらきらして、尊くて、傷ついてもすり減っても燦然と輝く、そんな美しさを持つものだ。

私は違う。私の絵は空漠だ。どうしようもないいろいろを詰めただけで、芸術作品としてはまったくの空漠。独り善がりなだけの絵に、意味を見出したいのは欠陥だらけのこの心。

「俺はそうは思わなかったけどな」

手すりに背中からもたれかかり、両肘を預けた岩泉が何でもないようにこちらを見た。何を言っているんだと言いたげな表情にこちらが戸惑うのも気にせず、彼は朝日に背を向けたまま、あの真っ直ぐな瞳を前に戻して言う。

「色も暗いし、すげぇ重苦しいのに、透き通ってるっつうか…根こそぎ意識持ってかれたよ。絵具とか塗り方とか、詳しいことはなんもわかんねーけど、何もなしに色だけであんな存在感出せねぇだろ」

言葉のつぶてが次々と鼓膜にぶつかり砕け散る。心臓が熱い。気づけば手のひらを握りこんでいた。

岩泉がこちらを見る。私を見た彼はちょっと驚いた顔をして、「なんつう顔」なんて呆れたように笑った。その大きな手が不意に伸びてきて、頭をくしゃりとかき混ぜられる。びっくりして肩が跳ねそうになるのを無理やり堪えて棒立ちになった。そうしてしまえばきっと、岩泉は手を放してしまうと思った。

「けどまあそういうことなら、北村が本気で描きたいと思って描いた時には、もっとすげぇんだろうな」

ぎゅう、と心臓が鷲掴みにされたように痛くなって、目の奥がつんと熱くなる。髪をつかむようにして離れてゆく指に、背筋がびりびりと痺れた。

「いわいずみ」
「、ん?」

描きたい。

「…手、」

描きたいと思ってるよ、君を。

「手…貸りていい?」
「手?」
「うん」

怪訝そうな顔をした岩泉に、じりじりと心臓が焦げ付きそうな感覚に陥る。戸惑うように差し出された大きな片手を、待ちきれずに、けれど恐る恐る両手で包んだ。岩泉のどこか焦った声が聞こえた気がしたけれど、気にしていられなかった。

温かい。初めに思ったのはそれだった。両のてのひらでようやく包めるような、大きく厚みのある手。骨ばった指に丸みはなく、爪は綺麗に整えられている。手のひらに指先を滑らせ、誘われるように指の間に指を差し入れた。

「っ、おい」

手のひらをぴたりと合わせてぎゅう、と握りこむ。手に溶け込み心臓に流れ込む温度に、一歩踏み出し目を瞑って額を押し当てた。
そうか、こんな風に温かくて、こんな風に大きいのか。じゃあ腕は、その先は、

「北村、おま…!」
「―――…あ、」
「…っ」

ぱちん、噛み合った視線が勢いよく逸らされた。視線どころか顔ごと思い切り背けられ、思わずたじろいだ私の手から力が抜ける。けれど気づいた。目一杯への字に曲げた唇、明後日の方向を睨みつける視線は鋭いのに、岩泉の頬は鮮やかに色づいている。

やってしまった。

思った瞬間心臓が転がり落ちた。頭の先から引いた血の気は全て頬で煮詰まったかのように顔が熱くなって、中途半端に引っかかったままの指と指が電撃でも流れているのかと思うほど痺れだす。ほとんど火傷するみたいに手を放せば、一瞬空を彷徨った岩泉の手は、ジャージのポケットに突っ込まれていった。表情はわからない。当然だ。だってどうしよう、顔を上げられない。

「ごめん、その、絵の」
「…」
「…絵の、参考に、したくて。手…どんなのだろうって、知りたくて」
「…あー…そういう」

どこか上擦った声の返答。普段の彼らしくない歯切れの悪さにどうしようもない気まずさが湧き上がる。ああもう埋まりたい。なんだもう朝から太陽暑すぎやしないか。さっきから体が火照って仕方ないんだけど今日の最高気温一体何度なんだ。

「ごめん、なんか…夢中になってた、ほんと」
「いや、いい、謝んな」
「何も考えてなかった、ごめ…」
「…っあークソわかったから!」
「ぅわっ!」

これぞ電光石火。俯いた視界の左上、仕舞われたばかりの右手がジャージのポケットから引き抜かれ、反応する間もなく頭を思い切り抑え込まれた。さっきのかきまぜるような柔いゆびづかいとはまるで違う、いっそ犬か猫にでもするような乱暴な手つきで髪の毛をぐしゃぐしゃにされる。
突然の急襲になすすべもなくされるがまま、目を白黒させる私の頭上に岩泉の声が猛然と降ってきた。

「あのな、別に嫌だとかんなん言ってねぇから謝んな!もっと堂々としてやがれ!」
「!?え、ごめ…あ、いや」
「それから、参考にすんなら参考にするで、前置きをしろ、前置きをッ!」
「エッ、…エッ?」
「返事!」
「あっハイ」
「よしッ」
「…、…!?」

嵐の如く離れていった大きな手は再びポケットの中へ舞い戻り、白とミントブルーのジャージはやはり猛然として背中を向ける。足音も高くどすどすと歩み去ってゆく長身を呆然と見送っていれば、入口付近で立ち止まった岩泉に思いっきり眉間にしわを入れたまま「何ぼーっとしてんだ置いてくぞ!」とどやされ、私は混乱の境地に片足を突っ込んだままなんとか屋上を後にした。

さっきのあれはつまり、前置きさえすればヨシということなんだろうか。お触りオーケーということか。いや落ち着け自分ジャストビークールアゲインだ。どこのキャバクラの話だ。

それより目下課題はこれから数日間違いなくどう接していいかわからないということだ。今日はもちろん明日からも見学に行くつもりなのに。頭を抱える私の頬は結局一階に着くまで熱を持ったまま、終始無言で私の前を歩いていた岩泉の耳も同じくどことなく赤みを帯びたまま。とにかく気まずいこの帰り道、行きも帰りも後ろを歩けて心底良かったと胸を撫で下ろしたのは私だけの秘密である。

160206
ALICE+