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「…紫乃?どうしたの、制服なんか着て。夏休みじゃないの?」
「いや、部活あるから」
「部活?」

まじまじと訝し気にこちらを見やる母さんに、私は返す言葉もなく肩をすくめた。蒸し暑い玄関の一歩先、ドアの向こうからは蝉の大合唱が聞こえてくる。八月を迎えた宮城の空は今日も晴天だ。

「こんなに暑いのに、随分熱心ね」
「コンクールも近いから」
「…、お盆も部活?」

何でもないような母さんの言葉には一瞬の間があった。百の言葉より雄弁に語るその間が無性に受け付けなくて、私は胸のもやつきと一緒につま先をローファーに押し込んだ。

身内の言葉は他のどんな他人に言われるよりも受け入れ難いことがある。きっといろんなことを知った上で話す近しい相手だからだろう。松川が同じことを聞いたときには感じなかった、言葉にされない気遣いに対する理不尽な抵抗感。腫れ物扱いされているように感じるのは自意識過剰だと思うのに、纏う空気が明確な拒絶を帯びた自覚はあった。

「…まだ決めてない」

母さんはただ頷き、私が戸口を後にする前に500円玉を渡して、「お昼代ね」とだけ言った。その何でもない声に、空気を固くした自分の幼さが急に情けなくなって、私は埋め合わせるようにお礼を告げて外に出る。

夏が来る。
カレンダーの上でも天気の上でも、もう来ていると言われればそうなのだけれど。






「へえ、幼馴染…」
「そ!つまり俺と岩ちゃんは超絶信頼関係なわけ」
「おう北村、信じんなよ。基本ガセだ」
「ちょっ岩ちゃんヒドイ!」
「…」
「俺に聞くなよ」

どっちが本当なんだと無言で見やった松川に肩をすくめてそう返され言われ、紫乃は何とも言えずわーわーやり合う二人を眺めることにしたらしい。松川もその様子にとやかく言うことなく弁当を片づけるのに専念する。
ここ二人もなかなか以心伝心だよなあ、と花巻は思う。黙々とパンをかじる女子生徒は自分が普段つるむような子たちと比べ、姦しさだの派手さだのとは相も変わらず無縁の様子である。

時刻は昼過ぎ、昼食休憩を共にしないかとこの美術部員に誘いをかけたのは松川だった。彼女がこうして彼らの昼食に混ざるのは夏休みに入ってから数度目になる。岩泉はもとより、及川も快く彼女を迎え入れ、初めこそ遠慮から聞き手に徹していた彼女だったも今では随分言葉数が増えた。それでも自分や及川に対してはまだ距離のある紫乃に、花巻も一定の距離を保ったままである。

「昼飯それだけ?」
「うん」
「少なすぎだろ」
「動いてないし」

淡々とした返答に初めこそ随分と不愛想なコだなと思ったものだが、別段それが不機嫌だの悪気があるだのではないことは松川や岩泉とのやり取りでわかってきている。とりわけ松川と話すときは言葉につっかえて困り顔をすることも少なく、聞いていれば結構遠慮もない。
やっぱり実は付き合ってたりして、なんて及川と一緒に探りを入れたものの、松川の反応は相変わらず平温平熱。まあ確かにやり取り自体にコイビトっぽい甘さはねーよな、なんて思いつつデザートのシュークリームに手を付ける花巻の思考など露知らず、渦中の二人の平坦な会話は持続していた。

「にしても少ないだろ」
「生命維持には足りてる」
「それ人間の食事としての最低ラインだから」
「今のは侮辱だ。パンに謝れ」

そこでパンかよ、と思わず突っ込みそうになったのは花巻だけではあるまい。案の定松川も呆れ顔で「せめておにぎりにしろよな」と返していた。いやお前もか。

もくもくとパンを片付ける姿はどことなく小動物に見えなくもない。そんな紫乃の惣菜パンの上に、松川の箸が無言のまま卵焼きを乗せる。目をぱちくりさせて松川を見上げる彼女に、しかし彼は何事もなかったかのように弁当をかきこんだ。
紫乃はしばし卵焼きを見つめ、手中のパンの上に乗っかったそれだけを器用に食べると、まだ口をつけていない端っこを千切って松川の箸箱の上に乗せた。さすれば再び松川の端が紫乃のパンにおかずを乗せに来る。次はウインナーが半分。紫乃は再び黙し、今度はじっとりと松川を見やった。彼は相変わらず我関せずである。

「…運動部」
「貧血」

パンもあるし。付け加えた松川の台詞に、花巻は一連のやり取りの意味を一歩遅れて理解した。ああなるほど、北村サンは松川にお前運動部だろがちゃんと食えって言いたくて、松川は彼女にお前も貧血だろちゃんと食えって言いたくて、…何、この近辺で主語使わない会話でも流行ってんの?新しいブームなの?

遠い眼をする花巻の目前で、松川の箸が今度はミニハンバーグを運ぼうとする。紫乃は今度ばかりは素早く反応し、自分の総菜パンを遠ざけた。
彼女の勝ちか。一瞬思った花巻だったがしかし、そこはレギュラー四人の中でもスマートさにかけては花巻に並んでトップツーたる松川である。射程圏外に遠のいたパンを見るや、彼は即座にターゲットを切り替え、箸ごとハンバーグを紫乃の口に突っ込んだ。

「!?」

そのあまりに自然な流れるような仕草は完全に彼女の不意をついたらしい。ぎょっとした顔で呆然と松川を見る紫乃に、彼はしてやったりの笑みでニヤリと笑う。見る間にむっと表情を険しくした紫乃は、松川の横腹を思い切り突いた。むぐっと声を上げて悶絶する松川に、彼女はふんと鼻を鳴らして口の中のハンバーグをもぐもぐし始める。

時間にして十数秒。その間の会話はゼロ。あいだに垣間見えた思わぬ数の表情に、花巻は少し目を丸くし、それから思わずぷっと噴き出した。その感想は思わず唇からこぼれ出る。

「なんだ、そんなカオもするんじゃん」
「、へ」
「すげぇ固いカオしてっからさあ、もっとクールでドライかと思ってたんだよネ」
「…わ、私が?」
「うん、北村サンが」

ぱち、ぱち、目を大きくした瞬く紫乃は先ほどの自然な表情はどこへやら、いつもの戸惑いと緊張の困り顔をして花巻を見返した。なんだか懐かない猫を相手にしているみたいで、気になるとかいうわけではないが、もっと砕けてくれればいいのになあと純粋に思う。

だがなんせ彼女は普段自分が相手にするノリの良い女子たちと違い、随分と繊細そうなイメージがあるため、どこまで踏み込んでいいかわからないというのが本音なのだ。自分が一部の女子の間でチャラいと言われているのは知っているし、紫乃がそっち側の女子だとすれば変に干渉するのもアレだ。
しかし横っ腹への急襲から立ち直った松川は恨めし気に紫乃を睨みつつ、そんな花巻の懸念とも気遣いとも警戒とも言える思いを否定した。

「花巻それ誤解。コイツ人見知りだけど結構凶暴」
「今のは松川が悪い」
「お前が小食すぎるのが心配なんでしょうが」
「運動部」
「だからパンあるって」

弁当を食べ終えた松川がコンビニの袋から取り出したパンを片手に言う。紫乃はもう言い返すのをやめ、しかし花巻がいる手前ぶっすりした顔を晒すわけにもいかず、無言で残りのパンにかじりついた。その様子をちらりと見やった松川が口元と目だけで笑う。しかしそれも彼女には筒抜けらしく、またひと睨み食らっていた。今度は遠慮なく呵々と笑った花巻に、岩泉とやいやい言っていた及川が驚いた顔をする。

「何マッキーいきなり爆笑して」
「いや、北村サンて結構面白いんだネって話」
「えっなにソレマッキーもまっつんの仲間入り?えー、俺まだ北村さんの笑ったとこほとんど見たことないのに!」

ねえ!?と同意を求められ「え、う、」とキョドる紫乃の哀れな姿。松川は笑いを堪えて使い物にならないし、花巻も似たようなもの、途方に暮れた紫乃が見やったのは残された岩泉の方だったが、

「んぐっ!?」

あろうことか岩泉にまで突っ込まれた。何をどこにと言われれば、シューマイを口の中にである。しかも箸どころでなく指で。

「!?…ッ!?」

反応をじっと観察するように目を離さない岩泉に対し、完全に目を白黒させた彼女は現状理解と共に頬に朱を昇らせた。それを見た岩泉は満足そうに笑って、「それも食ってろ」と言うと機嫌よく弁当の方へ戻ってゆく。これぞ奇襲。まさにゲリラ。

混乱と羞恥の極みでいっそ泣きたい気持ちになりつつなんとかシューマイを咀嚼し呑み込んだ紫乃は、びっくりした反動で握りしめたせいでぺしゃんこになったカレーパンを見て一層項垂れ、ぽつりとこぼした。

「ここには味方がいない…」

そのあまりの悲壮感溢れる声音にぷんすか言っていた及川が目を丸くし、さすがの岩泉も焦り(ただそれは「シューマイ嫌いだったのか」なんて見当外れもいいところの心配だった)、遠慮のない松川が笑い転げ(岩泉の斜め上の心配のせいである)、そんな松川に花巻が制裁の蹴りを入れ、紫乃にチロルチョコ(彼のデザートの一つであった)を寄越してやった。

明日は絶対弁当を持ってこよう。うっかり涙目になった紫乃は再度渾身の力を込めて松川の横腹を急襲し、一人静かに誓う。
そんな彼女に呵々と笑った岩泉が、良いことを思いついたと言わんばかりに紫乃の方を向いた。さっきの今となれば紫乃は軽く警戒する。

「おう北村」
「……何?」
「今度一緒に飯行くか」
「「「エッ」」」

キレイに重なったのは当人たる紫乃を覗く外野三名の驚愕の三重奏。紫乃はと言うと声もなくフリーズしており、手中では先ほどプレスされたばかりのパンが再びぺしゃんこになっていた。その驚きは推して測るべし。
そしてあの岩泉が女子に食事の誘いを、と世紀の大事件の予感にこちらも目を見開く仲間たちに、しかし岩泉は怪訝な目を向け、さも当然のように言った。

「お前らいつにする?やっぱ部活終わりだよな?」
「え、…え、待って岩ちゃん、それ俺らも一緒ってこと?」
「は?何だよ、嫌なのか」
「いや全ッ然嫌じゃないけど、エッなにもう、いきなりご飯行こうなんて言うからデートのお誘いかと思ったじゃん!」
「デッ…!?ちっげーよ!流れでわかんだろうが!」
「いやわかんねーだろ今のは…」

素っ頓狂な声を上げる及川によって発覚した勘違いの全容に、岩泉が思わず顔を赤くし声を上げる。花巻の冷静なツッコミも最もである。
なんだもうこの空間息できない。なるべく目立たないよう空気となって、いっそそのまま消えてしまえないだろうか。切実な思いで小さくなる紫乃の顔を、静かに横に座っていた松川が黙ったまま覗きこむ。
物言わぬまま自分をじっと観察する友人に、紫乃はますます気まずさを覚えて声を上擦らせた。

「…な、なに」
「…。どうする?行く?」
「え」
「つっても男四人だし、部活終わりってラーメンとかばっかだけど」
「…それ私邪魔じゃない?」
「邪魔だったらそもそも誘わないっての」

紫乃はちらりと彼らを見やる。しかし幼馴染二人はやいのやいのと言い合いをするばかりで、目があったのは花巻一人。
今しがたシュークリームを食べ終えたところの彼は指先についたクリームをぺろりと舐め、それから視線を送ってくる松川と紫乃を交互に見、状況を察するとニヤリと笑みを浮かべて言った。

「北村サン、ラーメン何派?」

ちなみに俺は豚骨ネ。

紫乃は眼を丸くし、数秒言葉に詰まって、それから吹き出すようにふわっと笑った。

160214
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