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「北村さんってさ、人は描かないの?」

ずず、啜りかけたラーメンが彼女の唇の間で中途半端に止まった。

湯気を立てる椀に屈み込んでいた紫乃は、思いついたと言わんばかりの及川の問いに一瞬フリーズした。悪気ない茶色の瞳を見返し、二度三度、とその瞳が左右に泳ぐ。とりあえずとばかりに椀へ戻った顔は麺の残りを啜り上げたが、咀嚼し呑み込むまでの時間は良い返答を絞り出すにはあまりに短すぎた。

「…えっ、と」

前回の昼食時に持ち上がったラーメン企画は思った以上に早く実行された。赴いたのは青城近くの運動部御用達の老舗店。学生の財布に優しく胃袋にも寛大な、替え玉付き大盛580円が人気の狭い店のカウンター、一列に並ぶガタイの良い男四人のうち左から二番目には、この店では珍しい小柄な女子生徒が腰掛けていた。

おっちゃん、コイツの分は並の小さめで。
カウンター席を陣取ると同時にそんな一言で、文科系女子には多すぎるに違いない並盛の縮小版を注文した岩泉の計らいにより、その椀の中身は現在までに無事三分の二が片づけられている。

「人は…ほとんど、描かないかな」
「え、じゃあ男バレで何描こうと思ってんの?アッ別に嫌とか邪魔とかじゃなくてさ!」

その本心はいざ知らずとも、及川の顔には変わらず人好きのする表情しか浮かんでいない。だんまりを決め込むには良心が痛む彼の様子に、言葉なく軽い挙動不審に陥る紫乃を、お冷を傾けていた松川は物言わぬまま静かに見下ろした。

それが彼女の反応次第ではいつでも介入できるよう様子を伺っているのだと気づいたのは、彼女の反対側に腰を据えていた岩泉だ。彼の視界の端で、紫乃が一瞬松川の方を見る。視線こそ合わせなかったものの、松川の手元に視線が逃げたのはきっと無意識の信頼ゆえに違いない。

「被写体になるようなものあるのかなーって」
「…練習中、っていうか、リハビリ中っていうか」

紫乃にしては珍しく、どこで会話を切るかではなく、どう言葉を繋ぐかを考えているようだった。それ自体普段人見知りの激しい紫乃にはあまり見ない傾向であり、松川は干渉を一時見送ることに決める。チャラいとも軽いとも言われる及川だが、踏み込んではならないラインを見誤るようなヘタは滅多に打たない。

一方で岩泉はラーメンを運ぶ手を止めていた。あの早朝の屋上、夏の朝の風の中、突如自分の手を取った彼女は、我に返ったときしどろもどろに「絵の参考に」と弁明していたはず。
あの言葉からして、彼女は人を描きにきたのだとばかり思っていたが、そんな簡単な話でもないらしい――――思って、あの見たこともない真剣な瞳、その柔く小さな手が指の間に割り入る感触を思い出し、彼は思い切り咥内に歯を立て動揺をかみ殺した。


紫乃の視線は、基本的にどこか遠い。
ぼんやりしているとは言わないが、周りには見えないものを遠く見つめているような瞳はいつも覚束なく、ふとした拍子にあっけなく砕けてしまいそうな危うさを孕んでいる。

岩泉を引き付けたのはまさにその脆さだった。放っておけない。同時に魅せられもしたのだろう。沈鬱な痛みを抱えながらも、彼女の瞳に濁りはない。あのキャンバスに渦巻いていた昏い蒼が、重厚な透明感を纏っていたのと同じように。

だが決して脆いだけではない。あの屋上で一心に朝日を見つめ、この手を取ったあの瞳は、息が止まるほどの熱量を秘めていた。
言うなれば、視線だけで丸裸にされるような錯覚。何もかもを熟視されるようなあの感覚は、今思い出しても落ち着かなくなるほど強烈だった。


「リハビリってことは、今はスランプ的な?」
「…うん、そんな感じ」
「へー…やっぱり静物画とか風景画より難しいんだね」
「人による…かな。私の場合はちょっと、いろいろ面倒で」
「面倒?」
「うん、まあ…」

ずるる、松川が味噌ラーメンをすする。紫乃は一瞬そちらを見やった。しかし彼は助け舟を出すことなく、視線一つで話してみろと促すだけ。出てこない言葉に困り顔をする紫乃だが、及川が会話を諦めるよりは気長に待ち構えるタイプであることは、彼女ももうすでに知っている。

「…人を描こうと思うと、その人のことを本当によく知らなきゃいけなくて」

紫乃の場合、それはその対象の外見だけに留まる話ではない。好き嫌い、考え方、表情、価値観、話し方、人や物事に向き合う姿勢。そうした対象人物を構成するありとあらゆる要素を見て感じて拾い上げ、自分の中に落とし込み、そこに行き着いて初めて、彼女の中に被写体としての人物像が浮かび上がってくる。言い換えれば、知らない人間に対する絵のイメージは沸いてこないのだ。

故に彼女の描く人物画はしばしば、実際のワンシーンを切り取った模写とは一致しない。キャンバスに現れるのはあくまで、自分自ら触れて知ってきたその人物の人間性、選び抜いた様々な要素を再構成した姿になる。表情も場面も体勢も、紫乃の中で「最もその人らしいと思える瞬間」となるのだ。

昔は風景画と同じように人間を描くことも出来た。けれど今はそうはいかない。
対象はどんな人間か。何を愛し何を嫌い、どう生きてどう歩んでいるのか。どんな表情が、場面が、その人らしさの真骨頂と言えるか。
それが分からない限り、紫乃は人間を描けなくなった。

ある評価員の言葉を借りれば、彼女の人物画は単に対象を映し取っただけのものとは次元が違うという。むしろそれは対象の魂、文字通りの生き様を削り出すものなのだそうだ。だが実感の乏しい紫乃はその評価が実物を上滑りしているようにしか思えない。

「…だから、変な話、名前も知らない他人なら、模写で描けると思う。マネキン描いてるのと変わらないから。でも自分の知ってる人になると、イメージが固まるまでが長い」

例えば比較的距離のある花巻や及川なら、まだギリギリ模写出来るかもしれない。けれどそれはつまり二人をほぼ完全に無機物扱いするということだ。仮にも知り合って数か月の同級生相手に、そんな中身や思いの欠片もない、息の詰まるだけの無価値な絵は描きたくないと紫乃は思う。

松川はそれなりに知るがゆえに意識して観察を重ねれば描けるかもしれないが、試みようと思ったことはなかった。それはきっと彼が自分にとって初めから被写体ではなく、一友人として存在してきたからだろう。そして岩泉を上手く描けないのは、まだ自分の中で明確な彼の像が形作られていないからだ。

そんなもろもろを、岩泉を被写体にと考えていることだけは伏せて、つっかえつっかえ話し終わった紫乃は、心底疲れてラーメンに向き合った。心なしくたびれた麺を啜り、取り分けておいたチャーシューを噛み締める。もう暫く喋ったりするもんか。そう心に誓う彼女の椀に、松川の箸がメンマを二本運んできた。

「よく話せたじゃん」
「……」

こいつは私のことをなんだと思っているんだろうか。コミュ障の娘か。いやむしろ食が細いペットか何かか。

思いはしたがメンマはチャーシューの次に好きなラーメンの具である。黙ってもそもそと口に運ぶ彼女に、松川は満足そうにスープを啜る。そんな様子をじっと見ていた花巻は、お冷を手に取りながら言った。

「なんか、芸術家ってすごいのな。想像してたよりめっちゃ深くてびっくりした」
「芸術家って大袈裟なもんじゃ…それに、深いっていうか、面倒なだけだ」
「…ね、マネキンでいいからさ、やっぱ描いてみてよ。俺北村さんの絵見てみたい」
「ええ…」
「ほら岩ちゃんもそう思わない?」
「別にコンクールで見れるだろ」
「そうなんだけどさあ、それとこれとはまた違うじゃん!」
「まあ、確かに自分描いてもらう機会ってあんまねーかもな」
「でしょーまっつん!」

松川まで言うか。紫乃は粗方食べ終えたラーメンの揺れる水面を見やって小さく息をついた。彼の言う通り、マネキンと同じ感覚でいいのなら描けなくはない。だが描く気にはなれないというのが本音だ。

「岩ちゃんだってさ、自分はどんな風に描かれるんだろうとか思わない?」
「あー、まあそりゃな」
「、」

頷いた岩泉にとっては何気ない同意の言葉だった。しかしすでに替え玉を片付け水を飲んでいた彼を見上げた紫乃は、酷く驚いた顔をしていた。

ぱちぱちと瞬きを繰り返す彼女の深い色味の瞳に射抜かれ、岩泉は怪訝に思うより先にたじろいでしまう。夜の湖を凝縮して詰め込んだような、漆黒と呼ぶには柔らかい淡さを帯びる澄んだ黒。

脆くて淡くて、けれど彼の手を見詰めていた時には、今までどんな一瞬だって見たことのない白熱した光を秘めていた瞳。普段話す時にはあまり目を合わさないのに、不意に彼女は心の奥底まで貫くような眼差しで人を見つめるから落ち着かない。

「岩泉も、そう思うの?」
「お、おう、そりゃまあ…」
「……そっか」

紫乃は静かに椀に向かうと、すでに湯気を失いつつあるラーメンをすすった。そうして綺麗に食べ終えて、ようやくお冷に手を付けた頃合い、横目に彼女の様子を伺っていた岩泉をふと見上げた彼女は小さく笑った。

「注文、ありがとう」
「、…おう。完食したな」
「うん、ちょうどだった」

大した量でもなかったろうに、やや誇らしげに胸を張る紫乃に、岩泉はふはっと吹き出した。隣に腰掛ける少女が、カウンターの丸椅子に収まるほどしかない小柄な同級生であることを突然思い出したような気がして、岩泉は大きな手で紫乃の黒髪をかき混ぜる。

そう、この顔。岩泉は思う。ぐしゃぐしゃになった髪の毛のまま目を丸くしてこちらを見る彼女が、あの遠い眼をやめてピントを合わせるのが、そうしてさっきみたいに何でもないことで笑うのを見るのが、小難しい感情を抜きにして単純に好きだ。


そして気づく。では彼女にあの仄暗い瞳をさせるものは、一体何なのだろう。
不意に脳裏に過ぎった疑問は、彼の心に消えない残像を残して揺らめいた。

160226
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