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振り返ってみたところでそれをただの偶然と呼ぶことが出来るのか、俺には判断することが出来ない。


群青と呼ぶには重く、黒と呼ぶには明度が高い。
キャンバスに渦巻く重い青は幾重にも塗り重ねられているはずなのに、澄んだ深い湖の水底を覗くような重厚な透明感を纏っていた。

「…すげぇ、」

唇から転がり落ちたのは心臓のそのままの感想、まるで無意識だった。間違っても芸術を嗜んできたとは言えない人生、課外学習で美術館をぶらついてもコンサートホールに連行されても「ふーん」の一言で済ませてきた感性が、絵画というものを前に生まれて初めて激動している。

芸術を愛でる人間はこんな衝撃を何度も体験しているのだろうか。だとしたらその強心には心から恐れ入る。
魅入るほどに吸い込まれそうな青を前に、岩泉一は呼吸も忘れて立ち尽くしていた。


その廊下を通りかかったのは間違いなく偶然だった。職員室前の廊下の奥、曲がり角を進めば校長室が見えるそこに、その絵は静かに鎮座していた。正確にはその絵だけじゃなく、色とりどり、テーマも様々な絵が廊下の壁に飾られている。

角を曲がったすぐの場所には説明書きも付されていた。第82回全国高等学校絵画コンクール。どれほどの権威のものかは知らないが、大賞特典として海外留学が用意されているところからして相当なものなのだろう。そのためか並ぶ絵はどれも素人目にも上手いことがわかる。

だが全神経を束ね上げる強烈な存在感、心臓を掴み取るような異彩を放つ絵はその一枚だけだ。

何のモチーフもテーマもない。キャンバスには青しかなかった。深い青だ。鮮やかさの失せた重く暗い退廃的な色。キャンバスを厚く覆うそれは幾度塗り直されたのだろうか、凹凸の激しい塗りムラが見えた。けれどそこにいい加減さや雑さは伺えず、その荒々しさには触れれば切れそうな繊細さが自己を主張している。

中心へ向かうにつれ重力を増す色に、見えるのは鬱屈した閉塞感。肌を切り付けるような拒絶と、凛然と突き刺さる孤高の静謐。

しかしその青は濁ってはいない。塗り重ねられたそこに淀みはなく、息の詰まるような重厚な透明感が纏われている。

手を伸ばしたのは無意識だった。乾いた絵具の凹凸を指先でなぞれば、背筋がびりびりと痺れた。
生きているようだ。描き手の手を離れてなお、その魂の拍動を脈々と宿すような底知れぬ佇まいに圧倒される。

生唾を嚥下して数拍、はっとして弾かれたように手を離した。こういう美術品って確か、触っちゃいけないんじゃなかったか。

「あっ岩ちゃん!なーにしてんのさ、探したんだけど!」
「!…ああ、」
「なんかあっ、た…って、」

背後から飛んできた幼馴染の声に、俺ははっと顔を上げた。近づいてきた及川もまた絵に目を留め、まじまじとその渦巻く青を見つめる。それから俺を見やり、問いかけるような視線を投げてきた。俺は呑み込まれるような青を見やり、頷く。

「すげぇだろ、これ」
「…え、岩ちゃんが絵見てるとか…事故?」
「てめぇ…」
「嘘嘘待って腕下げて!」

言うに事を欠いてそれか。思わず拳骨を準備すれば、取ってつけたような謝罪を送られる。
俺だって似合わないのはわかっている。でも理屈じゃない。自分の与り知らない領域で、何かが揺さぶられている。これを未知との遭遇と呼ぶのだろうか。

「…まあ確かに、他とは毛色の違う絵だけど」
「ああ」
「でも俺的にはこっちのがいいかなー。あ、この子知ってる、一年の頃同じクラスだった」

二つ隣の風景画を覗きこんで一人語る及川に、俺はようやくこの絵の作者のことに思いが至った。誰が描いたんだ。キャンバスの下、簡素な表示を見つけて身をかがめる。北村紫乃。どこかで聞いた名前だ―――確か、隣のクラスにいたような気がする。

だが俺の意識はその名からすぐに、その上に記されたタイトルへと移った。
題名は「空漠」。

「…、」

思わず眉根が寄るのを感じた。空漠。辞書みたいな説明は出来ないが、漠然とか、曖昧とか、そんな意味に似た言葉じゃなかったか。小さく舌打ちが漏れる。

「…似合わねぇ名前だな」

切り取られた明朝体が語るその名のなんと軽薄なことか。これの何が空漠だ。渦巻く青、塗り重ねられた沈黙。秘められているのは空疎には程遠い激情だ。
人の賞賛を得るため計算された美しさでも、気の赴くまま安直に描かれたものでもない。これだけのものを込めておきながら、なぜこんなタイトルになったのか。

「何が?」
「、このタイトルだよ」

怪訝そうに尋ねてきた及川に一瞬不意を突かれた。ざわざわ、唐突にここが普通に人の往来する廊下であったことを思い出す。

「『空漠』…?俺的には結構似合うと思うけど」
「そうかあ?なんか的外れっつーか…中身がねぇって意味だろ?」
「モチーフとかないからじゃない?抽象画みたいなさ」
「にしたって空っぽには程遠いだろ」

むしろ幾重もの感情の連なり、圧縮された声なき声の気配を感じる絵だ。だが及川は首をかしげるばかりで、挙句「絵心のない岩ちゃんの言うことだしねえ」なんてのたまう始末である。無論拳骨を見舞ってやったが、確かに俺は決して芸術に明るい方ではない。単なる個人の感じ方の差なんだろう。納得したわけではないがそう思って立ち去ろうとしたその時だった。

「、…?」

進む方向とは逆の廊下、その数歩先に、こちらを見つめる女子が一人立っていた。規定通りの制服と黒髪、小脇に抱えられたノートや筆箱。
一体いつからそこにいたのかわからない。だがその瞠目した瞳には驚愕の色が色濃く浮き上がっていた。一瞬及川のファンかと思えど、すでに遠ざかりつつあるヤツには目もくれる素振りもない。ならばやはり俺に用だろうか。

「…ーっと、どうかしたか?」
「!」

とりあえず話しかけてみるかと一歩踏み出せば、はっとしたように女子生徒は肩を揺らした。泳ぐ瞳が床を滑る。いえ、と小さく返されてすぐ、さっと頭を下げて会釈したそいつは、踵を返すと足早に廊下を去っていった。

「岩ちゃん?部活遅れるよー!」
「、おう…すぐ行く」

反対側から不思議そうに呼びかけてくる及川に答えながらも、俺は釈然としない気持ちで薄っぺらい背中が消えていった廊下の角を見つめていた。一体なんだったんだろうか。勝手な批評に気分を害した関係者かとも思ったが、見て取れたのは不快感というより驚愕、その可能性は高くない。

濃い青を湛えた絵を見下ろす。その下の方、注意しなければ見失うような場所に記された明朝体の名を改めてなぞった。

「…北村紫乃」

漠然と思う。どんなやつなんだろうか。
それが俺と、その目の覚めるような青を生み出した彼女との邂逅だった。

151110
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