▼ ▲ ▼


「今何時だと思ってんだ、お前」

背後から飛んできた声は唐突なものだったに違いないのに、振り向く彼女の仕草はゆっくりとした緩慢なものだった。

半面のみ蛍光灯を点けた美術室、カーテンに覆われた窓の向こうの空はとっぷりと日の暮れた闇色をしている。壁時計が示す時刻は20時を回っていた。特別措置を取られている運動部でも最終下校を迎えんとする時間だ。

呆れ顔ではないが穏やかとも言えない表情をした岩泉が、下校時間をとうに過ぎた時間に校門をくぐる紫乃を見かけたのは二日前。皆と帰宅したように見せて部室に戻り絵の続きを描いていたことは、カーテンで覆われた美術室の窓から漏れ出た灯りですぐにわかった。

だから岩泉も自主練を終えて一度家に帰り、ジャージのままもう一度学校に戻った。きっと今日もいる。思った通り半面のみ電気のついた美術室で、紫乃は両手をどろどろに汚してキャンバスの前に立ち尽くしていた。

「……、」

上履きを鳴らして近づく岩泉に、紫乃は何も言わずに大きなキャンバスに向き直る。華奢な背中だ。岩泉は眼を細めた。吹けば飛びそうな薄い背と折れそうな首、頼りない手足、不釣合いなほど大きなキャンバス。

そこには薄氷のように張り詰める緊迫感が纏われている。これ以上ないほど尖った感性は不用意に踏み込めば容易く砕け散るだろう。思わず殺した呼吸は、キャンバスいっぱいに広がる絵に、その息の根すら断たれそうになった。

(――――底が無え)

重厚感あるリアリティと深みを増した色合いが纏う静謐な気迫。前に見た時ですら完成と呼んで遜色なかったそれが、如何に未完成であったかを思い知らされる。文字通り心血を注いで描かれたと言うべきそれは、描き手の魂を吸って息づくように佇んでいた。

畳の陰影、卓袱台の木目、祖父の白髪と藍染――――そしてその圧倒するような緻密さが、左端に浮かんだ空白の異質さを猶更際立たせている。

岩泉は紫乃を見る。がらんどうのような瞳が見つめる先には、不自然に浮いたキャンバスの白を見詰めて動けなくなっていた。

「…描かねぇのか」

ぴしり。纏う気配がひび割れる。紫乃は顔を強張らせた。だらりと垂れた手が混ざり合った肌色を滴らせる。作っては流し、作っては流しを繰り返した肌色で、足元のバケツは濁ったクリーム色に染まっていた。

「……明日、描くよ」

砂を噛むようだと紫乃は思った。捻りだした答えに自分で自分が嫌になる。どうしようもない下手な言い訳だ。でももう一時間以上膠着している。酸素が足りない。頭がくらくらする。描けない。色を作ることさえできない。
しかし岩泉は容赦なかった。

「昨日も一昨日も、明日描こうって思って、結局描けなかったんじゃねぇのか」

再び亀裂が走った。息がどんどん苦しくなる。継ぎ接いで縫い止めて、やっとのことで保ってきた何かが瓦解を前にして揺さぶられている。

紫乃は知っている。岩泉は自分を逃がしてなどくれない。毅然として揺るがぬ態度で、紫乃を現実に引き渡すのだ。そこに温情や酌量はない。いっそ冷徹にも思えるそれが、けれど自分に一番必要だったことはもう知っている。

「そうでないなら明日描けばいい。もしそうなら、」

伸ばした手で言葉を遮り、汚れた指で絵具を取った。膨らまない肺に必死に酸素を送り込み、バケツの水で手を洗う。

濡れた手のひらに白を乗せた。黄色、赤、青、肌色を作るのに必要な僅かな原色を指先に取る。出来上がった模範的な肌色に歯噛みした。
違う。こんなキレイな色じゃない。祖母ちゃんの顔は、手は、もっと。

――――もっと、何だ?

「…っ、」

青を足す。くすんだ透明感。僅かな黒。生気の喪失。
硬く刻まれた皺、強張った皮膚、不自然に白い頬には真っ赤な口紅の赤が浮く。

まただ。死化粧。手が震える。死装束。指先が冷たい。違うそれじゃない消えてくれ。
脳裏が熱を帯び、瞼が焦げ付く。血も心臓も一緒に温度を失う錯覚。

棺で眠る、あの姿ばかりが、陽炎の向こう、灼けたアスファルトに横たわる、白と赤が、やめて、もう十分だ、ああでもあれは、私が生み出した光景で、

――――そして、視界がブラックアウトする。

「っ…!」

目元を覆う知らない手の温度に、バランスを放り出した足元がぐらついた。全てを塗り潰す黒。手足に繋がる神経が断絶し、重心を失った体が呆気なく傾く。目元を隠す手に引き寄せられて、後頭部が背後の何かにぶつかった。

視界ゼロで碇を失ったのは体だけでなく思考回路も同じ。地に足つかない脳みそに冷水を浴びせたのは、耳の上から静かに紡がれた低音だった。

「祖母ちゃんの手は、どんな手だった」
「―――ッ、」


肩が強張る。厚い胸板に頭を押し付けられた。駄々を捏ねたい子どもの私を、後頭部に染み込む温度が叱咤する。もういい、もう十分だ。いや、まだ辞められない。

宙に浮いたままの手が握り込まれる。包み込む知らない匂いと、じわり、浸透する高い体温。分厚くかさついた、私のそれよりずっと大きな手のひらが、いつだったか結露したスポーツドリンクを収めて突き出されたのを思い出した。


「どんな手だった」


もう何日もずっとこの空白の前で、あの人の死んだ姿を思い出しては立ち尽くしてきた。
まともに息もできないまま、前にも後ろにも進めなかった。


それでも今は立っていられる。背中を受け止める逞しい温度が、折れそうな膝を支えている。
立て、立って前を向けと、振り向くことも逃げることも赦してくれず、情け容赦なく前を向かされる。それでも立ち竦む体を預けることを何も言わずに許してくれるその優しさが、痛いほど正しいことはもう知ってしまった。

歯を食いしばる。吐き出せ。足りない言葉に甘えるな。
力の入らない手で彼のそれを握り返す。祖母ちゃんの手は、祖母ちゃんの手は。

「…もっと、小さい、」
「温度は」
「…ひんやり…して」
「感触はどんなだった」
「乾いて、て、…骨ばってる」

指の長さは、柔らかさは、じゃあ腕は、背丈は、髪は、目の色は。

岩泉の大きな手が作る暗闇の中に、祖母ちゃんの一つ一つを集めて並べた。お気に入りのかっぽう着、しゃんと伸びた背筋、眩しいほどの白髪と、日に透けた瞳の暗紫色。言葉にするたび彩度と明度を取り戻すあの人の生が、うずもれるほどの死を少しずつかき分ける。

「お前を出迎えるとき、送り出すとき、祖母ちゃん、どんな顔してた」

唇が震える。言葉を出せば何かが砕け散りそうで、奥歯を噛み締めた。呑み込んだそれを絵具まみれの指先に込める。
空いた左手を伸ばせば、岩泉の手が離れていった。開ける視界、突き刺さる蛍光灯の白を無視して絵具を手に取る。岩泉が一歩引くのが分かった。背中に滑り込む冷たい夜気に怯みそうになる足を叱咤し、キャンバスのざらついた白に着物の鶯色を乗せた。

「…っ、」

紫乃は描き始める。薄暗い肌色を作って震えていた指先に最早迷いはなかった。血の滲むほど噛み締められた唇の痛々しさを、岩泉は言葉なく見守った。

塗り込む指先が彼女の心臓から錆びついたナイフを引き抜こうとしている。ずっと長く突き刺さったまま、抜くにも抜けずそのままにしていたそれは今、開く傷口と流れる血を覚悟の上で清算されようとしている。

絞り出すように迸る覇気に躊躇はない。止まらない、止められない。手足を千切るように描くヤツだよ―――いつか松川が言った表現を本当の意味で目の当たりにする。

見る間に描き上がる祖母の姿は、何度も塗り重ねられた周りのモチーフに何の遅れも遜色もなく馴染んでゆく。紫乃の手が止まる。押し殺していた震えが揺り戻ってきた。

触れられない。のっぺらぼうに浮かび上がったままの祖母の顔を前に、指先がゆっくり凍り付く。錆びついたナイフの刃が最後の足掻きで引っかかる。

顔を、描けない。

「…無理だ、」

何かが折れる音がした。見開かれたままの瞳の縁に透明の滴が湧き上がる。呆気なく決壊したそれは頬すら駆けず落下した。唇が、肩が震える。もう駄目だ。限界だった。

「無理だ、描けない。描けない、」

譫言のように繰り返す言葉を引きちぎるように、岩泉は殆ど力尽くで紫乃を引き戻した。冷え切った指先が包み込み、空いた腕で小さな頭を捕まえて、全てを遮断するように耳を塞いで抱え込む。
大きな手に覆われたのと逆の紫乃の耳には、岩泉の心音がよく聞こえた。生きている人間の、温かな心臓の音がした。

「…さっきの質問、どんな顔してた」

祈る様な声だった。抱き寄せられた紫乃にしか聞こえないような、普段の岩泉からは想像できない、静謐を帯びた切実な声だった。

噛み殺せない嗚咽が喉を破る。火傷しそうなほど熱い涙が目の縁を焼く。紫乃は喘ぐように息を吸った。心臓が痛い。いっそ焼き切れてくれと思うほど。
それでもそんな弱音は聞き飽きた。もう十分逃げたはずだ。

分け与えられる手のひらの体温が、指先の強張りを溶かしてゆく。手を伸ばす。温かな胸元を離れて、もう一度己の足で地面を踏みしめる。

小首を傾げてこちらを見上げる目元に皺を刻み、細まる暗紫色を乗せて光を浮かべた。指先に乗せた桜色で弧を描く。

優しく笑う祖母の顔。障子を開けた私を見上げ、編み物に忙しい指を止め、眦を下げて柔く微笑む祖母の顔。

そうだ――――あの人は、祖母ちゃんは、こんな風に笑うひとで。


「――――頑張ったな」


ぱきん。引き抜いたナイフが砕け散った。耳元に溶け入った労いの声に張り詰めていた糸が切れ、継ぎ接ぎだらけで誤魔化していた何もかもが、成す術もなく崩れ落ちた。

「お前、すげえよ。よく描いたな。頑張ったな、北村。よく描けたな」

私の何がすごいと言うのだろう。
岩泉がいなかったら、慰めの言葉より庇う背中よりずっと容赦なく引っ張り上げるあの正しさがなかったら、立ってすらいられなかったはずの私の何が。赦される優しさに甘えたまま、あの人の死を抱えたまま、座り込んでそれでお終いになっていたはずの、私の。

解凍された傷口から溢れる痛みで、胸が張り裂けそうだった。手にも足にも力が入らず、何もかも岩泉に預けたまま、私は泣いた。本当は三年前にこうしていたはずだった。三年間ずっと泣き方がわからなかった。
抜けないナイフを抱えたままあの人の死を悲しむには、どうすればいいかわからなかった。

私は祖母ちゃんが死んで初めて、祖母ちゃんを想って泣いた。

160428
ALICE+