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「え、紫乃、これ」
「あ、うん。描けたよ」

そう言えば報告するのを忘れていた。昨日のうちにラインでもしておけばよかったな。そう思ってごめんと謝ろうとしたら、朱音は地球外生命体でも見るよう顔で私を凝視し凍り付いていた。何故だ。

「…紫乃、あのね、そういうことはもっと、ていうか私がどんなに心配したか、」
「うん、ごめん、もう平気。心配かけてごめんね」
「こんな時だけ模範解答とか!!」

なんなの!北村なんなの一体!と地団太を踏む朱音は大層にご立腹だった。激おこというヤツだった。うんごめん、と素直に平謝りすれば「狡い叱らせろ」と怒られる。
謝ってるのに、ていうかもう十分叱ってるのに、と思うものの大層心配をかけたということは松川と岩泉を連れてきたという時点で十分理解できたので、今日は大人しく友人の癇癪交じりの説教を受けることに決めた。

正直な話、あの時の美術室での三人の会話はあまり覚えていない。眠気と怠さで頭もちゃんと働いていなかった。ただ松川がとても怒っていて、それは私が彼を酷く心配させたからだということはわかったから止めたのは覚えている。

その松川には朝、下駄箱で出会ったときに絵を描き上げたことは報告した。松川も大層驚いた顔をしていたけれど、昨日はちゃんと寝たか、朝飯は食ったかといつも通りお母ちゃんのような心配をしてきた。それも酷く心配をかけたせいだとわかっているので、一つ一つきちんと答えて健康状態を確約した。有難い話なのは承知で言うが、しかしみんな私に対して過保護なんじゃないかと思う。

「っていうか松川にはちゃんと言ったの!?」
「あ、それは朝会ったからその時に」
「私が二番目とかどういうこと!!浮気か!!」
「浮気の定義とは…」

何にせよ今日も親友は元気である。

「けどまあ、なにはともあれあとは引き継ぎだけになるんだね…」
「そうだね」

卒業制作の提出期限の迫るこのころは、昼休みでも部室に閉じこもり作業に取り組む下級生も多い。幸い朱音も私も作品を仕上げることが出来たので、鍵の開け閉めをする程度しか仕事はないのだが。

のんびり廊下を進んでいれば、不意に随分見慣れてきた後ろ姿をいくつか見つけた。その瞬間宙返りしそうになった心臓に自分で仰天する。けれど自然と視線が移った厚みのある背中と短い黒髪に、ざわり、心臓がざわめくのがわかって、入れてはいけないスイッチを入れてしまったことに気が付いた。蘇る温度が容赦なく頬を駆け上ってゆく。どうして思い出してしまうんだ自分。

……いや今更だけど、今更過ぎるけどアレは駄目だ。完全にアウトだ。目まぐるしく呼び起こされる昨日の醜態に眩暈がする。いくらいろいろ必死で限界もとうに超えててまるで冷静じゃなかったとしても、アレは100パー駄目だった。

思い出せば思い出すほど死にたくなる。せめて地中深くに埋まりたい。手も作業着も絵具まみれで、さんざん泣いて泣き疲れて寝落ちて、気づいたら負ぶわれて家まで送られる道中だったって何事だ。家に着いてすぐ死んだように寝たせいで思考回路が現実まで戻ってきていなかった。なんで私こんな平然と登校してきたんだ。どうする今からでも帰った方が今後の精神衛生にとって最善なんじゃ、

「あ、岩泉ー、松川ー!」
「、おう、成瀬か」

一種の絶望の淵に立っている時間があったら引き返しておけばよかったものを、気づけば無邪気な朱音の声が彼らの足を止めていた。完全にしくじった。岩泉が振り向く前に投げ落とした視線が、行き場のないまま爪先を彷徨う。

「やっほー成瀬さん。北村さんも朝から部活?」
「…まあ、鍵の開け閉めだけ…」

駄目だ。多分このあと三日は間違いなく岩泉の顔を見れない。愛想よく笑う及川くんにもごもご返しながら、一秒でも早くこの場を立ち去ることを願ったところで、ふっと落ちた影に目を見張る。
ふわり、鼻を掠めた覚えのある香りに心臓が止まった。

「北村」
「ッ!?」

目前に迫ったネクタイの結び目、シャツはボタンが二つ外されていた。至近距離で鼓膜を揺らした低音が、24時間にも満たない過去へと私の意識を投げ込んだ。

覗きこんできた鋭い双眸と視線が合う。逃げ出したいのに動けない。目の奥が溶け落ちそうなのに、目の前の岩泉はまるでいつも通りの表情だ。

『がんばったな、』

蘇った声、ぶわり、溢れた感情に、なんと名前を付ければいいのだろう。

振動になって伝わる低音、背中をあやす大きな手、首筋の温かさと暗闇、頭を撫でる不器用な指。
背を叩かれて踏み出せた。歯を食いしばる先でじっと待っていてくれた。辿り着いた先で力尽きるのを、当然のように受け止めてくれた。

断線した神経が孕む熱が身体に籠もる。岩泉がふっと視線を緩める。口元が微かに弧を描いた。

ああきっと。
この先の人生は途方もなく長くて、出会う人は限りなく多くて、だけれどきっと、確信をもってそう言える。


「…ん、ちゃんと寝てきたな」


きっとこんなひと、もう二度と逢えない。


頭に降ってくる大きな手のひら。髪をかき混ぜる武骨な指が、綻ぶような微笑みに滲んだ甘さが、くしゃり、心臓を一緒に握り込んで、声も出せずにただそう思った。


「…あ、のさっ!そうだよ、岩泉聞いて!」
「あ?」

朱音の声が岩泉の注意を逸らす。離れていった手がようやく呼吸を許してくれて、私はじんじんする顔を隠して俯いた。深呼吸を一つ、二つ、鳴りやまない鼓動を宥めすかす。
夏に一度切ってから伸ばしたままだった髪と岩泉を呼んだ朱音に感謝した。横髪に透ける視界の端で、彼女が岩泉の捲られたシャツの袖を掴むのが見えた。

「紫乃ね、あの絵描き上げたんだよ!」
「おう、知ってんぞ」
「えっ、ウソ、…いつ聞いたの?朝!?」
「いつっつーか、完成した時横にいたし」
「え、」

掴んだシャツを揺さぶっていた朱音の動きが止まった。耳を疑うような表情が彼を見上げ、それから私に向けられる。何でもなさげに語る岩泉に焦るよりも早く、ただ驚いているだけと言うには硬い朱音の気配に、頬の熱がゆっくり引いてゆくのを感じた。
なんだろう、流れる空気が音を立てて止まる錯覚。

「…でも、紫乃、私と一緒に帰ったんじゃ…」
「一回帰ってまた戻ってたんだよ、コイツ」
「…北村それどういうこと」
「ちょっ、岩泉」
「事実だろ」

岩泉がしれっと暴露したせいで松川が眠たげな瞳を鋭くさせる。聞いてないんだけどと睨まれて、私は視線を投げて黙秘に入った。
何かがおかしい。不意にその先で岩泉を見上げる朱音と目が合う。そして困惑した。大きく綺麗な茶色の瞳に浮かぶ色は、薄まるどころか濃くなった戸惑いを浮かべていた。

酸素が上手く回っていない。滞留する空気が少しずつ足元を固めてゆく、そんな錯覚。

「…え、うそ、私全然知らなかったよ紫乃」
「あ…うん、ごめん、心配かけてばっかだったから、つい」

咄嗟に言葉を返せたのは奇跡に近かった。朱音の声の朗らかさが揺れている。出来そこないの明るさに細かなヒビが入っているように思ったのは、私の気のせいだろうか。

「でも岩泉はなんで、紫乃のこと」
「、居残りのことか?帰りに見かけたんだよ、こいつが校舎に戻ってくの」
「けど、それだったら…松川もいるじゃん?なんで岩泉がわざわざ」
「…?別に、」
「俺そんとき多分いなかったから」

不自然な遮り方だった。
何を考えるより先にそう思った。いつも通りのトーンといつも通りの声。でも松川が普段こんな割り込み方をしないことを、私は経験則から知っていた。

岩泉も少し驚いたような顔で松川を見る。その時気づいた。ずっと隣にいる及川くんと花巻くんは、もうずいぶん長いこと沈黙を守っている。

「別に深いイミがあったわけじゃないだろ、岩泉」

眠たげな瞳と口調で何でもないように紡いだ松川を見詰め、岩泉は驚きの色を消すと真顔のまま唇を引き結んだ。脳味噌の裏側をちりりと焦がす既視感。いつだったか―――そうだ、美術室のあの時も、確かこんな風に。

「…さあな」

随分長い間をあけて、岩泉がそれだけ言った。今度こそ明らかに言いしれぬ強張りを浮かべた朱音の表情が、網膜に焼き付くのを感じた。
図ったようなタイミングでチャイムが鳴る。慌ただしく自教室に戻る生徒たちの流れに乗って動き出すまで、私にはさらに数秒の時間が必要だった。

教室に戻り、席に着き、機械的に開いた教科書の文字を視線が上滑りする。今起きたこと、行き交った言葉、何でもないものとして片づけられていた記憶が急速に渦を巻き頭の中を埋め尽くす。

深いイミがあったわけじゃないんだろ。

松川の問いを、それに対する岩泉の返答が鼓膜を揺らす。揺るぎない声はいつも通りだったのに、岩泉はその肯否をはっきりさせなかった。

何かが奇妙しい。朱音の声が、岩泉の顔が、松川の言葉が頭から離れない。

そこまで察知し、落ちる影の不安を漠然と感じながら、その実像の端すら掴めない自分の頭の悪さには閉口する他なかった。

160502
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