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「あれ、紫乃?」
「、朱音」

東北の残暑はそう長くはない。昼夜の気温差は少しずつ開いてゆき、秋の足音が微かに聞こえている。部の引退式が行われたのはつい数日前のことだ。今期の引退生らは皆無事に卒業制作も終了し、今も部活に顔を出している三年は美大への進学を希望している数名のみ。
にも拘わらず放課後の廊下で成瀬朱音が遭遇した友人は、スクールバックを肩に下駄箱へではなく、見慣れた制作用の布バックを肩に反対方向へ向かっているところだった。

「え、まさか紫乃やっぱ美大行くの?」
「天地がひっくり返ってもないかな」
「仮にも美術部がそんな全否定しないでよ」
「部活でもしんどいのに学部とか死ぬ」
「それ松本先生の前で言ったら殺されるね」

至って真面目な紫乃の台詞を軽口で掬うのは朱音の得意分野だ。だが交わす会話のスムーズさはさておいて、気になるのは紫乃の行く先だった。

「でもそれ絵具かばんだよね」
「うん」
「部室行くの?」
「いや、体育館に」
「、体育館?」

朱音が表情を変えた。そしてその変化に、紫乃の顔には戸惑いがよぎった。

「…体育館って…何しに?」
「え、そりゃ、絵を描きに」
「…なんの?」
「バレー部の…だけど」

廊下に舞い降りる灰色がかった沈黙。突然表情を硬くして黙する友人に、紫乃は何かおかしなことを言っただろうかと困惑した。そして形の見えない何かに対しわずかに緊張する。そこはかとないデジャヴ。名前の付けようのない緊迫感が、ひっそりと濃度を上げてゆくような。

「紫乃の卒業制作って…おばあちゃんの絵じゃなかったっけ」
「、うん、卒業制作はそうだけど…バレー部のは別だよ」
「別?」
「…祖母ちゃんのは、まあ、ずっと延ばしてたヤツだから」

あれは多分、本当は、三年前に描くはずだったものだ。できるなら当時に描いておきたかったし、でもあの時じゃ絶対描けなかったとも思う。
あれは今の自分だから描けたものであり、同時に過去の遺物でもある。描いて良かったと思うのは嘘じゃない。でも、描きたかったわけじゃ、多分ない。

「今年描きたいって思ったのはバレー部だけだから」

だから部活とか卒業制作とか、そういうのとは全く関係ない、ただの自己満足だ。
ひとつひとつ言葉にして整理し、伝える間、朱音はじっと紫乃の足元を見詰めて黙っていた。
紫乃はやや落ち着かなくなる。基本的にじっと見つめられるのは好きじゃないけれど、長らく友人を続けてきた朱音と目が合わないのは無性に不安を掻き立てた。

「…それって、」

朱音が不意にぽつりと言う。

「誰のこと、描くの?」

漸く噛み合った視線に、その場に縫い留められたような気がした。
強張った瞳だった。揺らぐ水晶体に張り詰める恐怖。瞬きすら惜しむように差し向けられた眼差しが孕む得も言われぬ予感と恐怖に、言葉を飛び越え心臓だけが共鳴する。

結んだ関係の淵の際、背けた視線で辛うじて保たれてきた静寂が、互いの言葉で剥き出しにされようとしている。
怖いのはどちらも同じで、けれどきっと、もう避けては通れないことだけはなぜか理解できた。

頭の中で何かが鳴っている。警鐘。警報。けれど言わねばならない。いつだって形にし損ねるこの不透明な激情が、鳴り響く心臓を突き破ってしまう前に、答え合わせをしなければならない。
読み解いてくれる人はもういない。自分と向き合うのに絵が必要なのだとしたら、誰かと向き合うために必要なのは言葉だ。それを教えてくれた一人である親友には、形にできるものすべて、欠片であっても伝えねばならないのだ。

だがゆっくりと息を吸い込んだその瞬間、来るべき返答を拒むように口を開いたのは、尋ねた朱音本人だった。

「紫乃、あのね」

ああ。
刹那、気づいてしまう。震えた声が、繕われた明るさが、何もかもを白日の下に晒してしまう瞬間に。
静かでささやかな、それでいて決定的な決壊。言葉が喉笛に突っかかる。きっともう出ない。出すことは出来ない。本能的に確信できた。形をとってしまったそれはきっと、いつものように呑み込んだ先で藻屑となって消えてはくれない。


「わたし、」

岩泉のこと、好きなの。


「……そっか」

一足先に感知した崩壊にひたひたと心臓を浸して、ゆっくり伏せた視界をゼロにする。開けてはならない。見てはならない。大丈夫、形をとってしまったところで、祖母ちゃんの面影よりはずっと淡いのだ。きっと上手に眠らせられる。

名づける前に息絶えた感情は、瞼の裏の闇へと葬った。

160504
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