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「まっつん、今日も?」

松川に向けられた及川の問いかけは抽象的で、見事に会話に溶け込んだ何気ないものだった。

「、まあ」

自主練終わり、とっぷりと日の暮れた校舎を後にしようとする生徒はもうほとんどいない。さらりと応じられた返答は夕闇に余韻を残して溶ける。

その数歩前を歩む成瀬朱音は、緊迫する感情を隠しきれなかった。彼女はそっと隣を伺う。隣をゆく岩泉一の横顔に、表情の変化は伺えなかった。


暮れた夏は短い秋を連れてきて、陽が落ちるのが速くなった。ストーブが準備され、マフラーを巻かなければ帰りが辛い季節が近づいている。
受験勉強のため居残る朱音が、バレー部と帰路を共にするのが定番になるのに時間はかからず、それはごく自然に彼らの日常に馴染んだ。ただ一つ、その隣に紫乃がいないことを除けば。

「んじゃ、行ってくるわ」
「、…うん、ありがとう松川」
「おー、また明日な」
「またねーまっつん」

松川はゆるりと手を上げると、爪先の向きを変え人気の絶えた校舎へと消えてゆく。その行く先にA校舎三階、今も煌々と照る窓の教室に一人居残る彼女がいることを、その場にいる皆が知っている。
岩泉は何も言わずその背から視線を背ける。ただ一人見送りの言葉を告げなかった彼に、朱音はここ最近強まるばかりの嫌な胸騒ぎがまた増し加るのを感じた。


部を引退した今もなお、紫乃が放課後美術室に籠もっているのを朱音は知っている。それが二人の間に横たわるついに無視のできなくなった溝を深めようとするものでも、あるいは友情の断絶を告げる類のものでは決してないことも。

朱音は知っている。紫乃は画家だ。本人がどれだけ疎んじたところで誰もがそれを肯定する。彼女はその類稀な技術以上に、持って生まれた本質の部分から、骨の髄まで芸術家だ。その彼女が描くと決めたのだ。それを止めることなど、同じく絵を描く人間として以上に、友人として朱音にはできない。
そしてあの恐ろしく口下手で不器用なアーティストに、親友の"邪魔"立てをする意図など僅かたりともないことは、朱音が一番理解していた。


ともすれば最終下校を超えても居残る彼女を迎えにゆき、家まで送るのは松川の役目になった。朱音を交えて月曜のオフの日に開くようになった勉強会にも、松川が参加することはなかった。まるで紫乃を一人にすることを厭うように、彼は彼女の籠もる美術室に向かい、その一角で自習してゆく。
自らを彼らから切り離そうとした紫乃を繋ぎ止めるように、松川は何も言わず彼女に寄り添うようになった。そしてその背を見送る岩泉が皺を刻んで目を背けるのは、一度や二度の話ではない。

朱音は知っている。自分が紫乃のことを本当に好いているのと同じように、紫乃も朱音をとりわけ大切に思っていることを。そして自分は、―――それにつけ込んだ。
でもそれは、そんなつもりで言ったんじゃないのだ(いいや、本当はわかっていた)。距離を置いたのは紫乃が勝手にやったことだし(そうなることもわかってた)、紫乃だって今も美術室に行っているのだから(でも紫乃はきっとその絵を誰にも見せず葬るのだろう)、だから。

そうやって気づかぬふりを貫きたい事実が、朱音の首をじわりと絞める。



「行かなくていいの」

朱音は息を止めた。踏み込んだのは花巻だった。あるとすれば間違いなく及川だと信じて疑わなかった彼女の予想は予期せぬ形で、それも唐突に破られる。彼の問いかけが誰に対するものか、そして何を目的語とするものかは明白だった。

「…松川が行った。一人で十分だろ」

誰と言われる間もなく岩泉が応じる。いつの間にか止まった歩みが校舎からの距離を保ったままにすることが、朱音を一層焦燥に駆りたてた。けれど皆は動かない。花巻もまた追及の手を休めなかった。

「人数云々の話じゃなくて、お前はいいのかって話」

だめだ―――それ以上はもう。出すべき言葉も決まらないまま朱音の唇が開く。けれど言うべき何かを見つけるより早く降ってきた視線は、彼女の言葉を封じ込めた。
及川のヘーゼルの瞳が、朱音を静かに牽制する。

その一瞬で沈黙を破ったのは岩泉だった。


「―――俺じゃダメなんだろ」


押し固めた台詞の意味を悟れないほど鈍い者はここにはいない。
沈黙以外に割れたものがあることに、及川は、そして花巻もまた気づいていた。







「俺、マッキーはまっつんの味方だと思ってた」
「は?」

成瀬ンこと送ってくる。
言い残して道を違えた幼馴染の姿を脳裏に思い描き、及川は空を仰いだ。よく晴れた夜空だ。今頃彼の幼馴染は、あのクラスメートの彼女に呼び止められているのかもしれない。

行き着いた結末は及川の想像から遠く離れてはいなかった。朱音が岩泉を好いているのは見ていればすぐにわかることで、それに気づいていないのは岩泉本人だけで―――否、きっとあの子も同じように、この最近になるまでまるで感知していなかったんだろうけど―――そして岩泉の視線の先にいるのは、結局のところあの子だった。

残酷で、けれどありがちな話だ。及川は眼を閉じる。ただ意外だったのは、いずれ切れるのも時間の問題だったあの糸を断ったのが、この友人、花巻貴大だったということだ。

「つったってお前もノータッチじゃん」
「そりゃどっちも大事な仲間だし…変に手ぇ出して拗れたらコトじゃんか」
「そういうことだよ。別に、味方も何も関係ねーべ。結局は当人でカタつけるしかねーんだし、外野がどうこうしても仕方ないだろ」

あっさり言い切った花巻に及川は少し鼻白む。別に間違ってはいないし、細かいところには割と無頓着な花巻らしいと言えばそうだ。だが幼馴染と友人の板挟みになった心地で落ち着かなかった身としては、自分が気にしすぎだと言われたようで妙な気持だ。

「…だから、さっさとケリつけてこいってこと?」
「まあそういう風にも言えるけど、アイツらならダイジョブだろってのが一番だな」

岩泉は言わんでもオトコマエだし、松川だって器用な部類じゃん。んでどっちもそういうの他人に相談するタチじゃねーし。

「だからまあ、そういうのは全部終わってから慰めるなりすればいいかってネ」

へらり、笑った色素の薄い友人の横顔に、及川はその瞳をぱちくりさせる。だが花巻はその様子を眼に内心苦笑した。中立を保っていたように見えるヘーゼルの瞳がつい先ほど、岩泉に想いを寄せる少女の言葉を封じ込めたことに彼は気づいている。
でも仕方ない。この男の幼馴染に対する情は多分本能レベルだ。それを咎めるつもりは自分にも、きっと松川にもないだろう。

それに結果はどうあれ、花巻は別に岩泉に味方したつもりはない。岩泉は無論、及川も知らないが―――松川は予め、花巻と密かな盟約を結んでいた。長い長い片想いの結末を予見した松川自身が、必要と判断された時にはその幕引きに手を貸すよう、花巻に頼んでいたのだ。

松川は自嘲するように言った。
自分では自分の感情に、引導を渡してやれそうにない。

『お前はそれでいいわけ』

ややあって尋ねた花巻に松川は肩をすくめた。大人びた横顔は寂しそうに笑った。

『俺じゃダメなんだってわかったからな』

奇しくも、本当に奇しくも。
岩泉が彼と同じ台詞を吐こうものとは、夢にも思わなかったけれど。



「…上手くいかないね」
「そうだな」

しんとした声で紡いだ及川に花巻は頷いた。岩泉といい松川といい、いっそ殴り合いでもしてくれた方がこっちとしては安心なのに。こうも十代らしからず穏便な終末を迎えんとされれば、何も言わずに黙って見守るしかないじゃないか。

花巻はひとりごちる。
なんでもいいけど、俺からすれば、お前らが自分の何をダメっつってんのかわかんねぇわ。




そうして帰路を共にしたその翌日から、朱音はバレー部と共に帰るのをやめた。

皆を避けるように俯きがちで擦れ違う横顔、その赤く腫れた双眸が、その日の帰り道に何があったのか如実に語っていた。

160510
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