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塗り拡げるポスターカラーに眉根が寄った。違う、濃い。投げるように手離して探した別のケースにはアクリルの文字、けれどイメージはまるでついてこない。

戸惑いを超えて苛立ちが湧く。色さえ決まらない。いつだって逆だった。クリアになったはずのイメージに手がついてこないなんて、今まで一度もなかったのに。

緑以外の浮かばないパレットを水を張った桶に突っ込むのは、今日でもう四回目だった。



『最近見に来ねえけど、どうかしたのか』

聞かれる質問は十分予想できていた。だからこそ応じるために考え出した返事は、それでも呆気なく詰まってしまった。
頭の中で繰り返した仮想の出来の甘さを痛感する。実際目の前にした彼の瞳は、薄っぺらな想像を遙かに凌駕する現実感を持って、私のことを見下ろしていた。

『…まあ、一応は引退したし』

深呼吸もむなしく強張った声に、岩泉が目を細めるのが見えて視線を落とした。しくじったのは明白だった。嘘は苦手だ。言い訳が上手くいった試しなんて生涯で数えるほどしかない。とりわけ岩泉はきっとそういう誤魔化しに敏いのに。

けれど降ってきた言葉は、想像したどんな台詞より深く突き刺さった。

『俺らのことは、もう描かねぇのか』

顔を見れなかった。返事もできなかった。
首を振らずにいるだけが、私にとっての精一杯だった。



「っ…、」

どうやったら描ける。あの刹那を、駆け抜けた小数点以下の尊さを、どうすれば。

光の加減はどうなる。体のどこから描けばいい。鮮やかに焼き付いたはずの景色は余りに鮮烈過ぎて、手と筆が追いついてこない。
何度も繰り返すイメージを筆でなぞる。研ぎ澄まされた瞳、しなやかに反る背と弾む筋肉、指先にまで漲る覇気、飛び散る汗が反射した夏の光。

選んだのはエメラルドグリーン。余計な色はいらない。掴みきれないイメージを、色褪せる前にモノにするためだけの下書きとして、水の量だけで作った濃淡をキャンバスに乗せる。

追いかける筆に足りないものは何だろう。でもこれはきっと指じゃ描けない。あの瞬間は触れてはならず、私の温度を加えてはいけない。

浮かび上がる反った背の稜線、振りぬかれる腕の柔らかい構えと、その数瞬後に放つ一閃へと静かに漲る緊張。ネットの向こうを見据えた双眸は、来るべき三色の球体の到着をわずかも疑わずに―――。


「岩泉?」


真後ろから聞こえた声に、冷水を浴びせられた気がした。

胸を突き破るように脈打つ鼓動。跳ねた指先が筆を取り落とす。振り向いたすぐ後ろに佇む友人は、何の感情も読めない無表情をしていた。
一体いつから。それよりも、何故。

「その絵」

静寂を切り抜いてそのまま言葉にしたような、無機質で質感に欠けた声。松川の示すものが実在人物の登場ではなく、まだ顔どころか頭も描いていないキャンバスのモチーフを問うものだと悟るまでの数秒間、松川はただ私を見下ろし返答を待っていた。

底知れない両眼で自分を見詰める松川に、今までにない胸騒ぎを感じる。ようやく絞り出した答えはほとんど無意識に近かった。

「―――朱音には言わないで」

言った瞬間から罪悪感にも似た恐ろしい何かが私の首を締め上げた。

描いてほしくないはずなのだ。あの子は、本当は私に、岩泉のことを。
今まで霞みの様だった思考に言葉が追いついてくる。どこにも出す気はないし彼本人に見せる気だってない。それはただの自己満足で、脳裏にちらつくのは強張った親友の顔で。

それでも描いておきたい―――筆を手離せない。
けれど思って視線が落ちるより早く、松川の表情が崩れるのが見えた。

「っ、?」

見たことのない顔だった。
眉根を寄せた苦しげな表情。引き結ばれた唇と、揺れた瞳が一緒にゆがむ。
戸惑いを感じるより早く首筋を刺したのは既視感だ。ゆっくり降下してゆく血潮が回答に行き着こうとする。

何かが重なる。脳裏に閃く親友の顔。彼のことが好きだと告げた、朱音の強張った顔が浮かんで、


「――――、」

いや、そんな。―――そんなことは、絶対。


「…ホントお前、時々突然、恐ろしく察しが良いよな」


絵筆が落ちる。柔らかく床を汚す音。全身を巡る血が氷水のように体温を奪い、体が震えだす。
まさか。そんなわけ。だってそれじゃあもう何年。

「これ言うとお前、すげぇ傷つくんだろうなって思って、…でももうわかっちまったよな」

松川が笑う。優しい声だった。そのぶんだけ、傷ついた声だった。
諦めたように色褪せた瞳を細め、苦さを溶かし柔らかく笑んだ松川が、手離すように囁いた。


「俺、北村のこと、すきだよ」


ずっと前からすきだった。


――――告白される気分ってどんなのだろうと、考えたことがある。

きっと驚いて、照れて、戸惑うかもしれない。もしそれが好きな人なら信じられなくて、でも嬉しいんだろう。
そう思っていた。現実は違った。

こんなに、いっそ刺し殺してくれと思うほど苦しいなんて、一度も思ったことはなかった。

「北村、」
「謝んないで」

この心臓を引き裂いて投げ捨ててしまうことが出来たら、どんなにいいだろう。そうして踏みつけて踏みにじって、流れる赤がすべて地に吸い込まれたらその時、私はきっと理解するのだ。このひとが今私に向ける感情の痛みを、焼けるような思いを。

「謝んないで、松川」

ほとんど反射だった。この優しい友人が何を言わんとしているのかは透けて見えるように察しがついて、それだけは言わせてはいけないと思った。

松川は謝るようなことなど何一つしていない。責められるとしたら能天気で考えなしの私だ。ボタンを掛け違えたことを露程も気づかず、最後までかけ続けたその先で、ついに穴がなくなって、そこに至るまで気づかなかった私のせいだ。

私に謝る資格はないし、彼に謝らせてもいけないと思った。唇まで出かかっているそれを呑み込んで、喉を裂くような思いを押し殺す。
松川の手に、その温度に、言葉に何度も救われた。決壊しそうな淵をそっと指先で抑えてくれるような、そんなやさしさにもうずっと支えられてきた。

それはきっと、私が岩泉を見詰めていた間もずっとなのだ。

「…ッ、」

松川。
私馬鹿で、鈍くて、自分のことも見えてなくて、今までずっと松川がどんな目で、どんな顔で、どんな思いで私の傍にいてくれたのか何も知らなかった。きっと今だって本当にはわかってない。これ以上ないくらい愚かで救いようがない。ごめん。松川、ごめん。

「…泣くなよ」

殺し損ねた涙の礫が落下する。握り潰されたようにゆがんだ視界が熱を帯びて晴れる。降ってくる声の余りの優しさに、目の縁が火傷しそうなほど熱くなった。
どうしようもなく震える手を握られ、その手の温度に、どう頑張ったって止まらない涙が散る。息を吸うたび酷い声が漏れた。

「代わりでもいいって言ったら?」
「…」「岩泉のこと、好きなままでもいいって言ったら?」

嘘ばっかりだ。思ってもないくせに。そんなこと、一つも望んでないくせに。

松川の優しさが残酷だと初めて思った。彼はどうあっても私にノーと言わせる気だ。優しく手を引くように誘導して、私が一番傷つかなくていい場所にまで連れて出るつもりでいるのだ。
私は彼の優しさに甘んじる以外に、これ以上彼を傷つけずに済む術を知らないというのに。

松川のことが好きだ。でもそれは、岩泉に対する感情とは違う。松川が大切だ。でもそれはきっと、松川が欲しい感情じゃない。
頭の足りない私にもそれだけはわかる。私には松川が一番欲しいものをあげることが出来ない。それはなんて不毛な堂々巡りだろう。

彼の引いたレールにも乗れず、立ち尽くして言葉を失くす私に、松川はついに回答すら要求しなかった。

「大丈夫、わかってたから」

柔らかな諦めと赦しを帯びた声が、心の脆い部分を刺し貫く。罪悪感と自己嫌悪で膿んだ傷口が抉られるのをただ耐えた。それ以外に出来ることなんて何もなかった。

「北村が誰を見てるか、最初からわかってた。知ってて言った」
「…っ」
「お前、多分泣くだろうなって思ったんだけど言ったの。酷いヤツだろ、俺」
「ッ…まつかわ、」
「いいから」

このひとはどうしてこう。
分け合う手と手のぬくもりに、私の好きなゆったりとした声に、心臓を引き裂かれ、心を千切り取られる。痛いほど握りしめているのに、私の力なんて子供のそれと変わらないのだと言うように、大きな手は私の指先を容易く優しく解いてしまう。

離れた体温に、世界の真ん中に一人取り残されてしまった錯覚を引きずって棒立ちになる。
覗きこんできた彼の眼は、今までで見た中で一番優しく、一番苦しい色をしていた。


「ごめんな、紫乃」


息が詰まった。視界がゆがんだ。
言われたことを理解して、松川の顔が見えなくなった。


「なん、で!」
「うん」
「あや、謝んないでって、言ったじゃんか!」
「うん」
「私が、私が最低なんだ、私が、…まつかわ…っ!」
「違うよ北村。…ありがとな」

謝るのもお礼を言うのもすべて私のはずだった。でも今それも違うと気づいた。

私を好きになってくれたこのひとに、その結末を私なんかよりずっと前から予期していながら、今の今まで傍に居続けてくれた強くて優しいこのひとに、私がしてあげられることなんて何もない。唯一出来るとすればそれは、中途半端に気持ちを曲げす、その優しさに最後まで甘えきることだけなのだ。

松川はただ手を握っていてくれた。ほとんど言葉もなくただ泣きじゃくる私の傍で、いつかと同じように、いつもと同じように、静かに佇んでくれるばかりだった。

160512
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