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手が進まない。
パレットを前に私は立ち尽くしていた。用意されたキャンバスは真っ白のまま。次のコンクールに出すには最低でも三か月、いや四か月は欲しい。私はもともとそう手の早い方ではないのだ。
なのに頭が真っ白だから、キャンバスだって色をつけられない。顧問の無言の不満を思い出してため息を吐いた。

「…ごめん朱音、ちょっと抜ける」
「はーい。…上手くいかない?」
「まあ。それに、届け物があるんだ」
「届け物?」
「松川。タオル置いてった」
「松川って…え、バレー部の?」
「そう」

怪訝そうにする朱音に応じながら、私は鞄に手を突っ込み昨日洗ったタオルを取りだした。簡単なショップバックにいれたそれを持ち、出口に向かう。今日はまだ絵具を出していないから、汚れた手でタオルを触ってしまう心配もない。

「え、じゃあ今からバレー部行くの?」
「そりゃ…今が一番捕まえやすいし」
「…私も行こうかな」
「朱音も?なんで?」
「んー、気分転換ってやつ?」
「…、まあ、なんでもいいよ。好きにして」

彼女が部活を中断するのは珍しい。それに見ていたところ、今日はなかなか調子がよさそうだったのに。
ちらちらとこちらを見やる後輩たちに一言断り、すぐ戻ることを告げて部室を出る。朱音は私が生来団体行動派でないことを知っている。だから、こうして行動を共にしようと声をかけてくること自体あまりないのだ。

「珍しいね」
「たまにはいいじゃん。ていうか、紫乃は休憩が多いんだよ」
「…悪いね、後輩のこと任せてばかりだ」
「それは構わないけど」

ゆっくり歩を進める。初夏の木漏れ日が美しい。穏やかな春の終わり、足音を立ててやってくる夏の始まり。ありきたりな美しさだ。けれど万人が理解する美。
こんな美しい絵を描けたらどんなにいいだろうか。思っても仕方ない。私の筆ではこの繊細な美しさを表現するはおろか映し出すこともままならないだろう。私に風景画は向かない―――いや、違う。昔は風景画だって描けたのだ。得意とは言えなかったけれど、調子のいい時はそれなりに描いていた。人だって、

「綺麗だねー、めっちゃいい天気」
「……うん」

いや、やめよう。もう古い話だ。くだらないと言われるかもしれないが事実昔からそうだった。描くことが楽しかったことなんてほとんどない。こんなにごちゃごちゃ考えているのにいつだって答えは出せず言葉にもならず、燻る感情の処理に行き詰った結果、クレヨンで、色鉛筆で、絵具で紙に吐き出すしかなかった。それが始まりだ。

私の絵は初めからそうだった。形になりそこなった感情の残骸。出来そこないの自分の破片でしかない。けれど他人はそれを才能と呼んだ。私は怒りも呆れも通り越して途方に暮れてしまった。そこに横たわる余りの理解の隔絶に、認識の誤差の広さに愕然とし、そして諦めたのだ。

才能とはもっと美しく煌めき、傷ついても欠けてもその輝きを失わない、きっとそういうものだ。私のこれは才能とは呼ばない。ただの欠陥だ。けれど誰もそれを理解してはくれなかった。
そうだ、あのひとだけ。あのひとだけだった。―――だけだったのに。


「確かバレー部は第二体育館だったかな」

さあ、と風が吹いた。意識が引き戻される。一拍遅れて、隣の友人が話しかけてきたのだという現状をなぞるように理解した。

「、……よく知ってるね」
「クラスメートに男バレがいるんだ」
「へえ」
松川、は確か朱音とは別のクラスだったはずだ。であれば私には見当がつかない。さざめく木葉擦れに耳を傾けながら、タオルを手の中で弄んだ。男子のことはほとんどわからない。もっと言えばクラスの女子のこともよくわかっていない節がある。

「あーもう練習始まっちゃってるかな!?」
「及川先輩がサーブ打つとこ見逃しちゃったらどうしよう!」

ばたばたとした足音と共に明るい悲鳴が私たちを追い抜かしていった。私は目を丸くしてその元気な背中を見送る。向かう先は同じく第二体育館。同じように何人かの女の子たちが体育館に吸い込まれてゆくのを見て、隣の朱音を伺った。

「…今日なんかイベントでもあるの?」
「え、…紫乃ってほんと…まあ半分似たようなもんだけど、そうじゃないよ」
「?」
「及川徹。バレー部の主将だよ。めっちゃイケメンでバレーも上手いって評判の。名前くらいわかるでしょ?」
「あー…多分、うん」

そういえば入学当初から目立つ容姿の男子がいたっけ。生憎クラスが同じになったことがないのでわからない。そう告げると朱音は呆れた顔をしつつ、体育館の入口に足を踏み入れた。私もそれに続く。

ダダン、初めに感覚を捉えたのは床を叩く打突音。体育館の天井にくぐもって反響するその内側に、きゅ、きゅ、という軽い摩擦音が弾ける。
張りのある低音が重なり合うように檄を飛ばすのが聞こえ、再びバシッという衝撃音、床を撃ち抜くボールの音がした。ぴりり、肌を騒がす熱気と覇気。

「…今入って大丈夫かな、これ」

意気揚々と進んできたはずの朱音が、その真剣な気配に気圧されてか足を止める。私も同じく一瞬気後れはしたが、目的は一分あれば足りる話だ。近くにいる部員さんに託してしまえばいいだろう。それに、ドア一枚越しからですら伝わる躍動感と緊迫を内包した熱気に、いささかの興味も沸いていた。
体育館の扉に手をかける。案の定コートに入っていない部員さんがすぐ傍に立っていた。

「あの、すみません」
「、はい?」
「松川一静って、今…」
「まっつん右!」

ダダン、遮ったのは打撃音と鋭く飛んだ指示の声。はっとして視線を向けた先には中学からの顔なじみがネットの上から長い腕を伸ばし、ボールを叩き落とす姿があった。…すごい気迫だ。普段眠そうに緩く笑う松川しか知らない私に、鷹の如く鋭くされた双眸でもってネットの向こうを見据える彼は酷く新鮮に映る。バレー部男子としての松川を見るのは随分久しい気がした。恐らくは中学ぶり。

思わず止まった言葉を呑み込み、戸惑い半分にこちらを見る男の子を見上げ直す。目の前の彼は背丈こそ私より十分にあるが、雰囲気がまだ幼い。一年生だろうか。

「あの試合、まだかかりますか?」
「え、まあ…さっき始まったんで、すぐには終わらないと思いますけど」
「じゃあこれ、松川に渡しておいてもらえませんか。忘れ物なんですけど」
「ああ、そういうことなら…」
「金田一!」
「、はい!」

またも会話に邪魔が入ったらしい。呼ばれた声に振り向いた一年生の名は金田一というようだ。私は差し出したまま宙ぶらりんになるタオルを間抜けに持ったまま、彼を呼んだ人物の方に顔を向け、そしてはたと動きを止めた。同じくしてこちらに歩いてきていた彼もまた、私に目を留め一瞬足を止める。

「次のローテ、お前に…って、」
「あ…」

ばちん。噛み合う視線のその真っ直ぐさに、意味のない音が唇から漏れる。短い黒髪、男らしい首筋をタオルで拭うぞんざいな仕草。それを止めてこちらを見つめる瞳には純粋な驚きの色が散っている。
なんて硬質な透明感を持つ瞳だろう。呼吸を止めた脳味噌の片隅で、無酸素状態の思考が呟くのが聞こえた気がした。

「…お前、確か…、」
「あっ、岩泉じゃん!やっほー!」
「!」
「成瀬?」

何とも言い難い膠着状態を吹っ飛ばしたのは私の友人の声だった。さっきまで後ろで様子をうかがっていたのだろう、弾むように飛び込んできた朱音は顔を明るくして入口から顔を覗かせる。それでも踏み込んでは来ないあたりが彼女のさりげない遠慮を表していて、私はそっと場所を譲って横にずれた。どうやら朱音はこの男の子と知り合いらしい。

「どうした、なんか用事か?」
「んーん、私は勝手に付き添いしてるだけ」
「付き添い?…ああ、」

いわいずみ、と呼ばれた彼が再び私を見やる。その瞳が問うところに軽く頷いて見せると、彼は納得した顔をして頷き返した。多分言葉にすれば「そうだよ」と「そうか」。初対面の人にはいい加減過ぎる対応かと思ったがものの彼の反応は存外普通で、私は少しだけ変な気分になる。主語も述語も放棄しがちな私の話し方は、本来初見には基本的にウケが悪いのだ。

なんとなく、本当になんとなくだけれど、それ以上何かを言う必要はない気がして、私は黙って松川を待つ体制に戻る。よく見れば彼の位置はローテーションの後半の方だ。もしかすると離脱は意外と早いかもしれない。
そう思って松川の姿を眺めていれば、怪訝そうにした朱音が、岩泉と私を見比べて言った。

「え、もしかして…紫乃と岩泉って知り合い?」
「、…知り合い、ってほどじゃねーけど」
「…前に、廊下で会ったっていうか」
「…ふーん…」

納得いかないといったように不可解に首をかしげる友人に、私は彼の方を伺い見る。しかし彼も彼でそれ以上の説明は思いつかないらしく、何とも言えない視線を一つ寄越された。

もしや彼は私の存在を覚えているのだろうか。私が覚えている接触はあの廊下での一件限り。職員室の帰り、コンクールに出された絵の展示を見ていた彼が、私を認識していた可能性はほぼゼロと見込んでいたのだが。
まあいいか。事実として私と彼に面識はほとんどない。学年が同じなので顔くらいは見たことがあるだろうがその程度のこと、私にとっては衝撃的で印象に残る邂逅だったのだが、彼にとっては特別記憶に残るような意味などないだろう。

しかし驚いたことにこの直後、私は彼が私を認識していたことを知ることとなる。

「名前、なんていうんだ」
「、…北村だけど」
「ならあの絵、…やっぱりお前のだったのか」
「!」

あの絵。
はっとして顔を上げれば途端、漆黒でありながら限りなく透き通る双眸に射抜かれた。魂そのものを浅い水面に晒したように、その視線はすうっと体の芯へと染み入ってくる。

浸される。それはまさにそんな感覚で、私は思わず目を逸らした。失礼だったかもしれないとわれに返ったものの、平然を装い頷いただけで気の利いた言葉は何一つ出てこない。
だが彼は身構える私の予想に反し、それ以上何を言うでもなかった。

「岩泉だ。よろしくな」
「、…北村紫乃。よろしく」

最高度にシンプルな自己紹介はつつがなく終えられた。何の含みも裏表もない口調に、元来の人馴れしない性質が鳴りを潜める。やはり釈然としない様子で私たちのやり取りを見ていた朱音は、それ以上会話が続かないのを見て、再び口を開いた。

「えーと…いいかな?練習中にごめんね岩泉、紫乃が松川くんに渡したいものがあるみたいで」
「松川?…ちょっと待ってろ。悪いな金田一、先行ってろ」
「あっはい!」
「松川!」

コートへ駆けてゆく寸前、ぱっと会釈してゆく先ほどの一年生に慌てて頭を下げ返す。それを見送れば、彼と入れ違いになった松川が岩泉の声に反応し、こちらに視線を向けた。驚いた顔をする彼にタオル入りの袋を振って見せる。思い当たることがあるのだろう、彼はああと頷き歩み寄ってきた。

「悪い、忘れてったっけ」
「いや、私も気づかなかった」
「もしかして洗濯した?」
「まあ」
「そのままでよかったのに」

松川の視線が横にいる岩泉と、彼に話しかける朱音の姿をとらえる。それからその眠たげな双眸が再び私を見下ろして尋ねた。

「部活はいいの?」
「進まないし、気分転換もかねてきたから」
「…ま、気乗りしないときはしないしな」
「……そんなこと言うの、松川だけだ」

悪い意味じゃなくてさ。付け加えた一言に松川が開きかけた口を閉じる。彼を私の理解者と呼んでいいのか私にはわからない。ただ中学から進学先を同じにした数少ない旧友が、この男でよかったと思うのは間違いなかった。

「岩泉と知り合いなん?」
「いや、さっき知り合った」
「ふうん」
「彼、朱音と同じクラス?」
「成瀬?ああ、確か一緒だったな」
「それでか」

ただのクラスメートと言うにはそこそこ話す間柄なのだろう。途切れない会話に耳を傾けながら、私はそっと体育館を見回す。朱音の言っていた及川という選手が埋めたであろうギャラリー席の一角のおかげで、部外者たる私たちの存在が薄まっているのはありがたかった。とは言え体育館そのものに足を踏み入れているのは私たちだけだ。私は一抹の居心地の悪さを禁じ得ず、松川に断り先に玄関口に出ることにした。

「北村は練習見ていかねーの」
「…?私及川って人のファンじゃないけど」
「っぶは、…今のちょー良い、及川に聞かせてやりてーわ」

別に及川のファンじゃなきゃ見れないわけじゃないよ。
言いながら喉を鳴らして笑う松川に、そんなおかしなことを言っただろうかと首を傾げる。まあ松川が楽しそうならそれで構わないが、ともあれ生憎バレーには明るくないし、そろそろ戻らないと顧問がやってくる頃合いだ。ゆっくり見学してはいられない。

「あっ、紫乃もう帰る感じ?」
「もう少しなら大丈夫だし、待ってるよ」
「え?いいよいいよ!ちょっと長居しちゃったし、岩泉も松川もごめん」
「いいよ、どうせローテ待ちだし」
「おう、じゃあな」

両手を合わせた朱音の謝罪に快い返事を貰い、体育館を後にする。扉を閉めるとき振り向けば、こちらを見ていた松川と目があった。ひら、と振られた手のひらに同じく軽く振り返して外に出る。
東北の少し遅い初夏は相変わらず爽やかで、涼やかな外気に改めて体育館の熱気を感じた。そのまばゆさに目を細めていれば、じいっと視線を感じて横を見る。

「前から思ってたけどさ」
「何?」
「紫乃ってすごい仲良いよね、松川と」
「…、そんな言うほどでもないと思うよ。ちょっと話す程度だし」
「ええー、あんな自然に話してたのに?」
「まあ、楽ではあるかな。松川に変な遠慮がないから」
「へーえ」

何やら楽しそうな彼女の視線に、私はあえて深入りせず無関心の先へと視線を投げた。鈍いわけじゃない、女子高生が好きそうな話の展開や話題はある程度なら予測できる。案の定思った流れに乗ってこなかった私に友人はいささかつまらなさそうな顔をしたが、それ以上食い下がることはしなかった。
彼女は決して私に合わせて何かを変えることはないが、私に何かを変えるよう要求することもない。それは人間と向き合うことが極端に下手な私にとって非常にありがたいことだった。

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