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昼休み、職員室に来いと呼び出しを受けた時点で、何を言われるかはほとんど察しがついていた。

「…北村さん、そろそろモチーフくらいは決められないの?」
「…すみません」

酷く無機質な声を出している自覚はある。完全に閉ざし切った心は見えているんだろう、顧問の瞳に一層剣呑な光が過ぎるのがわかった。
職員室の一角、向かい合って立つ私と顧問の間に漂う空気だけが重力を増して冷え込んでゆく。
奥の机に腰掛ける数学の先生が手前に立つ顧問の肩越しから、案ずるような視線を送ってきた。その気遣いに気づかないふりをして、私は床のシミに視線を突き刺したまま、微動だにせず立っていた。

「コンクールの期限がいつかは知ってる?」
「…はい」
「北村さんは時間をかけて描く方でしょう。題材だけでも早く決めないと期限に間に合わなくなるわよ。わかってる?」
「…」
「…人は描きたくないっていうから、特別に題材も自由にしたのに」

ぐらり、揺らいだのは何だったのか。殺し損ねた苛立ちが漏れ出る抑えた声が喉元を締め上げる。身動きをとれない心臓が音もなく蝕まれてゆく。

じゃあコンクールなんて参加しなきゃいいじゃないですか。飛び出しそうになった無責任な一言は呑み込まれた肺の奥で立ち込める冷気に絡め取られ、感情の奔流に揉まれて藻屑と化した。名をつけるまもなく混ざり合うそれは、すぐに色も形も失くした濁色となり凝固する。代わって続く言葉はなく、選んで出せる答えもない。

「…すみません」

ほとんど無理やり軋む背骨を折り曲げた。頭の上から押し潰すような空気に小さな意地は呆気なく折れた。下げた頭に血が溜まる。残ったのはどうしようもない消化不良と諦念だけ。
いつものことだ。冷たく燃え上がり、地団太を踏む心臓に言い聞かせる。いつものことじゃないか。黙って堪えて頭を下げれば、最短ルートでこの場所から脱出できるのだ。

「……なるべく早く決めなさい」
「……はい」

待ちわびた解放にも、強張った空気が溶けることはない。ぐらぐら、心臓が揺れている。今にも落っこちてしまいそうに振れ幅を大きくして揺れている。どこかで一人になりたい。すぐにでも職員室を後にしようと踵を返した瞬間、ぶつかる視線に足が止まった。

「あ…、」
「!」

しまった。強面の顔に滲んだ気まずさはその一言を如実に語っていた。ごろん、心臓が落下する。ああだめだ。

苦笑いすることはおろか会釈する余裕もない。強張ったままなのは空気も私の顔も一緒だ。私はほとんど走るように職員室を飛び出した。閉めた引き戸のぶつかる音と同時に、動きを止めた足元で底まで到達した心臓が砕け散る。どうせ色さえわからない感情の塊も一緒に粉々に砕けて、目の縁から一粒泪が零れた。

悲しいのか、悔しいのか、辛いのか。その全部が正しくて正しくない。どうしていいかわからない。
描きたくないのか。多分そうじゃない。描きたいわけでもない。ただ描けないのだ。
描くたびに、形にするたびに、自分の欠損を目の当たりにする。吐き気がするほど嫌悪するのに眠れないほどとりつかれる。

息が出来ない。仮初であっても平安が欲しい。いつだってただそれだけなのに。

「…おい」
「っ、」

近づく気配にまるで気づいていなかった。今の自分の状態も忘れてはっと顔を上げれば、そこには先ほどぶつかった視線の先、彼、岩泉一が、あの透明度の高い瞳で私を見下ろしていた。
自分が今どんな表情をしているのか自分でも分からない。ただ私を見た途端、瞳に硬い色を過ぎらせた彼の表情を見れば、きっと形容しがたい酷さなんだろうということはわかった。

岩泉が言葉に迷うのがわかる。ほとんど会話らしい会話もしたことのない私を前に、最善と言わずとも適切な言葉を探しているのだろうか。
放っておいてくれ。抱くはずのそんな思いはしかし、私を突き動かすほどのものではなかった。ただ足は根が生えたように床に張り付き、彼が選び取る言葉を待っている。岩泉の唇が、躊躇うように息を吸い込み、一瞬閉じる。それから彼は言った。

「…成瀬、呼ぶか?」

それは私にとって予想だにしない問いかけだった。冷たく濡れた視界を瞬かせる。ゆっくり意味を咀嚼すれば、その提案が私の想像したどんな詮索や慰めより、はるかに良心的で思慮深いという実感がじわじわと追いかけてきた。
慰めの言葉をかけるでも事情を尋ねるでもない。大丈夫か、そんなスタンダードな常套句ですらない。それは踏み込むことをせず、それでいて私にとってはこれ以上なく実際的な助け舟だった。
けれど今は朱音に会う気にはなれなかった。彼の提案は想定上最善のものだったが、それに乗る力が今の私には残っていない。私は彼の首元まで視線を落とし、黙って首を振った。

「…、」

彼が黙するのがわかる。ざわざわ、昼時の職員室前はそれなりに人が通るが、どうやら数人の団体が通りかかろうとしているらしい。落っこちた心臓はばらばらになったままだ。あれだけの人の好奇の視線はきっと、その破片も粉々に踏み砕いてしまうだろう。

そんなことをぼんやり思っていた矢先、岩泉の手が不意に持ち上がり、私の肩を掴んだ。何を、思って見上げた彼は廊下の先へ視線を投げ、壁に一歩身を寄せると、私の身体を90度方向転換させる。その手はすぐに背にまわり、私は押し出されるように廊下を歩きだしていた。大きな手。女子とだけしか付き合わなければ知る機会もない、ごつごつして広い手のひら。
声もなく彼を見る私に、岩泉が言葉少なに答える。

「ここは目立つ」

応えあぐねて、私はただ曖昧に頷いた。
抵抗もなく進んで少し、たどり着いたのは人気のない非常階段の傍だった。昼練中の学生の声が遠くに聞こえるだけの静かな場所だ。そこに来て初めて彼は聞いた。迷いのない声だった。

「平気か」
「…うん」

何故だろう、心臓はしんと静まり返っていた。一人になりたい気持ちに変化はない。けれど他人を前にするといつだってどうしようもなく膨張する気まずさも拒絶も、今は鳴りを潜めていた。
岩泉はまだ何か言いたげな顔をしたけれど、私が落とした視線を拾ったのか、それ以上は何も言わなかった。ただ私の肯定に頷き返し、背を向ける。

遠ざかる足音に耳を傾けていたら、引っ込んだはずの泪が二粒、三粒と追いかけるように零れた。胸に穴は開いたまま、心臓はばらばらに砕けたまま。けれどここに来るまで背中にあった手の温度はきっと、砕けた破片を繋ぎ合わせる糊になってくれるだろう。

私は階段に座り込み、膝に口元をうずめて、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、つま先めがけて落ちてゆく泪を眺めていた。

151129
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