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「…あ、教科書…」

鞄を覗きこんだ私はため息をついた。日本史の教科書を忘れた。教科書なくしてあの授業は乗り切れない。自分のツメの甘さにもう一度息をつき、時間を確かめる。まだ休み時間には余裕がある。朱音のところに行ってみよう。駄目なら松川に頼って、それで無理なら諦めればいい。

「すみません、成瀬朱音呼んでもらえますか」
「朱音?ちょっと待ってて」

そっと引いた戸口から一番近くにいる女の子に頼んでみれば、二つ返事で友人を探しに席を立ってくれた。彼女に呼ばれた朱音がこちらを見る。すぐに駆けてきた友人は怪訝そうに私を見た。

「どしたの紫乃、なんかあった?」
「ごめん、日本史の教科書忘れてさ」
「えっごめん、うち今日日本史なくて…」
「そっか、いいよ平気。松川にも―――」
「待って、うちに誰か置き勉してそうな人…あっねえ岩泉!」

くるり、身をねじって教室を見渡した朱音が呼んだ名前に、私は思わず肩を揺らした。教室の右端、他の男の子たちと楽しげに話していた背の高い彼がこちらを見る。初めは朱音を、次に私を捉えた彼の目が軽く見開かれるのがわかって、私は軽く頭を下げた。会釈は時に視線を逸らす大義名分となる。
結んだ唇を曲げた彼がゆっくりこちらにやってくる。不機嫌そうに見えるのはデフォルトなんだろうか。けれど男の子たちと話している時の笑みからして、きっとどっちが自然体かは考えるまでもない。

「どうした、なんか用か?」
「岩泉さ、日本史の教科書持ってない?」
「日本史?」
「そう、紫乃が忘れちゃってさ」

明るいトーンで笑う友人にむくむくと気まずさが沸いてくる。岩泉と私とはほとんど他人に等しい関係なのに、なぜ彼女は彼に白羽の矢を立てたのだろう。置き勉してそうな人なら他にもいるだろうに。
きっと彼だってどう接していいか考えあぐねているにちがいない。そう思いつつ見上げた岩泉はしかし、相変わらずの仏頂面をしていた。そう、驚くほど変わらない表情。

すう、と息がしやすくなる。肺に詰め込んだ重石が溶けてなくなったような気がした。思わず触れた胸が軽い。なんだろう。どうしたんだろう。

「待ってろ、あるか見てくる」
「うん、お願い」
「あ…ありがとう」

踵を返した岩泉がロッカーの中をごそごそする。少しして彼は教科書を手に戻ってきた。もともとサイズの小さい教科書ではあるが、彼の手の中に収まった其れはなおさら小さく見えた。

「あんま綺麗じゃねーけど」
「…ううん、十分だよ。平気」

差し出された教科書を受け取る。ひたり、彼の強い眼差しが、私の心臓を端っこから浸してゆく。凛とした冬の朝の様の空気に包まれるような、夏の小川に足を浸したような、そんな感覚。
端っこが折れたそれは確かに丁寧な扱いはされていないようだったが、ボロボロと呼ぶほどでもなかった。

「授業終わったら返しに来るよ。それで間に合う?」
「今日明日は日本史ねーからいつでもいいぞ」
「次いつだっけ、多分金曜?」
「そんくらいじゃね?」
「そっか、ならいい」

言い残した彼は迷いなく踵を返し、朱音の声もそのままに男の子たちの輪の中に戻ってゆく。がやがや、日常の雑音がゆっくりと帰ってきて、私の耳の隅っこに居座った。手の中の日本史の教科書を見下ろす。ぱらぱらめくれば、よその家の匂いがふわりと香った。

「岩泉と仲良いんだね、朱音」
「えっ?そうかな、クラスメートだし普通だと思うけど…まあ確かに、他の男子より話しやすいかな」

そんなものか。交友関係の広い彼女と友達の少ない私ではコミュニケーションエリアも随分差があるだろうし、彼女が言うならそうなのだろう。私は頷き、彼女にお礼を告げて自教室に戻った。今日の日本史はこれでなんとかなりそうだ。




結論から言って日本史の授業はさんざんだった。いや、ノートはあったし教科書も借りたし先生に質問攻めにされることもなかった。ただその借りた教科書が問題だったのだ。

「すみません、岩泉くんいますか」

教科書片手に彼の教室を訪れたのは掃除の時間。朱音の姿はなく、おそらく昇降口かどこかの掃除に行っているのだろう。私は窓際で談笑していた男の子たちに声をかけ、彼を呼び出してもらった。私の手にあるものを目にとめた彼が、用を察した様子でこちらに歩み寄ってくる。

「これ、ありがとう」
「わざわざ悪いな。明日でも良かったのに」
「いや、…ふっ、」
「…どうした?」

あ、だめだ。込み上げてくる衝動を抑えきれず漏れたのは空気を震わす笑い声。やや強面で見るからに硬派、とっつきにくさすら感じさせる実直さを形にしたような彼を改めて前にしてしまえば、授業中に堪えた笑いがついに我慢できなくなってしまった。

「何笑って…」
「っくく…ごめん、岩泉も普通の男の子なんだなって思って」
「は?」
「これ」

私は日本史の教科書をめくる。覗きこんできた彼の表情がみるみるうちに変わるのが可笑しくて、私はまたも噴き出してしまった。何を隠そう、彼の日本史の教科書には至るページに秀逸な落書きが施されていたのである。

「間違いなく複数犯だね」
「…アイツらマジ覚えてろよ…!」
「心当たりあるんだ」
「字に覚えがある。前に花巻に貸したんだよ…」

眉間に深々と皺を刻んだ彼が心底疲れた様子で呆れ声を出すのがまたおかしい。朱音と話しているときは割と淡々と言葉を返しているイメージがあったから、失礼な話、存外人間味のある顔もするんだなと思った。

開いた教科書の中の偉人の肖像画や写真の類は、大抵が何がしかの悪戯の犠牲になっていた。ペリーが某魔法学校の薬学教授になっていたり、中世の政治家がスマホで自撮りしていたり、文豪の髪型がイメチェンされて俳優みたいになってたりと、富める限りのバリエーションに富んでいる。ものすごく絵が上手いというわけではないが、どこに目を留めても噴き出しそうになる秀逸さはいっそ才能レベルだ。おかげで今日の授業はてんで集中できなかったのだ。

「あ、これ松川の字だ」
「あいつもかよ…今日の練習メニュー三倍にしてやらァ」

松川のことだ、しれっとした顔で悪ノリに参加したんだろう。低く呟く岩泉が凶悪な視線で教科書を睨みつけるのを笑っていれば、ちょっとむっとした眼差しを送られてしまった。面と向かって文句を言えるほど親しくはない私には強く出かねるのだろう。思って笑い声を引っ込めれば、彼は諦めたようにため息をつく。

「美術部的にはどうなんだよ、こういうラクガキ」
「革命的だな。センスが最高だ」

即答で応じればちょっと驚いた顔をされる。意外だとも言わんばかりの顔をした彼に私は首を振った。

「こういう、人を笑わせる絵が描けるのってすごいと思う」
「…そんなもんか」
「うん」

教科書が彼の手にわたる。ぱらぱらとページをめくる彼はしかし、その紙面に踊る様々な落書きを前にしてももう顔をしかめることはなかった。舞い降りる沈黙と静寂。ゆっくりと膠着する空気が急に気まずさを膨張させ始めた。

彼は何かを考えている。身構える心臓がそれを察知して不規則に揺れた。彼がこちらを一瞥し、ふっと湧いてきた言葉は唇の内側でつっかえた。岩泉は何も言わない。まるで私の躊躇の行方をじっと見守っているような、そんな沈黙。
それでも黙してしまった私の代わりに彼が出したのは、なんでもない会話の延長戦だった。

「松川と仲良いんだな」
「、……同中だから。そこそこ話す方ってだけだと思うけど」
「にしても字でわかるってなかなかだろ」
「わかりやすいクセあるし」
「あー、確かにな」

朱音にも同じことを言われたが、そんなに仲良く見えるだろうか。確かに松川はよく声をかけてくれる。目が合えばちょっと笑ったり手を上げたり、あいさつ程度のやり取りだけなら頻繁といえるかもしれない。けれどそれは仲がいいと言うよりはむしろ、すごく気遣われている、そんな気がする。

「また練習見に来てやれよ」
「私が?」
「北村が」
「…私が行ったところで何もないと思うけど」
「前に北村が帰ったあと、アイツ調子よかったんだよ」
「偶然でしょ。それか気のせい」
「んなことねーよ。応援されて嬉しくないヤツなんかいねぇだろ」
「…、」

応援しに行ったわけじゃないけど。そう言いかけて、けれど彼の言葉に私は舌を引っ込めた。応援。期待でなく応援。否、応援にはもちろん期待が含まれるわけなのだろうけれど、その言葉は私の中でイコールにはならなかった。気づけば絡まったはずの舌が無意識に動いていた。

「…応援って、重くない?」
「なんでだよ。なわけねーべや」

まさに一刀両断。簡潔かつ明瞭な返答に私は二の句を失った。そんな私を見下ろしていた彼は、揺らぐことない瞳を一瞬窓の外に投げる。その清冽な双眸の行く先を負えば、初夏の風に揺れる青葉が見えた。

「プレッシャーがねぇわけじゃねーけどな。いろいろ期待されてんのは嫌でも感じるし」
「…、」
「けどすることは変わんねーだろ。周りが何言おうが関係ねえよ。結局は俺ら次第だ」

再び降ってくる視線が私の両眼を貫く。深く透き通る湖底のような瞳から逃げられない。冷たく澄んだ光の粒が、心臓をゆっくりと浸してゆく。

けれど今度は逃げたいとは思わなかった。その心地の良い冷たさに触れた心臓が火照っている。脈打つ血潮が私に何かを訴えている。名前が分からないのもつかめないのいつもと同じだ。けれど左手の指がじんじんと痺れるのだ。色を乗せろ、キャンバスに触れと騒ぎながら。

することは変わらない。周りが何を言おうが関係ない。

もう一歩。もう一歩できっと、この衝動は形を取る。
何色だろう。明滅する白、残像の灰色。握りしめられるような真剣さ。研ぎ澄まされたそこには強烈なエメラルドグリーンが欲しい。いや違う。まだ足りない。
形が欲しい。

「…そう」

視線以上に突き刺さるのは痛いほどの決意と信念だ。鋭く澄んだ瞳が隠さず発露する魂の欠片が、私の心臓に爪を立てる。左手を握りしめて頷いた。

「なら、今度また行ってみる」
「おう」

そうだ。結局は私次第なのだ。投げ出したい気持ちが半分、負けたくない気持ちが半分。でも他の誰も変われない。私は私を辞めることなどできない。
止まるも進むも、蹲るのも乗り越えるのも―――そしてそんなシンプルな現実と向き合うことが、私にはきっと最も難しい。

151204
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