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「あれ、ねえ岩ちゃん、この名前って」
「あ?」

ほらここ。
及川の整えられた爪の先が示す先には、朝のHRで配られた学校の広報誌の数ページ目、カラーで印刷された写真があった。

一瞬写真かと見まがったそれは、白く輝く月とその月光に輝く夜の湖を描いた絵だった。クレーターを浮かばせた月は、チューブから絞り出しただけの白ではない仄暗さと柔らかさを帯びていて、揺れる湖面に散る輝きが水面をさざめかせる夜風を語る。
タイトルは『月光』。これ以上ないシンプルな題名に似合うシンプルな構図はしかし、見る者の意識を根こそぎ吸い取る圧倒的な存在感をもって紙面上に鎮座している。その下に並んだ名前には見覚えがあった。

「…北村のか」
「なんかすごいみたいだねーこの子。ここ、経歴がヤバい」

及川の指先が矛先を変える。並んだこれまでの受賞経歴に覚えのある名前は一つもなかったが、その数がかなりのものであることは一目瞭然だった。遡れば小学校から県レベル、全国レベル問わず表彰されていることがわかる。一体年間いくつのコンクールがあるのかは知らないが、コンクールが多いから受賞が多くなるとは限らない。むしろこの短いスパンで描き続けられることはすごいことなんじゃないだろうか。

「あれ、この中学って…ねーまっつん、まっつんもここの出身じゃなかったっけ?」
「何?」
「この子、北村紫乃って子。美術部の」
「北村?へーまた載ってんだアイツ。そう、同中なんだよね」

松川が覗きこんだページに並ぶ北村以外の部員の記事には、絵だけでなく本人写真やそのインタビュー記事も載っていた。なるほど青城の美術部はなかなかに優秀らしい―――思ったところで気づく。北村の記事にはインタビューがない。ただ絵の写真とその説明、彼女の経歴のみが賛辞の言葉で語られているのみだ。

洗練された心象画、奥深い風景画。アトリエにも通わず磨かれた天賦の才。しかし華々しく語られるその来歴とは裏腹に、顔写真もカメラ目線ではあるがにこりともしておらず、ただ硬い表情が居心地悪そうにこちらを見ていた。

「『次世代の逸材、神秘の才能』、ね…どこの世界にもいるもんだね、『才能』ってヤツはさ」

記事のうたい文句をなぞるように読み上げた及川が、面白くなさそうに鼻を鳴らす。才能の二文字が好きじゃないのは俺も同じだが、及川に関しては俺以上、全く畑違いの舞台でさえその存在は気に入らないらしい。その拗らせ方にはため息が出るが、俺もまた北村の絵は持つものを持っていなければ描けないものだと思う。

あの青一色の絵といい雑誌に載る今回の作品と言い、絞った少ない色数とシンプルなテーマに小細工を持たせる隙は無い。他の絵にあるようなごたごたしたモチーフで誤魔化さないそこには、見る者すべてを唸らせるだけの圧倒的な実力が伺える。文句なしに才能と言えるだろう。
思って目を離し、上げた先に見えた松川の表情に、思考が止まった。

「…『才能』ね。まあそう見えんだろーけど」
「?」
「あいつが描いてるとこ見りゃ、天才だなんだなんて言えねーと思うよ」

雑誌から視線を投げた松川が、飄々とした表情を崩さないままなんでもないことのように言う。紙パックを咥えたその横顔のどこか冷めた眼差し、物言いを察したのは俺だけでなく及川、花巻も一緒で、顔を見合わせた三人を代表して尋ねたのは及川だった。

「それってどういう意味?」
「…アイツはなんていうか、」

手足千切るみたいにして描いてるようなヤツだよ。

ちょっと視線を落として小さく笑った松川は、困ったヤツを見るような、それでも放ってはおけないと語るような―――諦めと許容、そんな顔をしていた。
不意に数日前、職員室で顧問らしき女の先生に言われるがままになる凍るような無表情、たった一粒涙を零した顔がよみがえる。それから追いかけるように、日本史の教科書の落書きを見て笑う横顔が浮かび上がってきた。

「…手足を千切るみたいに」

松川の言葉を繰り返す。絵を描く様を描写するにはそぐわない、過激で痛々しい表現が喉元にひっかかった。
北村はどんな風に、この絵を描いたのだろう。

あの真っ青な絵を思い出す。群青とは呼ばず、けれど青空のようなクリアカラーでもない。深く昏く、しかし澄み切ったブルーが語る閉塞感。雑誌に載る月の絵も確かに美しかったが、あの鬱屈としながらも湖底を覗くような透明感を帯びる絵に比べれば、どこか語りかけるものが薄い、そんな気がした。





そんな昼休みから数日後、移動教室から戻ってきた教室には珍しく北村の姿があった。その傍には席に着いたまま話す成瀬の姿。成瀬が北村に会いに行く姿は時折見かけたが、その逆を見るのは初めてかもしれない。
肩を並べてとりとめのないことを話していた松川もまたその姿を認めたらしく、自分の教室に直帰することなく俺の後に続いてきた。

「よ、北村。珍しいじゃん、お前が別クラにいるの」
「うん、朱音がパウンドケーキ焼いてくれたから」
「あ、やっほー松川、おかえり岩泉」

成瀬の机に腰掛け、頷き応じた北村は猫背気味にケーキを頬張っている。片手で包めてしまいそうな小さな頭からすらりと伸びる足の先まで、視線が無意識のうちになぞってゆく。明るい成瀬に並ぶと尚のこと表情が乏しく標準のテンションが低いヤツではあるが、両手で支えたケーキをもぐもぐと咀嚼する様子は他の女子といたって変わらない。ぱちり、不意に目が合って、俺は慌てて視線を逸らした。あまりに不躾に見過ぎたかもしれない。誤魔化すように成瀬に言った。

「すげーな、店で売ってるヤツみてー」
「えっ、そんな、混ぜて焼くだけだよ。…よかったら二人も食べる?作りすぎちゃってさ」
「お、マジで?ラッキー」
「いいのか、サンキュ」

遠慮なく一つ貰いながら、今日は何か特別なことがあるのか聞いてみる。すれば気が向いただけだと照れたような返事が返ってきた。女子にしちゃ大したものじゃないのかもしれないが、菓子を焼くなんてことは俺の日常には縁もゆかりもない。

そんなやり取りに加わるでもなく、横で何も言わないなりに遠慮なくふたきれ目を頬張り始めた北村に少し笑った。「もー紫乃、ごはん食べらんなくなるよ」と成瀬に言われても、生返事だけで膨らんだ頬はそのままだ。うすうす気づいちゃいたが、いろんなところで言葉が足りないヤツだと思う。

「成瀬の言う通りだべや。そんなんだから貧血んなるんだろ」
「DNAが悪い」
「ちょっとは自助努力しろって言ってんの」
「松川は私のお母ちゃんですか」
「オマエな、」
「まっ、つかわの手デカいんだよ…!」

ぐしゃぐしゃ、三年レギュラーの中でもひときわ大きな松川の手が北村の頭を鷲掴みにしてかき回す。乱れた黒髪の下から恨めし気に松川を睨む姿に、成瀬が「やっぱり仲良いよね、この二人」と朗らかに言う。
確かに松川が女子とこんな風にじゃれるような接し方をしているのを見たことはほとんどない。同中だから、その一言で片づけるには余る距離の近さがなんとなく気になった。

「あ、袖に絵の具ついてる」
「ホントだ。昨日のかな」
「作業着着なかったのか」
「面倒で着なかった」
「今はいいけどこの先冬とかやめとけよ、ブレザーただでさえ白だし」
「そん時は松川のジャージ借りる」
「アホ、うちのジャージも白ベースだっつの」

気負いのない二人のやりとりに、不意にこの前部室で昼飯を食っていた時の会話を思い出す。手足を千切るように。松川自身が語った北村の姿、その生き様ならぬ描き様というものはどんなものなのだろうか。
思い立ったら吉日、いつか見に行ってもいいか。そう聞こうとして、その瞬間鳴り響いたチャイムに、俺は言葉を呑み込んだ。

151215
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