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お前には才能があるんだ、何故描かない!


うすぼんやりした世界だ。

投げ落とされる恫喝が感情の塊となって鼓膜を殴る。私は古びた上履きのつま先を見つめていた。チェックのスカートに淡い青のシャツ、職員室の入口の狭いスペース。ゆらゆら揺れる視界に移る世界の断片を私は覚えていた。青城の職員室。けれど降ってくる声は男のものだ。中学の時の、美術部の顧問。

受けないだと?岸谷美術の推薦が来るなんてこの中学はじめての快挙なんだぞ。

声が揺れている。女の声が重なるように反響する。息が出来ない。あの閉塞が胸を締め付ける。顔を上げれば喉が楽になるだろうか。思うのに頭は鉛のように重くて、私ははっきりしない床を見つめ続けるしかない。

我儘ばっかり言わないで。次のコンクールがどれだけ大切かわかってるの。

氷柱の様な冷えた声。今の顧問だ。息が苦しい。走り出してしまいたいのに体が言うことを聞かない。もうだめだ、思ったその時、目の前に真っ白な背中が広がった。あれほど重かった頭がひとりでに持ち上がる。ぼんやり霞んだ視界、真っ白いブレザーと背の高い黒髪が見えて、

行きたくないっつってんならいいじゃないですか。


「北村」


「―――、」

ぶわり、全身に鳥肌が立つような感覚が、引きはがすように瞼を押し上げた。

「やーっと起きた。もう八時だぞ、お前」

世界が直角に傾いている。窓の向こうの濃紺。絵具の匂い。こちらを見つめる眠たげな双眸。
―――美術室だ。青城の。

「…いま、」
「だから八時。北村お前一体いつから寝てたの」

走らせた視線をゆっくり戻して、呆れたように語る顔を見詰める。90度傾いたままのそれは、しかし見紛うことなく松川一静のもの。白にミントグリーンが眩しいジャージをじっと見つめて、私はゆっくりと時間感覚を巻き戻した。そうして身を起こせば、世界はきちんと水平に直る。

「…ごめん…気づかなかった」
「ったく…電気ついてっからもしかしてと思ったら、椅子並べて爆睡って」
「うん、寝てた…」
「そんな疲れてたの、今日」

汚れたパレットを水につけ、私がばらばらにした絵具を片付ける大きな背中をぼんやりと眺める。いいよ、私するから。そうは言ったものの、いいから帰り支度しろと言われ、私はおとなしく手を洗って作業着を脱ぎ、それから破り捨てたデッサンの没案を拾い集め、ゴミ箱に詰め込んだ。

支度を済ませたころには松川はパレットを洗い終えていて、私たちは一緒に美術室を後にした。電気を消せば真っ暗になる廊下を二人で歩き、職員室に鍵を返す。顧問はすでにおらず、当直の先生には「部活熱心だねえ」とねぎらわれ、けれど時間は守るようにと諭された。気を付けて帰るようにと送り出されたのは八時半のことだった。

「部員さんと帰んなくてよかったの」
「いつもイヤってほど帰ってるよ」
「…なんかごめん」
「んー…反省すべきはあんなとこでこんな時間まで寝こけてたことなんだけど、そこんとこオッケー?」
「じゃあそれもごめん」
「じゃあって何」

呆れた、言外にそう言いながらじとりとこちらを見る松川に、今度こそちゃんとごめんと伝える。夏を迎えようとする東北の夜はそれでもまだ涼しい。空はすでに真っ暗で、月は高く遠くに昇りきっている。
バレー部はこんな時間まで自主練してるのか。途中から深々と眠っていた私とは違い、松川もまたこの数十分前まで過酷な練習に打ち込んでいたんだろう。その足でわざわざ私を拾いに来たこの友人には頭が上がらない。

「月の絵できたんだな」
「、…まあ」
「また受賞すげーじゃん」
「…」
「北村は自分の絵好きじゃないかもしんないけど、俺は結構好きだよ」
「…そう」

朱音も同じことを言ってくれたな、とぼんやり思う。それでいいんだよ、というそれは、いつだって低温の優しい肯定だ。
松川とクラスが同じになったのは中学の二年と三年。もうかれこれ四年以上の付き合いになるが、彼がこうして私を気にかけるようになったのは高校に上がる少し前からだった。

気怠い体に残る夢の残像をなぞるように思い出す。そのきっかけははっきりしている。でもそれを差し引いたって、松川が今に至ってもまだ私の面倒を見る理由はとんと思いつかなかった。それほど危なっかしいと思われているのだろうか―――ああ、それは否定できそうにはない。

「さっき、松川の夢を見たよ。多分」
「え、なにそれ。俺が夢に出てきたの?」
「うん、中学の時の夢。職員室で、顧問にいろいろ言われてた時の」
「ああ…けど多分なんだ」
「うん、…なんか、顔見えなかったから」

小学校のころから、図画工作は一応のところ得意科目だった。
一応というのは、私の調子にムラがありすぎたからだ。工作は大抵上手くいく。けれど小学校でやるような、テーマも道具もすべて決められたカリキュラムで進む絵に関して、私の出来にはあまりに差がありすぎた。獲れば全国、落ちれば白紙。それでも小学生のすることだったから、感受性の方向だのテーマへの入り方だの、私の不安定さは様々な名前によって大人たちに庇われ続けた。

そのまま中学にあがり、勧誘されるがまま入った美術部でも、初めのうちはなんとかなった。それまでより自主性を重んじる作成過程はそれなりに肌にあったし、描けない時は描けない、そんなムラも最終的に良い作品さえ描ければ目を瞑って貰えた。

変わったのはある絵が全国で銀賞を取ってからだ。以来顧問は私に可能な限りすべてのコンクールへ出展させたがった。その絵をたまたま相当の短期間で描きあげたのも余計に分を悪くしたと思う。

顧問は私のムラを理解できず、やれば出来るのになぜやらないのかと度々詰った。私の不完全さは彼にとって無用な拘りと怠惰さの産物とみなされた。
息がどんどんできなくなって、三年に上がった時、私は絵を描くのをやめた。中学の最終学年、私が描きあげたのは夏の終わりに描いた絵一枚きりだ。

そうして迎えた進路決定の時期、舞い込んできたのは有名美術高校からの推薦の話だった。

「中学の職員室の入口でさ。けどその時の顧問の声が、だんだん今の顧問の声に変わっていって」

描きムラがあることは承知の上、奨学金も出す、試験はほとんどないに等しい。名門から振ってきたそんな好条件の話に、当然顧問は食いついた。必ず入学させる、そう返答して戻ってきた顧問は、私の進路希望調査紙に記された青葉城西の名前に激怒した。説得に対して首を縦に振らず、譲らぬ私を顧問は詰り、最後には恫喝した。
心臓さえ止めてしまいたい、そうしてあまりの息苦しさに脳味噌さえ揺れたその時、背後から声がしたのだ。

『行きたくないっつってんならいいじゃないですか』

進路って行きたいとこに行くものじゃないんすか。


「あったな、そんなことも」

松川が緩く笑う。あのあとうちの担任に叱られたっけ、と続ける彼に私は黙した。

あの時振り向いたその先には、ジャージに身を包み、エナメルを背負った松川がいた。男の顧問にも劣らぬ長身はそのころから健在で、その眼光はそれまで見たどんな時より鋭く研ぎ澄まされていた。
虚を突かれた顧問の手から隙をついて私の進路希望調査用紙を抜き取った松川は、私の顧問の机まで進み、瞠目する私の担任にくしゃくしゃになったそれを突き出した。そうして呆然と立ち尽くす私の腕を取り、綺麗な礼と共に私を連れて職員室を後にしたのだ。

「…今年の夏は、田舎帰んの?」

通り過ぎる車のエンジン音に隠されるように、松川の問いが私の鼓膜を掠める。
私は沈黙の内側でアスファルトに目を落とした。瞼の裏に焼き付く景色は、暑い暑い、夏の終わりの日のそれ。

蘇る優しい声は、私の心臓に無数の穴を開けて突き刺さったままだ。

「…さあ、どうだろう」

松川は私の、どうにも手の付けられない面倒な部分を知っている。でも全部を知っているわけでも目にしたわけじゃない。それでいて踏み込んでくることをしないのだからこの男はよく出来た男だ。松川がそれをしたのはたった一回だけ、あの職員室で閉塞に絞殺されそうになる私を連れ出した、あの一回きりだ。

不意に思う。あの時松川は私の背後から現れ、身にまとっていたのは学校指定のジャージだった。けれど夢で現れたのは今の顧問の前、私を庇うように聳え立ったのは真っ白いブレザーの背中―――青葉城西の制服だった。

そうか、あの時じゃない。思って気づいた。今の顧問を相手どったとき、形は違えど私の腕を取り背中を見せたのは松川じゃなかった。

不思議な話だ。岩泉一、私はそんな彼の背中を夢に見たのかもしれない。
松川のチームメイトで朱音のクラスメート。遠くはないが近くもない顔見知りでしかない彼を、私の閉塞を破りに来た数年前の松川の残像と重ねて。

151225
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