雨の日の出来事


遂に歌舞伎町は本格的な梅雨入りを果たした。朝からどんより雲が広がってると思えば、ザアザアと激しい雨が地面を叩きつけている。そのうち雷まで落ちてきそうな天気の悪さだった。

流石にこんな天気の悪い日にわざわざ外で団子を食べる物好きもいないらしい。何時も賑わっている街は雨の音だけが響き、店内はガランと人の気配を消していた。


「今日はもうだめだねぇ。」
「凄い雨ですもんね…」


はあ、とお華が店内を見回し溜息をついた。店先から見える通りも人の気配はない。千春は濡れない程度に店から通りを覗いてた。雨で視界が霞んではいるが人が歩いてるようには見えない。


「今日はもう休業だね。シャッター閉めて家で大人しくしましょうかね。」


お華と千春が住んでいる家は店のすぐ近くだ。それでもわざわざ朝から雨に濡れてまで店に来たのも、失敗だったのかもしれない。二人で戸締りを確認し、最後にガラガラと音を立ててシャッターが降りる。一応、ビニールに入れた紙も貼り付けた。『本日休業いたします。』いたってシンプルである。


「まあこれも神様がくれたお休みって事にしとこうかね!溜まってたドラマでも見ようかしら」
「あ、お華さん。ごめんなさい、私ちょっと寄り道してから帰ってもいいですか?」
「いいけど、こんな雨の日にかい?風邪ひいちゃうよ」
「大丈夫ですよ。すぐに帰りますから。」


そうかい?と心配そうにするお華を笑って見送り千春はすぅっと息を吸い込んだ。寄り道なんて本当はなかったのだ。ただ、昔から雨が嫌いではなかった。雨の匂いは嫌いじゃないし、独特の空気が昔から好きだったから。

だから、何となく雨の日に何をするわけでもなくブラブラと散歩するのが好きだったのだ。普段賑わう歌舞伎町がこんなに静かなのも新鮮だったし、雨が音を消してるみたいで特別な世界に足を踏み入れた気分になる。


「……へんなの。」


ザアザアと雨の音だけが響く歌舞伎町の道のど真ん中。そこに立って左右を見渡しても誰もいない。自分だけが世界に取り残されたようで、既に違う世界に来てしまっているというのに不思議な心細さを感じた。


ふ、と。視界の端に蝶が舞ったような気がした。こんな雨だ。蝶がいるはずがない。そう思うのに、千春は蝶を追うように振り返る。存在しているのかも危ういやうな、儚い光を放つ蝶は路地裏へと迷い込んでいった。


「まって、…!」


意味は自分でも分からなかった。何となく、それを見逃してはいけない気がして千春は蝶を追いかける、曇天のせいもあって路地裏は暗く少し不気味だ。ごくりと生唾を飲み込み、奥へ奥へと歩を進め、


    そして止まった。



「な、ん…っ!?」



目の前に広がるのは、赤い血の海と、中心で不敵に笑う隻眼の男だった。





「……こいつァ珍しい」


固まる千春を見て男が楽しそうに笑った。女物と思われる派手な着物に身を包み、左目は包帯に覆われているというにその役割を担うように右目はギラリと鋭く光り千春の動きを止める。息を呑むことさえ許しがなければ殺されるかもしれないと緊張が千春を縛った。


「ククッ…。アンタも難儀だなァ。あの男に焦がれられた為に何の義理もねぇこんな所に来ちまうなんて。」
「あ、の男…?」
「何にも分かりませんって顔だな」


何が可笑しいのか、男は笑みを崩すことはなかった。混乱する千春を楽しんでるようにも見える。バクバクと激しく波打つ心臓を誤魔化そうと視線を巡らせれば、雨で流れた血が千春の足元まで届くのが視界に映った。そこで漸くそこに転がるのが死体で、それを作ったのが目の前の男だとハッキリと認識した。

状況は限りなく最悪だ。目の前にはどう見てもイかれた殺人鬼。ただでさえ雨で人も少ないのに此処は路地裏。誰も千春達には気づかないだろう。そんな最悪な状況で、自分は死ぬのだろうと思った。恐怖で指に力が入らず、軽い音を立てて赤い傘が千春から離れ地面に落ちた。


「安心しなあ。取って食いやしねぇよ」


恐怖か、寒さか。カタカタと震える体とは裏腹に、千春の思考に引っかかる男の言葉。それは恐怖で支配される脳に僅かな冷静さを取り戻させた。


「…私のこと、知ってるんですか」


先ほどの男の言動は、千春の事を知っているようだった。そしてそれは千春が何故此処にいるのかも知っているような口ぶりだ。自分が違う世界の住人だなんて、誰にも言っていない。自分が言っていないのなら、状況を知っているのはもう一人しかいない。


「それとも、千鳥さんのお知り合いですか。」
「ああ。知ってるぜ。その男も、アンタの事もな。」
「っ、貴方は何者ですか!?どうして知ってるんですか!?私を、どうしたいんですか…!!」



ずっと疑問だった。自分がこの世界に来た意味が分からなかった。千鳥はあの時言った。自分だけを探せと。ずっと待っていると。しかし手かがりは一つもなくこの世界に慣れるのに必死だった。違和感を消す為に毎日が一生懸命で、帰る方法を考える暇も無かった。しかし今、目の前にいるこの男は、何かを知っている。漸く尻尾を掴んだのだ  


「さぁなァ。おめぇさんが何処でどうなろうと俺の知ったことじゃねぇよ。ただ俺ァあいつに手ェ貸しただけさ。あいつの行動がどうなるのか、見たかっただけだ。」
「…意味が、分かりません。」
「だろうなァ。」


飄々とした態度にぐっと千春の眉根が寄る。男は最初から千春の質問に答える気は無いようだ。いつの間にか恐怖は苛立ちに変わっていた。この男を逃すわけには行かなかった。自分には帰る場所があるのだ。折角見つけた手かがりを逃すわけにはいかない。



「千鳥さんは、何処ですか?」
「知らねぇーよ。おめぇさん連れてきてから消えちまったよ。怖じ気付いたのか何か企んでるのか。生憎と仲良しこよしの関係じゃねぇんでな。」



千鳥が自分をこの世界に連れてきたことはこれで明らかになった。なのに無責任すぎるじゃないか、と下唇をぐっと噛み締めた。自分は、もしかしたら知らずうちに千鳥に嫌われていたのかもしれない。だからこんな仕打ちを受けているのだろうか。それでもあの時最後に見た泣きそうな千鳥の顔が頭から離れなかった。



「オイ、俺ァ行くぜ。おめぇさんも何時までもこんな所にいると殺人鬼と間違えられちまうぜ」


その殺人鬼とは自分のことだろうに。男はくつくつと笑いまるで物のように転がる死体を一瞥した。血の付いた着物や男の端整な顔立ちはゾッとする程美しく、忘れかけていた恐怖がまた千春を支配した。自分の話でいっぱいいっぱいだったが、此処は殺人現場だったのだ。


「……名前」
「あ?」
「名前を教えて下さい。私だけ知られているなんてフェアじゃないです。」


この男は殺人鬼でもあり、自分の事を知る重要参考人だ。普通に逮捕される可能性もあるが、何故かこの男は世界に捕まらないだろうと確信があった。だからか、何となくではあるがこれが最後だとは思えなかった。



「高杉。高杉晋助だ。」



意外にも、男は真っ直ぐ千春の目を見て名乗った。犯罪者に変わりはなく無視されるとも思ったが、男は、高杉は凛と背筋を伸ばし立っている。恐らく、高杉は自分のしている事に罪悪感など無いのだろうと思った。良くも悪くも自分の思考行動に筋を持っている。だから、人を殺しておいてこんなにも堂々としているのか。


「…高杉さん。私は、私の人生を、私が知らない所で動かされるなんて納得行きません。千鳥さんに会うことがあればそう伝えてください。」
「…気が向いたらな」



真剣な千春の顔を一瞥し、高杉は雨の奥へと消えて行った。瞬間、全身の緊張が解けて千春は力なく地面に膝をついた。元の世界に帰るには、千鳥を探さなくてはいけない。考える事が多すぎて、頭がパンクしそうだ。しかしその前に   


「これ、どうしよう…」


自分の目の前に横たわる複数の死体をどうにかしなければいけない。

Azalea