夢におちる
朝。
目が覚めると、コーヒーの香りが真っ先に感じられた。見慣れた天井を眺めながら、ぼんやりと何か夢を見ていたような気がする。それが何か思い出せないまま、重い体を無理やり起こして寝巻きから着替え、リビングに行く。新聞を読んでる父と、父のお弁当を作る母がいる。いつもの光景だ。
「おはよう」
いつもの様に声をかけると、父は返事の代わりに微笑み、母は私の分のコーヒーを机に置いてくれる。ほんの僅かな違和感を覚えながらも、私も食卓についた。いつもと同じ。狐色に焼けた食パンの上にはマーマレードがたっぷり塗ってあるし、サラダの上には母お手製のドレッシングがかけられている。近所でも評判のそれは、本当に美味しくて、子供の頃野菜嫌いだった私のためにと母が思考錯誤して作られたものだった。
「あれ?」
パクッと一口。
確かにお箸でつまんだレタスの一欠片は、まるで空気を含んだ様に味も食感もない。落としたのかな。下を見るが溢した様子もない。可笑しいな。もう一口。確かに口に入れたはずのそれは、やっぱり味がしなかった。
「お母さん、何かこれ…」
「千春」
母に違和感を伝えようと台所を見やるが、いつの間にか母は目の前の席に父と並んで座っていた。さっきまで確かに台所に立っていたはずなのに。私の言葉を遮る様に、父が新聞を机の上に置く。ニコニコと笑う様子が、何だか可笑しい。
「お父さん?」
「千春は、今何をしているんだい?」
「なに、って…。普通に働いてるでしょ?どういう意味?」
「そうだね。千春は強い子だから。突然見知らぬ土地に飛ばされても、笑って過ごしているね。絶望に打ちひしがれるでもなく、悲劇に嘆くでもなく。君はあの銀色の侍と笑う余裕まである。」
「な、にを…」
あくまで穏やかに笑う父に、こんなにも恐怖を感じたことはない。何時もなら「何言ってるの、早くしないと遅刻するわよ」なんて口を挟む母も、今はただただ笑みを絶やさず座っているだけだ。夢を見ているんだろうか。そう思った瞬間、私たちだけを残して世界が真っ黒に色を失った。そうか、夢なんだ。
「 悲しいよ、千春」
尚も父の姿をした夢は言う。
「望んでいた未来じゃなかった。こうなるはずじゃなかった。 選択を、間違えた。」
ゆっくりと、瞼が下に落ちて行く。
嗚呼、夢から覚める。
「間違えたのは、君かい?それとも…」
闇が、笑った気がした。