ちぐはぐの感情
ターミナル付近にある一番大きなホテルの最上階、所謂スイートルームに千鳥と千春はいた。気を失った女を連れてホテルの一室を借りる人間など、普通ならば通報されてもおかしくない。しかし訝しむフロントスタッフに十分すぎる程の"チップ"を握らせれば、快く部屋へと案内された。
キングサイズのベッドにゆっくりと千春を降し、目にかかった髪を梳くと「うっ、」と小さな呻き声が上がった。その小さな千春の唇を、千鳥の長い指がなぞる。愛おしげに細められた目は、この世の全てを遮断し目の前の女しか見えてない。恋は盲目とはよく言ったものである。千鳥のもつその感情が、恋などという可愛らしいものであれば、今この瞬間も他人が羨む甘い空間だったに違いない。
「……ん、」
ピクリと千春の睫毛が震え、ゆっくりと瞼が上がる。ぼんやりとした瞳は焦点が定まらない。そんな様子の千春に千鳥はくすりと笑った。「起きた?」甘い甘いその声に、ピッタリ3秒間止まった千春の思考は急激に活動を再開させた。勢いよく体を起こし、 起こそうとして、それが出来ないことに頭が困惑する。
「な、ん…で…」
「まだ起きない方が良いですよ。体がまだ追いついていない。」
さらりと優しすぎる手つきで髪を撫でられ、千春は益々戸惑った。千鳥が自分に向ける感情と行動が理解できなくて、不安で泣いてしまいそうになる。殺されるのか、監禁されるのか、また何処かへ連れて行かれるのか、放置されるのか。この後の展開が千春には全く読めない。
「千春さん、この世界は気に入りましたか?」
「…やっぱり、此処は…異世界、ですか?未来……過去?」
カラカラに乾いた喉のせいか、力が入らない体のせいなのか。上手く声が繋げない事に千春はもどかしさを感じる。震える手をついて起き上がろうとするも、力なく直ぐに元の位置へと戻ってしまった。
そんな千春の様子を見た千鳥が、枕にもたれ掛かるようにして上半身を起こしてくれる。思わずお礼を言おうとして、 そもそもの原因を思い出してやめた。
「同じ世界です。この世界には何百何億という星が存在しています。此処は地球と地球。似て非なる星です。」
穏やかな千鳥の言葉は、まるで教師のようだと千春は思った。落ち着いた声質はこの事態を当たり前のように受け止め、まるで戸惑う千春が可笑しいのだというように宥められているような気さえする。
心が混乱するばかりの千春は、慎重に言葉を選ぼうと頭をフル回転させた。千鳥は別に怒ってはいない。感情に任せて殺される訳では無さそうだ。けれど、決してハッピーエンドに転がりそうにもない。
「千鳥さんは、私のいた"地球"から来たんですか?それとも、この"地球"?」
「どちらでもありません。強いていうので有れば、この地球でいう"天人"というものでしょうか。」
天人。
それはこの世界に来て一番驚くべき存在であった。宇宙から来た地球人とは異なる存在。しかし元のいた世界で特集されていたような典型的な【宇宙人】ではなく、見た目も様々、能力も様々。中には地球人と全く同じような容姿の者もいる。それは、銀時の家にいた神楽や定春も該当した。
「千鳥さんが、天人…」
「えぇ。私達は刻をかける一族です。未来や過去という概念ではなく、音速や光速を越えてこの宇宙の中にある凡ゆる星を渡り歩く事ができるのです。」
ゆっくりと、千鳥の大きな手が千春の目を覆う。反射的に目を瞑ると、暗闇の中から千鳥の落ち着いた声が耳朶のすぐ側を落ちる。
「そうして、出逢ったのが貴方です。千春さん。」
千鳥はこれまで様々な星を渡り歩いてきた。荒れ果てた星、栄えた星、侵略された星、隠れるように存在する星、薄暗い星に、平和な星。その星々の中で多種多様な生物を見てきた。そうして、この江戸と似た地球に降り立ち、千鳥は千春に出逢ったのだ。
「私はね、自分が体験した事と、様々な星を見て学んだのです。」
千春は視界を塞がれ千鳥の顔が見えないというのに、どうしてか千鳥が今にも泣きそうな顔をしているのではないかと思った。声も震えてなどいないし、降ってくる言葉も実に落ち着いた口調だ。それなのに、まるで千鳥が迷子の子供のように、泣くのを我慢しているような気がしてならない。
「千鳥、さん…」
「この世界は不純理だ。奪われたくないのなら隠さなければならない。返して欲しければ奪わなければならない。不公平だとか、卑怯だとか、正当性や残虐性なんて、そういう言葉は誰の元にも届かないのです。」
千春をこの世界に送り込んだ時、不安から、孤独から自分だけを探し自分だけを頼りに生きると思っていた。それなのに、千春は自分が思ったより強く、自分では無くたまたま居合わせた銀時たちに頼る姿が気に食わなかった。
もっと必死に、自分を探してくれるかと思ったのだ。自分がいなければ世界の理不尽さに潰され、壊れてしまうのだと。けれど、千春が求めたのは千鳥ではなかった。泣き叫ぶ事もなく、誰かに弱音を吐くでもなく、自分の不安を押し殺し誰かの為に笑い続ける千春が、千鳥は憎くて堪らなかった。
「…千春さん、私は貴方が愛おしい。側にいて欲しいし、いつか死んでしまうのならいっそ私の手で殺してしまいたい。貴方が手に入るのならば、どんな手でも使うでしょう。」
ゆっくりと、千鳥の手が千春から離れる。漸く瞳に映る千鳥に、千春は軽く息を呑んだ。
異常だと思った。
千鳥のその感情が、言葉が。
それなのに千春は千鳥の拘束を振り解けないでいる。力の入らない手でも、抵抗を示すことは出来るはずなのに。
(っ何で 、)
もっと、残酷なら良かった。
もっと、非道ならよかった。
そうしたならば、千春は千鳥を憎むことができるのに。
そんな風に、嫌われるのを恐れるように笑う人を、どうしても憎むことができないでいた。