『In The Dream.01』(番外・短編)

クロコダイルは夢を見ていた。それは夢だった。

彼の左手は鉤爪ではなく、昔のように掌を見せていたし、その左手を自身の顔に這わせると、顔を横断している筈の縫合痕もないことに気が付いた。

だから、これは確実に夢だった。

自身の状態をそこまで理解した瞬間、クロコダイルは海の中に沈んでいた。

(これは、死ぬ)

クロコダイルの脳裏に死が過る。

彼が食べた悪魔の実は、食べた者をカナズチへと変える。
泳げないクロコダイルの口の中に、一気に流れてきた海水に酸素を奪われ、急速に意識が奪われていく。

咄嗟に死を覚悟したクロコダイルだったが、視界の端に見慣れた顔が見えて、彼は思わずそれに手を伸ばしていた。

伸ばした手を、掴まれて、徐々にだが確実に近付いていく鈍く赤い光。海面から顔を出すと、肺いっぱいに広がる空気。
激しく咳こみながらも呼吸を繰り返すと、クロコダイルの腕を引っ張っている女もゴホゴホと咳き込んでいた。

2人でなんとか浜辺へ上がり、クロコダイルは長く息を吐いて砂の上にごろりと寝転び、女は両手を砂に付け、咳き込み続けていた。

アラバスタの乾いた砂とはまたちょっと違う、濡れた砂を背中に感じながら、クロコダイルは長く息を吐き出す。
水の中にいるときにはわからなかったが、あたりは夕日が落ちかける時らしく、2人は赤く照らされていた。

「大丈夫ですか?」

寝転んだまま、声のした方に顔を向けると、やはりよく知った顔が心配そうにクロコダイルを見つめていた。

それはクロコダイルの元でメイド長として働いているアスヒだった。

だが、彼女は幾分幼く見えたし、服装もいつも着ているメイド服ではなく、クロコダイルが今まで見たことがない服を着ていた。

「…珍しいもん着てるな」
「え? ただのセーラー服ですけれど…」

隠すことなく困惑の顔を見せるアスヒにクロコダイルは違和感を覚える。が、それは夢の性だろうと思い直して、ようやく身体を起こす。夢とはいえ災難だ。
まだ塩水で濡れている状態で、身体は酷く怠いが、近くにはアスヒしかいない。クロコダイルは自然と警戒心を解いていた。己への危険はアスヒが排除するだろうから。

クロコダイルは特別何かをすることもなく、ぼんやりと波打ち際を見つめていると、アスヒは心配そうな顔をして彼の顔を覗き込んだ。

「本当に大丈夫です? 海水飲んじゃいましたか?」
「たいした量じゃねぇよ。
 …てめぇは何しにここにいやがる?」

問いかけると、アスヒはわかりやすく表情を歪めて無言になった。膝を抱えて座っている彼女は小さく震えているような気がする。
彼女の震えは海水で濡れたからというわけではないだろう。横目で見つめていると、彼女は弱々しく微笑んでからぽつりと声を零した。

「ちょっと、泳ぎに」
「…へぇ」

肌寒く感じる夕日も落ちかけた時間帯。アスヒの服装は泳ぐには向いていないように思えたし、アスヒは海水はベタつくから嫌だと零していた覚えがある。
彼女が泳ぎに来たとは素直に思えないクロコダイルは葉巻を吸おうとして、この場にはないことを思い知った。

すぐに2人の間に会話がなくなる。クロコダイルは元から雄弁な方ではなかったし、アスヒもまた、今日はとても大人しかった。
やがて無言の空間に耐え切れなくなったかのようにアスヒがおずおずと小さく口を開いた。

「貴方はどうして溺れてたんですか? 貴方も自殺をしに?」

(……貴方『も』、か)

そうしてクロコダイルはアスヒがただ泳ぎに来たわけではないことを確信し、そして彼女らしくない言動に違和感が強くなる。
それをあえて指摘はしないまま、クロコダイルは目の前のアスヒへの興味が強くなっていた。

「俺は気づいたらそこにいた。俺は自分から死ぬ気はねぇよ」
「…ふふ。ですよね」

淋しげに微笑んだアスヒに、何故か無性に腹が立って、クロコダイルはひとつ舌打ちをする。
その舌打ちを聞いて、わかりやすく肩を震わせたアスヒ。舌打ち程度で怖がる女ではないと思っていたが、目の前にいるアスヒは違ったらしい。
だが、それに対して謝罪する気はさらさらないクロコダイルは、海を眺めながら問い返す。

「てめぇはなんで自分から死のうとしてたんだ?」
「………」

クロコダイルの問いで、やっと自分の失言に気がついたらしいアスヒが、深く黙り込む。
彼がちらりとアスヒを見ると、彼女と目があって、アスヒはぱちぱちと瞬きをしてから次に寂しそうな微笑みを浮かべた。

「死ねば変化があるかもと思ったので」

言葉に、クロコダイルは心底くだらないと思った。
彼は今まで、他人への不満を、自分が変わることによって解決したことはないのだから。

「てめぇが死んだところで何も変わらねぇよ」
「そう、でしょうか。
 あの人達も少しは反省したりしませんかね」

希望をアスヒは口にする。クロコダイルはまた嘲笑うように鼻を鳴らした。
今は何故か元通りになっている自分の左手を軽く握って、静かに彼女に答えていく。

「しねぇだろうな。
 反省したとしても、てめぇなんてすぐに忘れられる」
「………」
「無駄なことすんなってことだな」

普段に比べれば異常に軽い左手を振り払うと、アスヒはあからさまにむすとした表情を浮かべた。

「あーあ、本当、疲れちゃいます」

アスヒはどこか吹っ切れたように砂の上に転がった。乾ききってない服に砂がついたが、彼女は気にすることなく足を伸ばす。
くつくつと笑ったクロコダイルはアスヒを横目で見て、そして一瞬だけ視線を鋭くさせる。

クロコダイルが静かに言葉を紡ぐ。

「てめぇに何か悪さする奴らでもいるのか?」

アスヒは鋭い視線を向けたクロコダイルに気がついた様子も無く、身体を横にしたままクロコダイルに微笑んだ。

「まぁ、そんなところです。
 でも私が悪いのかもしれませんから」

寂しげに微笑むアスヒは確かに綺麗だった。
だが、クロコダイルはそれよりも綺麗に笑うアスヒを知っていた。

気に食わないけれど、それを見た時には綺麗だと思ってしまう笑顔を、彼は知っていた。

「内心じゃそうは思ってねぇだろ?」

そうやって声をかけてやると、アスヒは一瞬だけ驚いた顔をしたあと、クロコダイルがいつも見る、余所行きの作った笑顔を見せた。

「……はい。みんな屑ばっかりだと思ってます」

クロコダイルから見てもその笑顔はやはり綺麗に思えた。彼女は、どこまでも演じることの上手い女だった。

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